火曜日, 10月 6, 2026
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裁判所は水俣病患者を救済しないのか《邑から日本を見る》157

【コラム・先﨑千尋】いつものように3月下旬には水俣から甘夏が届く。「他人に毒を盛られた者は他人に毒を盛らない」。50年近く前、海で魚を取れなくなった水俣病の患者たちは、そういう思いで陸に上がって甘夏を作り続けてきた。その甘夏を口に入れる。甘酸っぱい果汁が口の中いっぱいに広がる。何度も通った水俣のミカン畑に思いをはせる。

そんな折、ショッキングなニュースが届いた。先月22日に、熊本地裁は水俣病患者の訴えを退ける判決を下した。この裁判は、2009年施行の水俣病被害者救済特別措置法(特措法)に基づく救済策の対象外となった144人が、国と熊本県、原因企業のチッソに損害賠償を求めていたもの。同様の裁判で、原告全員を救済した昨年9月の大阪地裁判決とは大きく異なる判決となった。

原告側は、チッソ水俣工場から不知火海(しらぬいかい)に排出されたメチル水銀を、魚介類を通じて摂取したことによる水俣病だと主張。大阪地裁は原告側が訴える手足の感覚障害の原因を検討し、「水俣病以外の原因では症状を説明できない」として法律の線引きを一蹴し、原告全員を水俣病患者だと結論づけた。

しかし今回の熊本地裁判決では、疫学調査の結果や地元医師の診断書の信用性を疑問視し、25人のみを水俣病と認めた。そして、不法行為から20年経つと損害賠償請求権が消滅すると定める民法の「除斥期間」の起算点について、水俣病を発症した時期(大阪地裁は水俣病と診断された時点)とした。

このため、熊本地裁は水俣病と認めたものの、全員が発症から20年以上経過しているという民法の規定を適用し、賠償請求は棄却された。

環境省は特措法を遵守せよ

水俣病が公害病として認定されたのは1968年。しかし、いまだに被害の全体像がつかめず、国による救済策の対象外となった人たちは、これまで繰り返し司法に訴えてきた。特措法では居住地や出生年で線引きがあり、救済を受けられないまま取り残された人たちは裁判に訴えざるを得なかった。

そして、不知火海沿岸に住んでいた人の健康調査を速やかに行うと定めた法施行から15年経っても、実施のめどが立っていない。

私は、同じ趣旨の裁判なのにどうして裁判官によって結論が違うのかを考えてみた。判決文を書く基準の民法も特措法も同一だ。特措法の狙いは「あたう限りすべて救済する」だ。それなのに結論は真逆。裁判官の解釈によって結論が違うのだ。原告の1人は、判決後に「予想外の結果だ。頭が真っ白になった」と語っている。一方、環境省の担当者は「勝った」と話していると新聞は伝える。

なるほど、国は「勝った」。しかしその国とは何なんだ。森友事件に巻き込まれて自死した赤木俊夫さんは常に「私の雇用主は日本国民。その国民のために仕事ができる国家公務員に誇りを持っている」と話していたと聞く。裁判官も環境省の役人も、本来、国民のために仕事をするのが務めのはずだ。

水俣病の患者たちは法に触れることはしていない。チッソがまき散らした有機水銀を摂取した魚を食べ、身体がおかしくなった。その人たちをあたう限り救うために特措法ができたはずなのに、健康調査を15年もほったらかしにしている。それを裁判官も環境省の役人も認めず、環境省の役人は罰せられない。おかしいではないか。(元瓜連町長)

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