月曜日, 11月 24, 2025
ホームスポーツ若い世代が競技に打ち込める環境づくりへ 県パラスポーツ協会設立

若い世代が競技に打ち込める環境づくりへ 県パラスポーツ協会設立

障害者スポーツの普及・発展などを目指す一般社団法人「茨城パラスポーツ協会」がこのほど設立され、8月31日、土浦市内のホテルで設立式が開催された。パラスポーツの振興、障がいに関する理解の促進、自立と社会参加の促進、多様性の尊重と共生社会の構築ーの四つを設立目的とする。大井川和彦知事のほか国会議員、県会議員、周辺市町村長ら多数が来賓として出席し鏡開きによって門出を祝った。

代表理事を務める皆川鉄雄さんは「スポーツを通じて得られる絆や達成感、自己成長の機会を、より多くの人々に広げたいという思いから設立した。特に、若い世代が競技に打ち込める環境を提供し、彼らがスポーツの素晴らしさを実感しながら成長できる機会をつくりたい」と構想する。皆川さんはシッティングバレーボール日本代表としてパラリンピック北京大会と東京大会でともに8位入賞した。

鏡開きの後。田山東湖茨城県議会議員が乾杯の音頭をとった

協会設立は励みに

所属選手のうち最年少は9歳の冨嶋美月さん。2歳のとき脊髄梗塞で障害を負った。リハビリ入院していた阿見町の県立医療大に車いすバスケのチームがあることを知り、体験会を経て練習に参加するようになった。

同チームでは年齢や性別、障害の有無も問わず一緒に練習に励み、他県のチームなどと交流試合もしている。「大学生や大人の人と混ざってやるとテクニックの練習にもなるし、シュートも入りやすくて楽しい」と美月さん。

スキーやバスケを楽しむ美月さん(協会設立趣意書より転載)

4歳からパラスキーも始めた。ガイドの人にロープで引っ張ってもらいながら滑っていたが、今年からは一人で滑って止まる練習もしている。中学生になったら一人でリフトに乗ることにも挑戦したいという。

「活発な子なので、歩けなくても何かスポーツをさせてあげたいと思ったが、最初はどこへ行けばできるかも分からなかった。テレビで見るパラスポーツも大人ばかりだったので、最初は『子どもでもできるんですか?』という質問からスタートした」と母の里美さん。「これからもいろんなスポーツにチャレンジさせてあげたい。協会の設立はこれから始めたい子にも、続けていきたい子にも励みになると思う。できてよかった」と喜ぶ。

サポート受け情報交換の場にも

「選手の頑張りを通じて、パラスポーツによって障害者がこんなに元気になっているんだと一般の人たちにも伝えられ、障害があってスポーツをやっていなかった人にも知ってもらう良い機会になる。協会があることでさまざまなサポートが受けられ、情報交換の場にもなると思う」と話すのは、車いすバスケ女子日本代表のチームドクターを務める筑波大学医学医療系リハビリテーション科准教授の清水如代さん。自らも健常者として車いすバスケの練習に参加しながら、選手にどういう困りごとがあるかや、どういうけがをしやすいかなどを研究する。「所属選手には日本代表を目指す子もいる。競技力向上やパフォーマンス向上のためのサポートもしたい」という。(池田充雄)

◆同協会はビジョンに共感し、共に歩んでくれる協賛企業を募集している。問い合わせは電話029-832-4699(一般社団法人茨城パラスポーツ協会)へ。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

