【コラム・山口絹記】つくばで暮らすようになって10年が経つけれど、最近のように暑さの続く夜道を歩いていると、ふと遠くに来てしまったような感覚に襲われることがある。
最初の数年は、単に自分がこの街に慣れていないからだと思っていた。たまに地元に帰ると感じる懐かしさは、単純に慣れ親しんだ風景によるものだと疑うこともなかった。しかし、違ったのだ。この街には、潮の香りがない。違和感の原因は、何かがあることではなく、何かがないことだったのだ。
私は東京のいわゆる下町で育った。家から少し歩いても海が見えるわけではないが、比較的東京湾は近く、隅田川をはじめとしたたくさんの川が流れている。地図を眺めれば、「深」や「洲」、「潮」など、水に由来のありそうな地名ばかりで、特に夏の夜になると、決まって海から流れてくる風に乗って潮の香りがする。住んでいたころは全く気が付かなかったが、それはいつのまにか、自分にとってあって当然のものになっていたのだろう。
つくばの香り?
さて、この半年ほど、なんのご縁か、再び育った街の近くで仕事をすることになった。近くとはいえども、少し内陸寄りのせいか、夜になっても潮の香りはしない。しかし、つくばとも何か違った香りがするのだ。
「何の香りなんだろうなぁ」と夜道をスンスンしながら歩くのだが、いまだによくわからないでいる。はたから見たら完全に不審者なのだが、気になるので仕方ない。スンスンしながら夜道を歩く。そして、つくばエクスプレスでつくばまで戻り、駅を出ると「ああ、つくばに帰ってきたな」と感じるのだ。これはもしかすると、つくばの香りなのだろうか。わからない。
まぁ、私がその要因に気づくのは、いつか遠くに引っ越した時かもしれないし、一生わからないのかもしれない。それでも、いつかその何かが、自分にとって当然のものになってくれたらうれしいような気がしているのだ。(言語研究者)