土曜日, 9月 5, 2026
ホームつくば不登校支援のあり方検討スタート つくば市 事業者選定の迷走受け

不登校支援のあり方検討スタート つくば市 事業者選定の迷走受け

つくば市が昨年12月に実施した不登校児童生徒の学習支援施設運営事業者の選定をめぐって迷走した問題を受けて、今後の市の不登校支援のあり方について検討する「市不登校に関する児童生徒支援検討会議」の第1回会合が17日、市役所で開かれ、検討がスタートした。

市が、2020年10月から22年3月末までNPO法人リヴォルヴ学校教育研究所(同市二の宮、本山裕子理事長)と協働で実施した「むすびつくば」の事業について検証するほか、今後の市の全体的な支援方針を策定する。

検討会議のメンバーは、森田充・市教育長と市教育委員4人の計5人。不登校の保護者など当事者は入っていない。来年1月までに計14回程度の会合を開く。今年9月ごろ、新たな予算を必要とする施策を決め、来年1月ごろまでに全体的な支援方針をまとめる。

むすびつくばの検証については、利用者の小中学生と保護者にアンケートをとったり、運営者のリヴォルヴに自己評価を作成してもらうなどする。リヴォルヴによる運営は、来年3月までの1年間延長されただけであることから、23年度以降どうするかについても検討会議で協議する。

今後の市の支援方針については、先進自治体を調査したり、市内の民間フリースクールの利用状況を調査したり、市内の不登校児童生徒と保護者にアンケート調査などを実施した上で、フリースクールのあり方や支援策などについて検討する。

検討を始めるにあたって、現在の課題については▽専門職であるスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーの人数が十分か注視する必要がある▽発達障害の早期発見や診断が遅れると個人の特性に応じた支援や対応が遅れる▽民間フリースクールは有料であるため公設の支援施設の利用者と負担に差が生じている▽不登校の児童生徒数が増えているのに対して公設支援施設の定員は2割程度しかない▽児童生徒数が増加している市南部に公設支援施設がない▽学校での別室登校による支援は専属の教員がいないーなどを挙げている。

その上で検討にあたってはまず、不登校をできるだけ生じさせないようにするため、楽しく魅力ある学校づくりや、学校で気軽に相談できる環境を整える必要があるとした。さらに、不登校になった児童生徒には多様な学習機会や居場所を確保することが必要だとしている。

市の不登校支援をめぐっては、昨年12月、市が実施した不登校学習支援施設「むすびつくば」の運営事業者の選定で、以前から「むすびつくば」を運営していたリヴォルヴが2位となり、新規のトライグループ(本社・大阪市、平田友里恵社長)が1位となった。選定結果に対し、むすびつくばの保護者会がリヴォルヴによる運営継続を五十嵐立青市長らに陳情。五十嵐市長は「現在の利用者や保護者に多大な不安を与えてしまった」などと謝罪し、2022年度は、リヴォルブが「むすびつくば」の運営を産業振興センター(同市吾妻)で継続し、1位になったトライは場所を移して新たに研究学園駅前のトライ研究学園駅前校で支援事業を開始するという異例の決着を図った。

一方、むすびつくばの一部の保護者などから、市内の不登校児童生徒すべてを公平に支援するよう求める要望が出ていたことなどから、市は、22年度に支援のあり方について検討する場を設けるとしていた。

4月から校内フリースクールや別室登校モデル校

現在の市の不登校支援は、公設の支援施設が、市が直営する市教育相談センター内のつくしの広場(同市沼田、利用者11人)、リヴォルヴが運営する「むすびつくば」(吾妻、33人)、トライが運営する「ここにこ広場」(研究学園、18人)の3カ所。ほかに民間のフリースクールが10カ所あり53人が利用している。

小中学校内での支援は、今年4月から新たに、谷田部中に専属教員を2人配置し校内フリースクールをスタートし10人が利用している。茎崎中では別室登校のモデル校としてNPO法人Leaning for ALL(ラーニング・フォー・オール、東京都新宿区、李炯植代表)からスタッフ1人の派遣を受け教員などと連携しながら支援を実施し3人が利用している。ほかに各校で空き教室などで別室登校を実施しており76人が利用しているという。(鈴木宏子)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