4 コメント

4 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

スズメの記憶二つ《鳥撮り三昧》7

【コラム・海老原信一】今回はスズメの話を二つしてみます。一つは、野鳥の観察・撮影を始める前のことです。小学生3人の子供たちを連れ、栃木県小山市にあった「小山遊園地」へ出かけた際の出来事です。当時、この遊園地は存在感がある施設でしたが、20年ほど前に閉園となり、今は大型ショッピングセンターになっています。 運転席の窓を全開にして、下館から結城を抜け、小山市内を走っていた時、全開した運転席に小さな塊が飛び込んできました。驚きましたが、すぐスズメであるのが確認できました。車内はこの出来事に興奮状態です。 スズメは自分のいる所が本来の場所ではないと思ったのでしょう、フロントガラスに向かい飛び出そうと羽をバタつかせています。私も、まさかスズメが同乗者になるとは想像もできませんでしたが、右手を伸ばし、ダッシュボード上で動けなくなっているスズメ保護できました。ケガはしてないようでしたので、窓から放鳥しました。 もう一つは、野鳥の観察・撮影を始めて10年ぐらい経った時のことです。「花と鳥」という定番の情景を求めて、何日か同じ場所に通っていました。今日で一区切りと思いながら、周りを眺めていると、視界の下方で何かが動き、自分の方に這い寄って来る気配。見ると、1羽のスズメが足元に来てうずくまりました。 人からは逃げるはずのスズメがなぜ? そう思ってよく見ると、足元にうずくまったまま動く気配がありません。目は半分閉じられ、ゆっくりとした呼吸が感じられるほどでした。見るからに弱っており、残された時間の長くないことがわかりました。 足元に寄って来たのは、冷えてきた自分の体を温めたいと人の体温を求めたからではないか? でも私はじっとしている以外になすすべがなく、かなりの時間そのままでいました。やがて動かなくなったスズメをそのまま置き去りにするのが忍びなく、近くのヤブに隠しました。生きている時間を少しでも遅らせることができればと。 二つの記憶。一つは楽しかった記憶。もう一つは切なかった記憶。これからも、野鳥との関わりの中で多くの記憶を残せたらと思っています。(写真家)

いくつかの符合 記憶の継承(1)《文京町便り》46

【コラム・原田博夫】体験・記憶の継承は、意識的に行われる場合もあるが、偶然の場合もある。戦争や東日本大震災などは前者で、しかも社会的な取り組みが求められる。家族・知人の体験の多くは後者で、その発現は一般化しにくい。今回は、私自身の体験を紹介したい。 私の母方の祖父(1888~1976年)は、県会議員(1907~15年)を父に持ち、自身も地元の小学校長・村長を務め、二男五女に恵まれた(私の母は三女)。加えて、進学先の土浦中学(現在の土浦一高)では友人(後に町長)にも恵まれ、その長女を自分の長男(後に町長)の嫁に迎えた。その祖父が、私が土浦一高に進学した際、自分自身の体験を基に、友人との出会いの重要性を語り、激励してくれた。 武井大助と小泉信三のこと その祖父(自身は第7回=1908年3月=卒)は「自分が入学した土浦中学には、立派な先輩たちがいた。とりわけ、武井大助氏(第3回=1904年3月=卒、1887~1972年、東京高商=現在の一橋大学=卒、海軍主計中将。歌人としても知られ、戦後、安田銀行・文化放送社長などを歴任)は、学業成績もさることながら人格も高潔だった」と話してくれた。残念ながら、武井氏の具体的なエピソードを聞きそびれたが、この先輩の名前は記憶していた。 その後、私は慶應義塾に進学し、塾生(在学生)・塾員(卒業生)の必読書『学問ノススメ』『福翁自伝』『海軍主計大尉 小泉信吉』(前2書は福沢諭吉著、3冊目は小泉信三著)などを手に取ってみた。塾長・小泉信三(1888~1966年)は、『…小泉信吉』(1946年、300部限定私家版)で、1942年10月に南太平洋で戦没した一人息子への哀切をつづった。 自身は東京大空襲(1945年5月)で瀕(ひん)死の大火傷(やけど)を負い、『…小泉信吉』の公刊を固辞していたが、没後の1966年、文藝春秋から刊行された(文春文庫、1975年)。 一読では気づかなかったが、再読・三読してみると、信吉主計中尉(戦死後大尉)の死後、武井主計中将・海軍省経理局長が小泉邸へ弔問。信三博士は、海軍省へお礼に伺候(しこう)するなど、信三博士と武井中将の交流エピソードが登場する。この武井氏は土浦中学のあの大先輩ではないか、と思い当たった。しかも武井氏は、信吉中尉が乗船し轟沈(ごうちん)した戦艦・八海山丸の艦長・中島喜代宣大佐(戦死後少将)と中学同級生だったそうだ。 同書では、学校名への具体的な言及はないが、これは明らかに土浦中学である。歴史上の(偶然の)奇縁をもって、この関係性を明記しておきたい。 武井氏は二度目の弔問の際、「一筋にいむかふ道を益良夫の ゆきてかへらむなにかなげかむ」と詠んだそうである。これは、わが子顕家の戦没を嘆く北畠親房の気持ちにつながるものだ、と信三博士は記している。親房が、南朝・後醍醐天皇の意を体して、筑波山麓の小田に籠(こも)ったことは知られている。さらに、『…小泉信吉』私家本を出す際、編集者の依頼で横山大観(水戸出身)に巻頭の絵(群青で日ノ出の富士)を描いてもらいながらも、戦災で原稿とともに焼失したことも、茨城県人としては縁の符合を感じざるを得ない。 アダム・スミス輪読会 武井氏がこれほどまでに信三博士とのつながりを大事にしていたのは、東京高商教授・福田徳三(1874~1930年)の千駄ヶ谷宅でのアダム・スミス輪読会(福田が慶應義塾大学教授だった1905~18年ころか?)に、2人が学生として同席して以来の関係性に由来するようである。 ちなみに、武井氏は1911年(当時は中主計)、英国王ジョージ5世戴冠祝賀で英国を訪れた際、スミスの生地・カーコーディに足を延ばしたが、スミスの痕跡はほとんど残っていなかった。しかしその後、案内した現地の人たちによってスミス顕彰の動きが始まったようである。このエピソードは、小泉信三著『読書雑記:アダム・スミス』(文藝春秋新社、1948年)に記されている。(専修大学名誉教授)

