日曜日, 3月 15, 2026
ホームコラム安全保障戦略の転換と新年度予算案 《雑記録》43

安全保障戦略の転換と新年度予算案 《雑記録》43

【コラム・瀧田薫】昨年12月16日、政府は「国家安全保障戦略」を閣議決定し、同24日、防衛費の大幅増を含む来年度当初予算案を閣議決定した。これは戦後日本の安全保障政策の大転換であり、憲法9条に基づく「平和国家」と「専守防衛」の国是を揺るがすものだ。

記者会見で「唐突な決定ではないか」との質問に対して、岸田首相は「国家安全保障会議(NSC)や有識者会議で意見を聞いたし、与党のプロセスも経ているので、問題はない」と答えている。国民への説明は後回しということであろう。

さて、新聞各紙はどのように報じたろうか。社説を比較読みして、以下に見出しを列記してみた(「」内が見出し、・印が小見出し)。各紙の主張、その概略を把握できると思う。

▽茨城「信問うべき平和国家の進路」

▽毎日「国民的議論なき大転換」・揺らぐ専守防衛・緊張緩和する外交こそ

▽朝日「平和構築欠く力への傾斜」・反撃でも日米一体化・中国にどう向き合う・説明と同意なきまま

▽読売「国力を結集し防衛体制固めよ」・反撃能力で抑止効果を高めたい・硬直的な予算を改めた・サイバー対策が急務・将来の財源は決着せず

▽日経「防衛力強化の効率的実行と説明を」・戦後安保の歴史的転換・安定財源確保進めよ

▽産経「平和守る歴史的大転換・安定財源確保し抑止力高めよ」・行動した首相評価する・国民は改革の後押しを

国会熟議と国民説明が必要

茨城、毎日、朝日の3紙は批判的論調、読売、日経、産経の3紙は肯定的論調と、ほぼ予想通り。防衛予算についても同様の論調であった。意外だったのは、安保戦略の歴史的転換を扱っているにしては、各紙とも抑えた書き方をしている、そんな印象を受けたことだ。その分、今回は軍事や外交の専門家の発言が目立った。その中からいくつか拾い出してみよう。

香田洋二氏(元海上自衛隊自衛艦隊司令官)は、大幅増となった防衛予算について現場サイドによる検討がなされた形跡がないとし、予算の無駄は本当に必要な防衛力とトレードオフの関係にあるとして、予算の中身に深刻な懸念を表明している。(朝日、12月23日付)

田中均氏(元外務審議官)は、防衛予算の拡充も必要だが、それ以上に経済、技術、エネルギーなどの国力を強化すべきだといい、さらに外交とインテリジェンス(情報の収集と分析)の役割の大きさを強調した。

藤原帰一氏(東大名誉教授・国際政治論)は、新安保戦略の本質を「日米同盟のNATO化」であると喝破した。その上で、抑止力に頼るだけの対外政策は戦争のリスクを高めるとし、外交による緊張緩和の努力が欠かせないとした。岸田政権は抑止力強化には熱心だが、外交努力が足りず、そこが危ういと藤原氏はいう。

ともかく、安全保障について次の通常国会で熟議を重ね、国民に十分に説明しなければならない。国会議員自ら超党派で勉強会を開き、専門家の知恵を借りるなどすればと思うのだが、現状の国会では無理だろう。安全保障環境を整えるための最優先課題は、「この国の国会と国連それぞれの待ったなしの改革だ」と考える国民は少なくないはずである。(茨城キリスト教大学名誉教授)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