13 コメント

13 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho





spot_img

最近のコメント

最新記事

つまみのない酒が、いちばん危ない《看取り医者は見た!》55

【コラム・平野国美】「先生、おやじがボケました」。長男さんからその電話を受けたのは、真夏の午後だった。受話器を置いてから、私は1年前の冬を思い出していた。 佐藤さん(78歳、仮名)の奥さんを看取ったのは、あの家の奥の6畳間である。あのときの佐藤さんは実に立派だった。50年連れ添った妻の介護を、ほとんど1人でやり遂げた。最期の場面でも取り乱さなかった。私が頭を下げると、「先生、ありがとうございました」と、こちらが恐縮するほど深く礼を返された。この人なら大丈夫だ—そう思って、私はあの家を辞したのである。 あれから1年。何が起きたのか。異変はひと月ほどの間に現れたという。何度も同じことを聞く。足元がふらつく。昼間もウトウトしている。家族が認知症を疑ったのは無理もない。往診に伺うと、確かに会話がかみ合わなかった。記憶が抜けているというより、そもそも話に注意が向いていない。 「朝は普通なんです。夕方になると、急に人が変わって」。長男さんの一言が、私の頭の中で引っかかった。認知症なら、こうも短い時間で行ったり来たりはしない。 「お父さん、食事はどうされていますか」。長男さんが口ごもった。月に一度、家に来るのが精一杯で、わからないという。私は台所に上がらせてもらった。答えは冷蔵庫にあった。缶ビールが、ぎっしり詰まっていた。ほかには、ほとんど何も入っていない。あれほどきちょうめんに妻の食事を作っていた人の台所が、空だった。 枝豆、冷ややっこ、焼き鳥、乾き物 採血の結果、血液中のナトリウムが118。正常の下限を大きく割り込んでいた。「ビール多飲症」である。腎臓が余分な水を尿として捨てるには、塩分やたんぱく質といった「捨てる相手」が要る。ビールにはそれがほとんど含まれていない。食べずに飲み続ければ、水を出したくても出せない。血液が薄まり、脳がむくむ。それが物忘れとふらつきと眠気になって現れる。 ここで、ふと思い当たることがある。酒にはつまみがつきものだ。枝豆、冷ややっこ、焼き鳥、乾き物—どれも塩気とたんぱく質の塊である。あれは味を引き立てるためだけのものではなかった。腎臓に水を捨てさせるために必要なのだ。先人は理屈を知らぬまま、体でそれを知っていたのだろう。 危ないのは酒そのものより、つまみのない酒である。治し方も厄介だった。急いでナトリウムを戻せば、今度は脳の神経が傷む。あえて、ゆっくり治す。入院をお願いし、数日かけて緩やかに補正していただいた。退院後、佐藤さんは自分の言葉で私に話しかけてきた。「先生、ご迷惑をかけました」。あの日と同じ、律儀な人の姿だった。 「急にボケた」と聞いたら、私はまず採血をする。そして台所を見せてもらう。認知症という名前は、一度つくと簡単には外れない。だから、つける前に立ち止まる。佐藤さんが飲んでいたのは、多分、ビールではなかったのだと思う。妻のいない寂しさ。それを責めるわけにもいかない。(訪問診療医師)