自動運転バス「レベル4」27年度実現へ つくば市で3回目の実証実験開始

つくば市で21日、公道を使った自動運転バスの走行テストを行う実証実験が始まった。ルートは、つくば駅から筑波大学構内を循環する約10キロの既存のバス路線で、所要時間は約40分。一般の乗客を乗せて1日4便の運行を来年1月23日まで続ける予定だ。同市は2027年度に、運転手不在の状態で、特定の条件下で完全な自動運転が可能となる「レベル4」の実現を目指している。 この実験は、昨年と今年1月に続いて3回目となる。今回はこれまでと同様、状況に応じて運転手が操作を行う「レベル2」での実施となる。 今回は、国の補助金を活用して関東鉄道が自動運転バス車両を新たに購入し、同社のバス路線「筑波大学循環」内のすべてのバス停に停車するなど、新たな取り組みも加わった。また、今年8月にはつくば市を代表として、筑波大学、関東鉄道、KDDIが「つくば自動運転社会実装推進事業コンソーシアム」を設立。民間5社の協力も得て実施されている。 今回使用されている車両は、名古屋市のベンチャー企業ティアフォーによる自動運転EVバス「ミニバス 2.0」。最高時速は70キロ、定員は28人だが、自動運転時は時速35キロ、定員16人で走行する。走行時には8台のカメラと13台のレーザーセンサーが周囲の状況を分析し、事前に設定した走行ルートに従って自動安全システムが交差点やカーブでの停止・発進、加減速などを行う。緊急時には乗車する運転士が手動運転で対応する。この日は通信トラブルが発生し、バス停での停車・発車時などで手動操作に切り替え運行した。 つくば市科学技術戦略課の中島央樹さんは、今回の実証実験について「国は、全国で自動運転サービスの実装を2025年度に50カ所、27年度に100カ所以上とする目標を掲げている。つくば市もこれに合わせ、27年10月に完全に運転手がいないレベル4の実装を目指している」とし、「昨年は6カ所のバス停のみ停車したが、今回は、路線バスと同じ動きをすることを目指し、29カ所すべてに停まるようにした。以前はつくばセンターのロータリー外側から発車していたものを、内側からの出発に変更した」と説明し、「つくば市に限らず、中心部と周辺地域の移動格差が課題となっている。つくばは車が主な移動手段で、交通渋滞や事故が問題になっているほか、交通事業者では運転手不足による減便などの課題もある。自動運転バスの運行を通じて公共交通を地域に根付かせ、こうした課題の解決につなげていきたい」と目標を語った。 同市は今年度当初予算で、国の国庫支出金を財源に、自動運転バスの購入費、自動運転地図作製費、レベル4通信費など約1億3400万円と、自動運転バス年間維持費約1370万円の計1億4770万円を計上した。今年度は実証実験とレベル4許認可申請、26年度は実証実験、27年は定常運行を目指している。(柴田大輔) https://youtu.be/FfSoeYhtxLI ◆乗車料金は無料。QRコードで希望の時間を事前予約する。事前予約がない場合は先着順となり、定員に達した場合は乗車できないことがある。詳しくはつくば市ホームページへ。

