【ノベル・伊東葎花】
はつゆきさんと出会った日、僕はまだ小学生だった。
遊び過ぎた帰り道、肌を切るような冷気に、思わず身を縮めた。
「そこのぼうや、早く帰りなさい。雪が降るわよ」
見上げると木の枝に、透き通るような白い女性がいた。
「雪? まだ11月だよ」
僕が言うと、彼女はほほ笑んで白い指をくるりと回した。
途端に、空から無数の雪が舞い落ちてきた。
灯りがともり始めた夕暮れの町が、幻想的な冬景色に変わった。
「わあ、おねえさん、すごい」
はしゃいで見上げると、木の枝に彼女はいなかった。
僕は彼女を「はつゆきさん」と呼んだ。
はつゆきさんは、初雪の季節になると必ず現れた。
ほんの一言、言葉を交わしてすぐに消える。
年に1度、わずかな時間を過ごすだけなのに、僕にとって彼女はかけがえのない存在になった。
僕は20歳になった。
寒さが足元からじわりと伝わる。今日、初雪の予報が出ている。
いつもの場所に向かうと、やはりいた。
はつゆきさんは、木の枝で静かにほほ笑みながら僕を待っていた。
「今年も会えたね」
「今夜は冷えるわ。温かくしてね」
はつゆきさんはいつものように、白い指を空にかざした。
「ちょっと待って!」
彼女が指をくるりと回す前に、僕は慌てて声をかけた。
「こっちに降りてきなよ。もっと話したい」
はつゆきさんは、戸惑いながら枝を離れ、僕の隣にふわりと舞い降りた。
子供の頃はずいぶん大人に見えたけど、今はまるで可憐な少女だ。
その細い肩に触れようとしたら、彼女はひらりと身をかわした。
「触れてはだめ。溶けてしまうわ」
彼女の身体は雪と同じだ。
僕たちは少し離れてベンチに座った。
時々話して、風に踊る枯葉をながめた。
そして明日も逢う約束をして別れた。
その日、初雪は降らなかった。
それから僕たちは、毎日逢った。
天気予報に雪マークが並んでも、雪は降らない。
やがて、はつゆきさんは少しずつ痩せていった。時おりつらそうに息を吐く。
もう限界だ。これ以上引き留めることはできない。
「今日で最後にしよう」
はつゆきさんは、悲しい瞳で僕をじっと見た。
そしてすっかり細くなった手で、僕の手を握った。
僕の体温が、はつゆきさんの方に流れていく。
「だめだよ。溶けちゃうよ」
はつゆきさんは首を横に振り、僕にそっと寄り添った。
溶けてしまう…。溶けてしまう…。
わかっているのに、離れることができない。
「さようなら」小さな声が風に消えた。
はつゆきさんは、木枯らしのベンチに僕を残し、きれいな水になってしまった。
はつゆきさんが消えた翌日、今年初めての雪が降った。
彼女の代わりの誰かがやって来て、雪を降らせたのだろう。
その姿は、僕には見えない。
きっと、やがて彼女と恋に落ちる、どこかの少年にだけ見えるのだろう。(作家)