国スポ「3位以内目指したい」ライフル射撃 浅井優汰選手

関彰商事で壮行会 9月に青森県で先行開催される第80回国民スポーツ大会(国スポ、旧国体)ライフル射撃競技に、茨城県代表として出場する浅井優汰選手(27)=関彰商事所属=の壮行会が4日、つくば市二の宮の関彰商事(本社筑西市・つくば市、関正樹社長)つくばオフィスで開かれ、浅井選手は「大会本番では冷静に落ち着いて力を発揮し、3位以内、優勝を目指したい」と意気込みを語った。 壮行会には関正樹社長のほか、役員、部門責任者、社員など約100人が参加した。関社長は「県を代表して大会での活躍を心から祈っている」とエールを送った。  浅井選手は牛久市出身。小中学校はサッカー、バスケットボール、水泳、合気道などを行っていた。竜ケ崎ー高に入学後、個人競技もやってみたいと、高校生からでも始められるライフル射撃を始めた。高校1年の秋から頭角を現し、高校時代はインターハイ、全国選抜、全日本で優勝し輝かしい成績を残した。 明治大学を卒業後、2023年に同社に入社、現在マーケティング部に所属している。 今年7月、神奈川県伊勢原市で行われた関東ブロックを5位で通過し国民スポーツ大会の切符をつかんだ。毎週木曜と土曜または日曜に桜川市のライフル射撃場で練習に励んでいる。  国スポ ライフル射撃の競技日程は9月10日〜13日、青森県の弘前市運動公園運動広場 特設ライフル射撃場で開催され、男子50メートルライフル立射と、男子50メートルライフル三姿勢の2種目に出場する。(高橋浩一)