3 コメント

3 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

土浦の花火100年の紡ぎ(3)功労者たち《見上げてごらん》50

【コラム・小泉裕司】今回は戦後の競技大会を牽引した功労者を取り上げたい。最初は、このコラムで何度も紹介した北島義一だが、その経歴は以下のようになる。 土浦創業の北島煙火 ▽1936年 霞ケ浦湖畔の岡本埋立地で「北島煙火店」として創業▽1945年 社名を「土浦火工株式会社」に変更▽1946年 全国に先駆け、中断されていた土浦の花火を復活▽戦後の競技大会化で強力なリーダシップを発揮▽1955~73年 北海道から中部地方まで広く事業を展開▽高度成長期の旺盛な需要に応え、各地の花火大会を受注▽両国(現・隅田川)の花火大会で開催された日本一決定戦で優勝▽輝かしい実績により「土浦の花火」の名声を全国的なものに 下妻の野手煙火 土浦全国花火競技大会が産声を上げたころ、土浦の花火文化を支えていた煙火業者がいたことをご存じだろうか? 1932年発行の『土浦商工會史』の業種別人名録「煙火の部」に唯一登録されているのは、田宿町(現大手町)の野手勝一氏。のちに野手煙火土浦支店を担う人物だ。 野手家は、下妻で明治中期から花火作りを学び、代々煙火業に携わってきた家系である。1933年に下妻町(現下妻市)に野手煙火工場を設立。1962年に社名を野手火工株式会社(社長・野手保)へと改めた。 歴史は古く、1926年に桜川畔で開催された第2回全国煙火共進會の打揚番組(写真)を見ると、「尺玉の部」に初代・野手喜一郎氏と二代目・勇治氏、「八寸玉の部」には勝一氏の名が刻まれている。 その後も、第54回、第55回大会で最高賞の通商産業大臣賞を連続受賞するなど、野手家はめざましい功績を残した。しかし、経営上の課題や後継者問題といった時代の荒波もあり、2013年、惜しまれつつも、その長い歴史に幕を下ろした。 土浦市は、1961年の第30回記念大会で、大会の発展に寄与した花火師として、北島氏らとともに勝一氏を表彰している。野手家は土浦の花火の草創期を支えた功労者であり、その歴史を語るうえで欠かすことのできないキーパーソンなのである。 北島の師匠、青木義作 大正末から第2次大戦にかけて、土浦や笠間をはじめ、全国各地で花火大会が大きな盛り上がりを見せた。このころは、のちに北島氏が師事する「花火の神様」青木儀作氏ら、花火史に名を残す名工たちが次々登場した時代でもあった。 しかし、1937年に日中戦争が勃発すると状況は一変する。火薬製造の取り締まりが厳しくなり、笠間、大曲、両国の大会など、大きな大会が次々と中止に追い込まれた。 こうした中、土浦市発行の「花火と土浦」の年表によれば、詳細は不明ながら、戦前の土浦では1940年まで開催されたと記録されている。これについて、筆者も当時の新聞記事などを調べたが、裏付けとなる事実は確認できていない。 戦火が激しくなると、細々と続けてきた花火も1941年には中止に追い込まれ、花火師たちも戦場へ駆り出されるなど、日本の花火史上、もっとも長く厳しい「失われた5年間」が訪れたのである。 「みんなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりつくっていたら きっと戦争なんて起きなかったんだな」。花火を愛した放浪のちぎり絵作家・山下清画伯が残したこの名言を添え、本日はこれにて、打ち留めー。(花火鑑賞士、元土浦市副市長) <参考文献>「土浦商工会史」(土浦商工会事務所、1932年刊)「茨城の諸職」(茨城県教育委員会、1989年刊)「日本の花火のあゆみ」(武藤輝彦、あずさ書店、2000年刊)「大曲の花火 100年の魅力」(秋田魁新報社、2010年刊)「花火と土浦」(土浦市、2018年)