ナショナルトラストと自然共生サイトが同時実現《宍塚の里山》130

【コラム・森本信生】市民の意思で土地を守る「ナショナルトラスト」と、国が認定する新制度「自然共生サイト」。歴史のある活動と新しい仕組みが、宍塚の里山で本格的に重なり合った。 ナショナルトラストの特徴は、市民が資金を出し合い、自然や歴史的環境を「自分たちの手で」次世代に引き継ぐ点にある。発祥は1895年のイギリス。急速な都市開発が進むなか、「失われゆく景観を市民の力で守る」ことが出発点だった。 日本でも1964年、鎌倉・鶴岡八幡宮裏山の開発を防ぐため、市民と市が協力して土地を買い取った例が最初とされる。現在、日本ナショナルトラスト協会に関わる団体の会員は計17万人、保全地は約1万5000ヘクタールに及び、市民による継続的な取り組みとして根付いてきた。 一方、自然共生サイトは、生物多様性の国際目標「30by30」達成のために創設された制度である。国立公園のような法的保護区だけでなく、民有地や市民団体が管理する森も、一定の管理水準を満たせば保全エリアとして国の認定を受けられる。科学的根拠に基づく評価と行政の審査が特徴で、信頼性の高い新しい仕組みといえる。 この二つが交わったのが、宍塚の里山だ。9月16日に自然共生サイトに正式認定されたのは、前回のコラム129で紹介したが、それに続き、9月25日には日本ナショナルトラスト協会から助成金の交付が決定。「キャンエコの森」と呼ばれる447平方メートルの雑木林を対象に、宍塚でナショナルトラストが実現した。 自然共生サイトに認定されたのは三つの森であるが、残る二つの森は、すでに会の基金や寄付によって取得済みなので、今回登録された自然共生サイトすべてが「自ら土地を持つ」形で保全される体制が整ったことになる。 市民と行政が自然を守る新モデル 宍塚における常磐自動車道路のスマートインターチェンジの設置決定や、つくばエクスプレス(TX)のつくば駅から土浦駅への延伸構想のなかで、宍塚の里山の保全をいかに図るかが課題となっている。このような情勢のなかで、宍塚で実現したナショナルトラストと自然共生サイトの両者の組み合わせには、意義があり、大きな相乗効果が期待できる。 市民参加と土地所有というトラストの強み、国の認定による制度的裏付けを提供する自然共生サイトの強み。これらが重なることで、価値のさらなる明確化、資金調達の安定性、企業・行政との協働の広がり、科学データの蓄積、地域ネットワークの強化など、多角的な効果が見込まれる。 宍塚の里山は、市民と行政が連携して自然を守る新しいモデルとして、その持続可能な保全がより力強いものとなっていくだろう。そして、その成果が、土浦の誇りとなり、日本全体、さらには世界に波及してくことを強く願っている。(宍塚の自然と歴史の会 理事長)