24時間介助受けながら理事長として働く 川島映利奈さん【ひと】

「意思決定支援に力入れたい」 つくば市の川島映利奈さん(44)は24時間、ヘルパーの介助を受けて地域で暮らす障害当事者だ。昨年11月、障害者にヘルパーを派遣するNPO法人サラダボールの理事長に就任した。「意思決定支援」に今後さらに力を入れたいと川島さんは考えている。9月には、障害のある人の意思をどのように受け取り、日々の支援につなげるのかを考える勉強会をつくば市内で開く。 いつ、何を食べるのか、今日は何色の服を着るかー。障害の有無にかかわらず、人は日々、小さな選択を繰り返しながら生活している。しかし重い障害があり、言葉による意思表示が難しい場合、選択の機会が限られたり、本人が発しているサインが意思として受け止められなかったりすることがある。 「どんなに障害が重くても、だれもが好きなこと、嫌なことは感じる。表現手段として、ある人は、指差しとか、笑うとか、泣くとか、体の緊張が強くなったり、眉間にしわが寄ったりする。障害の当事者が発する小さなサインを見落とさないことが大切」だと川島さんは言う。 自立生活センターと出会い、衝撃 川島さんは福井県出身。全身の筋力が低下する先天性の進行性難病による障害があり、幼いころから手足を大きく動かすことが難しかった。筑波大学大学院進学を機に2005年、親元を離れてつくば市で自立生活を始めた。現在は車椅子を使い、痰(たん)の吸引や身の回りのことなどヘルパーの介助を受けながら、市内でパートナーと暮らしている。2011年からは、サラダボールの設立母体で、障害者の権利擁護活動を行う当事者団体「つくば自立生活センターほにゃら」の代表を務めてきた。 幼少期から日常生活には家族の介助が欠かせなかった。家族が着替え、食事、風呂やトイレなど、川島さんの生活全般を支えた。一方で、我慢したこと、諦めたことも多かった。 ベッドへの移動にも人手がいるため、就寝時間は家族に合わせる。夜遅いテレビ番組は我慢する。ひとりでは買い物に行けず、欲しいものを自由に買えない。手伝ってくれる人を待つため、行きたいときにトイレに行けない。髪は洗いやすいよう、伸ばすのを諦めた。暮らしの中でさまざまな「モヤモヤ」が募っていった。 転機となったのが、地元福井で出会った自立生活センター「コムサポ」の重度障害者たちとの出会いだった。当時、福井県内の大学に通っていた川島さんは、コムサポの障害当事者メンバーと食事や外出を重ねる中で、介助サービスを使って地域で暮らし、やりたいことをやり、いきたい場所にいく姿に衝撃を受けた。 2005年、筑波大大学院への進学が決まると、コムサポから紹介された「ほにゃら」によるサラダボールからヘルパー派遣を受けながら大学の寮に入り、念願の自立生活を始めた。「すべてが新鮮。朝、誰にも起こされないのも、自分で時間を計算して起きなきゃいけないのも。授業後に、寄り道しながら帰れるのも」 失敗も重ねた。初めての洗濯では色物と一緒に白いTシャツを洗って色が付いてしまったり、洗濯ネットの使い方が分からなかったり。だが、いくつもの失敗に心が躍った。何時に起きるのか、何を着るのか、どこへ行くのか、どんな介助が必要なのかを自分で考え、他者に伝える必要があることも知った。 こうした経験の積み重ねの先で出会った健常者の夫と、今は市内で暮らしをともにしている。しかし、川島さんは、身の回りのことを夫には頼まない。自分でできることは自分でするし、できないことは、いつも別室で待機している介助者に声をかけてやってもらう。「パートナーは介助者ではない。私は介助してもらうために結婚したわけじゃないし、介助者のほうがちゃんと訓練しているプロなので丁寧。プロの介助者だからこそ、自分のタイミングで自分のことができる」 「本人が何をしたいか」で支援を組み立て 川島さん自身の介助には、1週間でおよそ15人のヘルパーが交代で入る。仕事中も介助は続く。昨年から市の制度を利用し、勤務時間中も介助者によるサポートを受けながら働いている。介助者は会議や研修に同席することもあれば、利用者の個人情報を扱う際には、部屋の外で待ってもらう場合もある。痰の吸引などの介助が必要になれば、会議を中断して川島さんが一時的に外に出て介助を受ける。 ヘルパーの成田恵理さんは、川島さんとの関係について「一緒にやっていく、仲間」と表現する。「ここでの活動の目的は社会を変えることなので、その延長線上に、サラダボールの仕事がある」と語る。 理事長になり、求人や研修、支援会議、介助シフトの調整などに加え、これまで深く関わってこなかった経営にも向き合うようになった。これまで主に女性利用者の支援を見てきたが、理事長職を引き継いで以降は男性利用者を含めた事業所全体を見るようになった。 自立生活センターで何より重視するのは「本人が何をしたいのか」だ。1日のどこで食事をし、外出するのか、当事者の意思を第一に支援を組み立てる。 意識して増やそうとしているのが、職員同士で話し合う機会だ。特に、介助者と利用者の調整役を担う立場の職員とは会議や研修、日常的なコミュニケーションを増やしてきた。 子どものうちから「自分で選ぶ」経験を 川島さんたちが力を入れている活動の一つに「ほにゃらキッズ」がある。地域で暮らす障害のある子どもたちが、将来、自立生活を暮らしの選択肢の一つとして考えられるように、家族とともにさまざまな経験を重ねる取り組みだ。2003年に保護者らの発案で始まり、20年以上続いてきた。 障害のある小さな子どもも一時的に家族と離れ、介助者と買い物をする。カラオケやバーベキュー、料理、電車で東京へ行き「推し活」をしたこともある。買い物では、子ども自身が店に並ぶ商品を見て食べたいものを選ぶ。「自分で決める」経験を重ねながら、自分が何を好きなのか、どんな暮らしが自分に合っているのかを知っていく。家族にとっても、「親ではない人に任せても大丈夫」と知る体験になるという。 「失敗も大切な経験」だと川島さんは言う。その先に生まれるのが、自立生活という選択肢だ。 当時に比べ、現在は障害者の地域生活を支える制度も増えた。「子どものころから知っていれば、できることもいっぱいある。実際にやれる場所があるというのは、すごく大事だと思う」 言葉にならない意思をどう受け取るか 川島さんが特に大切にしているのが、本人の小さなサインを見逃さないことだ。表情の変化がわずかな人もいる。それでも川島さんは「きっと何かはアピールしているはず。こっちが受け取れていないだけ」と考える。それでも、読み取ったものが本人の本当の意思だったのか、簡単に答えが出るわけではない。「正解はなかなか分からない。でも、受け取ろうとすることを怠っちゃいけない」 「やっぱり、自立生活を知ってもらいたい。こういう仕事もあるよって知ってもらいたいし、当事者にも、こういう生活があるよって知ってもらいたい」と言う。その先には、誰かに支えられるだけではなく、働き、責任を担い、今度は自分が誰かの暮らしを支える仕組みをつくる側になる人生もある。 「どんな障害があっても、住みたい場所で、やりたいことをしながら、その人らしい生活を作っていくっていうのが、私たちが一番やりたいこと。その中で、介助者と利用者だけで完結せずに、ちゃんと地域の人とつながってこその生活です。私はそのために、いろんな仕掛けをつくりたい」。川島さんはそう話す。 ◆障害者の意思決定に関する講演会「意思決定支援(SDM)を知ろう!〜支援の「モヤモヤ」を大切にする関係づくり〜」が、9月13日(土)午後1時30分からつくば市役所 コミュニティ棟(つくば市研究学園1丁目1−1)で開かれる。講師は、筑波大学人間系講師で、SDM-Japan代表理事の名川勝さん。参加費は無料。定員50人(先着順)。申し込みは専用フォームで9月7日(月)まで受付。問い合わせは、メール(cil-tsukuba@cronos.ocn.ne.jp)か電話(029-859-0590)でつくば自立生活センターほにゃらへ。