49年 市民が清掃活動 水戸街道の松並木守る 土浦

文化財愛護の会 土浦市東若松町にある市指定史跡「水戸街道松並木」で14日、市民団体「土浦市文化財愛護の会」による清掃活動が実施された。清掃活動は1977年の同会発足以来、49年間にわたって続いている。現在、旧水戸街道で松並木が残っているのは、この東若松町~板谷七丁目周辺だけ。 江戸時代から続く貴重な景観 水戸街道は、江戸時代初期の1604(慶長9)年、幕府により千住(東京都足立区)―水戸間の29里19町(約116km)が整備された。脇街道という位置付けで、東海道などのいわゆる5街道に次ぐ主要な街道だった。江戸時代の街道には、通行人を暑さ寒さから守るために松並木が整備されていた。 「ただし木自体はマツクイムシなどの被害により植え替えが進み、江戸時代のものはおそらく残っていない。それよりも、松並木の景観を守り伝えることこそが重要」と、愛護の会副会長の小林静さん(80)。 この日は会員約30人が参加し、プロテリアル金属(旧日立電線)入口から「板谷の一里塚」までの1キロメートルほどの範囲を手分けして清掃。午前9時から11時までで、90リットル入りのビニール袋70個分ほどの枯れ松葉を集めた。例年は100袋ほど集まるのでやや少な目だそうだ。袋は軽トラック3台に山積みにされて清掃センターへ運ばれた。 会員の一人、塙秀弥さん(23)は筑波大学の4年生で4月からは大学院に進む予定。学芸員の資格取得のため文化財について学んでおり、地域の文化財がどのように守られているか興味があって入会したという。「この並木道に来たのは初めてで、太い幹が残っているのを見て驚いた。普段は素通りしてしまうものに目を向けるきっかけにもなった。清掃活動は誰かがやらないと景観を損ねてしまう。やってよかったし、これからも参加していきたい」と感想を話した。 史跡の手入れやパトロールも 会員の一部は松並木の作業を終えた後、同市小高の高崎山古墳でも清掃作業をした。今年は一色家住宅(西真鍋町、国登録有形文化財)、鉄砲塚(都和一丁目、市史跡)、大岩田の一本松(通称・予科練の松)なども予定するほか、文化財パトロールも随時行っていく。以前は地主や地域の手で管理されていたものが、人手不足により行き届かなくなるケースが増えてきているという。 愛護の会の会員数は、各研究部会を合わせて250人ほどになるが、高齢化も進んでいることが悩み。もっと認知度を高め、会員を増やして活動を継続させていきたいと、市の産業祭や各中学校区の公民館祭りに参加し、地域の文化財を紹介するといったPR活動にも力を入れ始めている。(池田充雄) ◆活動は会員外の見学・参加も歓迎。問い合わせは土浦市文化財愛護の会事務局(上高津考古資料館・古橋さん、電話029-826-7111)へ。

お上の悪には善では勝てぬ《映画探偵団》98

【コラム・冠木新市】1969年、篠田正浩監督が近松門左衛門作の人形浄瑠璃「心中天網島」をモノクロで映像化し、キネマ旬報ベストワンを授賞、映画界の話題を独占した。そして1970年には、河竹黙阿弥作の歌舞伎「天衣粉上野初花」をべースにした寺山修司脚本の「無頼漢」(カラー)が公開された。 「無頼漢」は、闇に浮かぶ浮世絵師・絵金の絵を効果的なセットに使い、原色の衣装などで天保時代の江戸文化を再現し、華麗な世界を作りあげた。しかし、「心中天網島」に比べると観客の盛り上がリは今ひとつ起きなかった。 「無頼漢」公開1年後の4月23日、私は篠田監督にTVスタジオで偶然に出会い、話をすることができた。「心中天網島」よりも「無頼漢」が気に入っていると伝えると、「うれしいですね。無頼漢のよさ分かってくれるとは」と言って、胸ポケットから封筒を取り出し、英語の新聞記事を見せてくれた。 「これ、ニューヨ一クで当たっているんですよ。すごい褒め方だ」。そこで「篠田さん自身、心中と無頼漢、どちらが好きですか」と尋ねると、「無頼漢に決まってますよ」と言い切った。 虚構の世界で悪役が活躍する時代 「無頼漢」は、役者志望の遊び人・直次郎(仲代達矢)、妻と息子を亡くした暗闇の丑松、水野忠邦の体制を批判して追われる三文小僧、数寄屋坊主の河内山宗俊(丹波哲郎)、こわもて商人・森田屋清蔵、御家人くずれの金子市之丞、この6人の悪党がお上に対抗する物語である。 直次郎が主役で「芝居小屋の外で芝居をする役者になりたい」と言わせている。河内山宗俊は、上州屋の一人娘が奉公先の武家屋敷で殿様から妾になれと言われて困っていることを聞きつけ、二百両で助け舟を出す仕事を引き受ける。直次郎は侍にふんし、河内山と一緒に屋敷に向かう。つまり、芝居小屋の外で人助けの芝居をうつことになる。 だが後半は、河内山が目立ってくる。御知僧に化けた河内山の正体がばれ、武家屋敷の玄関先で侍に取り囲まれ、啖呵(たんか)を切る丹波哲郎が圧倒的によい。「ええ仰々しい、静かにしろ。悪につよきは善にもと、世のたとえにもいうとおり、親のなげきがふびんさに…」 当時、丹波哲郎の名調子を褒める評論は多かった。「お上の悪には善では勝てぬ」と、悪党・河内山の痛快さは魅力的だ。江戸でも現代でも、虚構の世界で悪役が活躍する時代とは、管理体制と秩序でがんじがらめとなり、自由を失った証しではなかろうか。 もし、つくば市でリバイバル上映するとしたら、人形浄瑠璃の「心中天網島」と歌舞伎の「無頼漢」どちらが受け入れられるだろうか? サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家) <物語観光講座「つくつくつくばの七不思議」のお知らせ>▽講演「つくば市章に隠された記号の謎」▽映画『サイコドン』上映とおしゃべり▽3月28日(土)13時半~15時半、カピオ小会議室2、参加費無料

