【コラム・山口絹記】ドイツ式の乾杯は、相手の目から目を離しちゃいけないんだ。日本でビールジョッキを持ち上げ、英語で話す台湾人の彼女の目を見つめながら、わたしはいろいろなことを思い出していた。
今からちょうど20年前の台湾。わたしは14歳で、彼女は12歳だったと思う。まだ共通の言語を持っていなかったわたしたちは、常に手近にある紙と筆記具で漢字と絵を書き殴り、身振り手振りで意思疎通をしていたんだ。もっともっと話したいことがあるのに、表現できない。伝えられない。これはわたしの、ことばというものに対する核となる想いだ。
彼女はあれからイギリスに留学した後、ドイツで結婚して今はホーチミンにいる。日本に来たのは久しぶりだ。駅の改札で待ち合わせをしたわたしたちは、さっと歩き出しながら英語で会話をする。紙と筆記具が無くても会話ができるというのは本当に便利で、幸せなことだ。
わたしたちは生まれる場所を選べないのと同時に、生まれた場所に依存するとは限らない母語を選ぶこともできない。しかし、幸いにも、わたしと彼女は共通する第二の言語を選択することができた。自分の話す第二の言語を自由に選択できるというのもまた、幸せなことだ。
英語8割に日本語と独語と台湾語
「さて、どうしようかな」とわたしが東京のビル群を見上げながら言うと、「ドウシヨウカナ」と彼女がマネをする。「You understand?」「No.」「I wonder what to do.」「ナルホド」わたしたちの共通言語はもはや英語だけではない。何語だろうと使えるものはすぐに学んでなんでも使わなければならない。
本屋には行きたい。でもあとはどこでもいいかな、と彼女は言った。あなたに会うことが最優先事項だったんだから、場所はどこでもいいよ。
違いない。まぁ、案内する身としては困らないでもないのだが。一日中話しながら、あてもなく東京を歩き回って、最後はわたしもよく知らない居酒屋に入った。日本に来たんだから日本酒にしようかと思ったが、ビールにした。大ジョッキだ。
中ジョッキと大ジョッキはどれくらいの量なのかと聞かれる。日本のそれはハッキリとは決まってないんだ。ドイツと違って。 Eichstrichもない。 英語8割に日本語とドイツ語と台湾語が混じって、ときおり自分がどこにいるのかわからなくなる。この感覚が、わたしは本当に好きなんだ。
ことばとは何なのだろう。学問の問いとして曖昧過ぎることはわかっているが、それでも考えてしまう。まぁいい。今はもう一杯だけ飲もう。わたしたちはもう一度、ドイツ式の乾杯をする。(言語研究者)