軽井沢の万平ホテルを訪ねて《ふるほんや見聞記》20

【コラム・岡田富朗】万平ホテルは、1894(明治27)年、避暑地・軽井沢の地に創業しました。創業者・佐藤万平と宣教師たちとの出会いから始まり、「異国の地にあっても、故郷で過ごすようにくつろいでいただきたい」。そんな思いから生まれた最高級のホスピタリティを受け継いできた、日本有数のクラシックホテルです。明治から現在に至るまで、政財界人や、三島由紀夫、池波正太郎をはじめとする文士、多くの著名人に愛されてきました。ジョン・レノンが夏の定宿としていたことでも広く知られています。 アルプス館90周年 2024年、1894(明治27)年の創業から130年を迎えるにあたり、万平ホテルは前年から一時休館し、大規模な改修・改築工事を実施しました。建て替えるのではなく、より多くの労力をかけて、既存の美しい建物を生かしながら修復することを選択。ステンドグラスをはじめ、残すことのできるものはできる限り保存しながら、改修が行われました。 ホテルの象徴である本館「アルプス館」は1936(昭和11)年に建造され、2026年で90周年を迎えます。「日光金谷ホテル」や「富士ビューホテル」なども手がけた久米権九郎による設計で、2018年には国の登録有形文化財に指定されました。木造建築が美しいロビーをはじめ、メインダイニングルームやカフェ、バーなど、館内には歴史を感じさせる空間が広がります。テラス側は今回の改修で窓を大きくし、明るく開放的な空間へと生まれ変わりました。 バーやカフェは宿泊客だけでなく、軽井沢の別荘に暮らす人々にとっても長く親しまれてきた社交の場であり、これまで数多くの逸話が残されてきました。 受け継がれるおもてなし 現在も、軽井沢を訪れるなら一度は泊まってみたいホテルとして、多くの人に愛されている万平ホテル。その魅力は、格式の高さや建物の美しさだけではありません。 「時代を越えて、何世代にもわたり訪れてくださるお客様が万平ホテルを愛し、その魅力をスタッフに伝え、それがまた受け継がれていく。初めて訪れた方にも『どこか懐かしさを感じる』とおっしゃっていただけます」と、広報担当の西澤さんは話します。お客様とともに歩んできた万平ホテルだからこそ、心のこもったおもてなしがあり、まるで自分の別荘を訪れたかのような心地よさを感じられる場所です。 映画監督の羽仁進は「高原文庫 第二十五号」で「万平は聖地であった」と寄稿していますが、長い歴史のなかで多くの人々を迎えてきた万平ホテルは、これからも軽井沢の「聖地」でありつづけるでしょう。2027年6月末まで、万平ホテルの歴史に思いをはせた「アルプス館90周年」を記念するメニューやプランが用意されています。(ブックセンター・キャンパス店主)