【コラム・平野国美】疎開先の長野県松本で捕まえた1匹のオケラから、この少年の物語は始まります(コラム40)。それからは山を歩き回り昆虫を捕まえる日々でした。夜は、それらを観察しながら遊ぶ日々。授業中も校庭に出て虫を探す日々。不思議なことに成績は良く、母の助言もあり昆虫学を究めていくのです。
大学院を出て、それからはつくば市の研究所の日々。海外へも視察に出かけ、虫と戯れる日々。若いころの博士を知る人に尋ねると、「仕事と趣味が一致していて、あんな幸せそうな人は見たことがない」と。学術的なことは分かりませんが、博士が執筆した一般向けの新書を読むと、虫に対する愛情とウイットに富んだ表現が魅力的です。
こんなやり取りもありました。「博士、生まれてくるのが早かったですね。あと50~60年遅かったら、昆虫のかぶり物を着て『こんちゅう君だよ!』ってテレビに出るか、YouTubeで人気が出たかも知れませんね」。「私は4本の手足しかありません。昆虫になるには6本が必要です。最近の虫を擬人化する動向には賛成できません」とお怒りになりました。
奥様によると、定年後、研究仲間の逝去を聞くと、気力が落ちていくのが分かり、見ていて辛かったそうです。最近の診察に際しても、その寂しさを嘆いていました。
博士を信じる母、支える奥様
「悠仁さまも筑波大に御入学されたわけで、お呼びがかかるかも知れません。授業の準備でもされたらどうですか」と聞くと、現役時代に皇室に何度か出向かれ、皇室の方がつくばに視察に来られたときにもお話をしているそうです。奥様は「菊の御紋の入った盃(さかずき)をいただいたこともあります。夫はあまり関心を示しませんでしたが、姑(しゅうとめ)が涙を流して喜んでおりました」と話していました。
この姑さんが博士の母で、夫が原子力や医学分野への進学を進める中、息子が昆虫の道に進むことを勧めた方です。博士が大成したのは、彼を愛して信じる母と、その後を支える奥様の愛情が重要なのだと思われます。
子供時代のさかなクンと母の関係について、こんな話を聞いたことがあります。学校の先生が「もっと授業に集中してもらいたいです」と母に伝えても、母は「いや、うちの子は魚が好きで、絵を描くのが大好きなので、それでいいのです。みんな勉強ができて、みんな同じように育ったら、ロボットみたいじゃないですか」と言ったそうです。
ここまで言える母親はなかなかいませんね。私には教育に口を出す資格はありませんが、現代の金太郎飴(あめ)を製造するような教育は、限界にきているのではないでしょうか。(訪問診療医師)