「桜のまち」研究学園の未来へ《けんがくひろば》18

【コラム・二木重光】つくば市研究学園駅前公園は、かつて日本自動車研究所の高速テストコースの一部に位置していた場所です。その歴史を今に伝えているのが、当時の所長さんらによって植えられた桜の木々です。春になると、やわらかな花びらが公園を包み込み、このまちの原風景ともいえる美しい景観を生み出します。新しい街でありながら、ここには確かに受け継がれてきた時間が息づいています。 しかし、その桜も長い年月を経て老木化が進んでいます。ここ数年だけでも病気や虫害の影響により、少なくとも6~7本が伐採されました。満開の華やぎの裏側で、静かに進む衰え…。 大切な風景が少しずつ失われつつある現実は、私たちに「守り、育て、つないでいく責任」を問いかけています。未来へ桜を手渡すためには、これまで以上に計画的な保全と、次の世代へと命をつなぐ取り組みが欠かせません。 そうした思いから、2026年2月17日、研究学園駅前公園の桜について、市公園施設課と意見交換の機会を持ちました。自動車研から引き継いだ桜の保存に努め、駅前公園を「桜の名所」として守り続けていくこと、さらに日本花の会・結城農場桜見本園の協力を得ながら、専門的な知見を取り入れて育成を進めていくことなど、方向性を共有することができました。 4月4日に「けんがくさくらまつり」 公園に残る「関山」「普賢象」「松月」「御衣黄」といった貴重な品種の系統を受け継ぐことは、単に樹木を残すことではなく、この地の歴史と記憶を未来へつなぐ営みでもあります。 研究学園エリアには、駅前公園だけでなく、学園の杜公園や調節池周辺に広がる千本桜など、春を楽しめる場所が広がっています。それらを点ではなく線として結び、面として広げていくことで、「桜のまち」という新たな魅力がより確かなものになるでしょう。 今年も、桜の季節を彩る「けんがくさくらまつり」が4月4日に開催されます(雨天時は4月5日)。会場は研究学園駅前公園古民家周辺。主役は地域の皆さんです。ステージでは音楽が響き、会場には絵画や書道の展示が並びます。子どもたちに人気の消防車の展示や、けん玉や竹馬などの昔あそびも予定されています。世代を超えて笑顔が交わり、桜の下で思い出が重なっていく1日になることでしょう。 桜は、まちの記憶であり、人々の心に季節を届ける存在です。守る人がいて、楽しむ人がいて、未来へと願う人がいる。その積み重ねが、風景を育てます。今年の春もまた、研究学園の桜が、多くの人の心にやさしい彩りを添えてくれることを願っています。(けんがく活動団体連絡会 委員)