【コラム・奥井登美子】
「登美子、土浦の人と結婚する話があるんだって? 結婚は自由だけれど、土浦は困る」
「なぜなの?」
「土浦くらい怖いところはない。僕は学生時代に学徒動員で土浦海軍航空隊に入り、土浦にいた」
「敗戦後、変わったでしょう。もう、大丈夫よ」
「大丈夫じゃない。僕にとって、土浦がまだまだ怖いんだ。言葉もすごい。そう、けっ、けっ、け…と、怒鳴るんだ。」
中学3年生のとき、私は疎開先の長野県から東京の学校に転入し、母や弟たちが疎開先から戻れない少しの間、父、兄と3人で生活していたことがあった。そのとき、兄は「戦争で亡くなった友達に、なんと言って説明していいかわからない。僕はどうしたらいいんだ」。そう叫んで、友達の墓のある多摩墓地に行ってしまった。
私と父は真夜中、兄の名を呼びながら広い多摩墓地を探し、墓の前で蹲(うずくま)って泣いている兄を見つけ、父が説得し、一緒に帰ってきたことがあった。同じ日に、同じ場所で殴られ、彼は亡くなり、兄は生きて帰ってきた。そういう関係の友達だったらしい。
兄の加藤尚文と私とは10歳も年齢が離れている。学生時代に招集され、そこで何か特別なことがあったようだ。
憲法記念日に結婚式
奥井誠一は当時、東大薬学部裁判化学の助教授だった。私のどこが気にいったのかわからないが、自分の弟の清と私の結婚を強く望んでいた。私は兄が土浦を異常なくらい怖がっていることを、誠一先生に伝えた。
「学徒動員で精神的におかしくなってしまった学生はいっぱいいるよ。そうだ、彼らは新しい憲法に期待しているから、憲法記念日に結婚式をやろう。そうすれば兄様の気持ちが少し変わるかも知れない」
先生は5月3日の憲法記念日に神田学士会館を予約してしまった。仲人などはいない、奥井家と加藤家の親戚と家族だけのささやかな結婚式。牧師の中村万作先生の司会で、母の奥井志づがオルガンを弾いて、讃美歌と結婚のお祝いの唄「慈しみ深き…」など、皆でたくさん歌った。尚文兄も、ひと安心したようであった。
兄はその後、経済評論家としてテレビなどがない時代のラジオで盛んにしゃべっていたが、60歳のとき、前頭葉の脳腫瘍を起こして入院し、意識が戻らないまま亡くなってしまった。
兄の訃報が新聞に載った。共通の友達から電話があり、「加藤君は、土浦海軍航空隊のときに教官に殴られて、意識不明になり入院したことがあります」「土浦は怖いと言っていましたが、何が怖いのかはわかりませんでした。殴られたところが腫瘍になったのかどうかは、今となってはわかりません」
憲法記念日は、私にとって、さまざまな思い出が詰まっている。(随筆家、薬剤師)