月曜日, 12月 29, 2025
ホームつくば5年越しのリベンジへ 国際ナノカーレース参戦のつくばNIMSチーム

5年越しのリベンジへ 国際ナノカーレース参戦のつくばNIMSチーム

直径8ミリの金(きん)の表面をレース場に、全長2ナノメートル(10億分の2メートル)の分子マシン「ナノカー」が走るー。24日から、フランス・トゥールーズで開催の国際ナノカーレースに参戦する物質・材料研究機構(NIMS、つくば市並木)のチームが15日会見し、リタイアした第1回大会の雪辱を期し、意気込みを語った。

国際ナノカーレースⅡは、開催国のフランスをはじめ世界6カ国から計8チームが参加。24日から25日にかけ、24時間の制限時間内にどれだけ走れたか距離数で勝敗を争う。物材機構からは国際ナノアーキテクトニクス研究拠点(MANA)副拠点長の中山知信さん(60)をチームディレクターとするNIMS-MANAチームが連続参戦する。2017年に開かれた第1回は、制御用コンピューターの不調からリタイアしており、チームメンバーも分子マシンの設計思想も一新し、レースに臨むことになった。

前回は、参加6チームがフランスに集まり、1台の走査型トンネル顕微鏡(STM)内に設置された金のコース上で競走した。100ナノメートルの先着で競ったが早々に決着してしまい、今回は24時間の走行距離を争う方式に変更された。各チームのドライバーはフランス国立科学研究センターに集結するが、現地のコンピューター端末からそれぞれの所属先にあるSTMを遠隔操作するスタイルで行う。

レースに使われる走査型トンネル顕微鏡(STM)を前にチームメンバー。左から2人目が中山チームディレクター=同

陣容も設計思想も一新

チームのトップドライバーは先端材料解析研究拠点ナノプローブグループでグループリーダーを務める川井茂樹さん(45)。電子顕微鏡操作に長けている。分子マシンは超高真空、極低温環境下に置かれ、STMの探針から発せられる電気的な刺激によって前進させる。

ナノカーは100-1000程度の原子で構成し、前後の区別が必要というレギュレーションが設けられている。最先端の分子合成技術を駆使してマシンを設計・合成し、さらに操縦のために新たな科学的手法を開発する必要がある。分子を車輪のように設計し、回転させて前進を図ったりする。

「Slider-Spider(スライダー・スパイダー)」と名付けられたNIMS-MANAチームのマシンは、前回から設計思想を一新。金表面を滑るように移動する「超潤滑現象」に目をつけるという新機軸を採用した。平べったいものがクモのように移動するという。設計に当たったのはコンストラクターリーダーとしてチームに加わったMANA光機能分子材料グループリーダーのヒル・ジョナサンさん(53)。環状構造を持つ有機化合物ポルフィリン(porphyrin)を中心に置いて炭素やフッ素を有機合成し、まったく新しい物質を作り出した。

分子式にするとC64H34CuF6N4。原子の個数は109個、全長約2.5ナノメートル。「ナノカーと金表面の間の相互作用(摩擦)をいかに減らすかがポイントになった」。溶剤中で分子の組み合わせを変え、7回のステップで0.5%ほどが採取できるという。この材料をSTM内に入れ、温度設定を変えながら8回目の反応でレースマシンに仕立てあげるということだ。

ドライバーの川井さんは「STMは日本にあり、フランスの端末からの遠隔操作となると、わずかながら時間差が生じ、ヨーロッパのチームに比べるとハンデがある」としつつ、秘策を練って渡仏する。

日本に残る中山チームディレクターは「分子の動きを理解・統制する研究を加速させる科学的な挑戦。大会は知見の共有、交流というところに意義がある。NIMS-MANAの存在感を示したい」という。(相澤冬樹)

◆大会の模様はオフィシャルYouTubeでライブ配信(英語/フランス語)の予定。日本語解説付きのライブ中継は24日午後6時45分から、ニコニコ生放送で随時、公式配信される。NIMS-MANAチームの公式サイトはこちら

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

2 コメント

2 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

山本五十六元帥と土浦 いくつかの符合(2)《文京町便り》47

【コラム・原田博夫】前回コラム(11月23日掲載)では、慶應義塾塾長・小泉信三(1888~1966年)の一人息子・信吉(海軍主計中尉、1942年10月22日の戦没後大尉進級)に関連して、信三博士の交友・人脈のうち、旧制土浦中学(現土浦一高)卒の武井大助氏(1887~1972年、海軍主計中将などを歴任)との交誼(こうぎ)に焦点を当てた。今回は、信吉中尉への各般の弔問・弔意の中から、土浦に関連がある2人に目を向けてみたい。 1人は、信吉氏が乗船していて轟沈(ごうちん)した戦艦・八海山丸の艦長・中島喜代宣大佐(戦没後少将)である。北品川の小泉邸へ弔問に数回訪れた武井氏が小泉博士に語ったところによれば、中島艦長は武井氏と中学時代の同級生(土浦中学第3回生、1904年3月卒)だったとのこと。 小泉信三「海軍主計大尉 小泉信吉」(私家版1946年刊、文藝春秋版1966年刊、文春文庫版1975年刊)によれば、八海山丸艦長の夫人・中島まつ子は、夫とともに戦死した信吉・海軍主計中尉の報に接し、1943年1月、次男の宣二(海軍少尉)とともに小泉邸を弔問に訪れ、夫君の出発日朝の様子などを語っている。 数日後、信三博士自身も上落合の中島邸を訪れている。帰宅後に受け取った海軍省人事局長からの速達便には、子息・信吉の海軍主計大尉進級が官記されていた。 この交流には、中島大佐と土浦中学で同窓だった武井氏が介在していたことが推測できる。中島大佐と土浦中学同窓だった武井海軍主計中将は、東京高商(現一橋大学)在学時、福田徳三博士宅で開かれていたアダム・スミス輪読会で信三博士と懇意となり、これが二人をつなぐことになった。 対米開戦直前、霞月楼に礼状 2人目は山本五十六元帥(1884~1943年、戦没後授与)である。山本元帥は1924年、霞ケ浦航空隊(いわゆる予科練)副長として赴任し、航空部門を中心とした海軍力の強化を図った。酒はダメだが酒宴は嫌いでなかったようで、しばしば、土浦市内の料亭「霞月楼」を訪れていた。 当時の若い海軍兵たちの酒宴はかなり乱暴だったようで、霞月楼に今でも保管されている山本元帥の礼状(真珠湾攻撃直前の1941年12月5日付、連合艦隊旗艦長門から)には、無礼講(ぶれいこう)へのお詫びとともに、自分にとっては「最後の御奉公」と記されている。この間の事情は、故堀越恒二(霞月楼元社長)著「記念誌:霞月楼100年」(非売品)に記されている。 山本元帥は信三博士とも交誼があり、元帥からの手紙(1942年11月尽日付、開封は12月21日)には、謹呈された信三博士著「師・友・書籍 第二輯」への礼のあとに、令息(信吉主計中尉)戦死への悔やみが述べられ、自分も「最後の御奉公」に取り組んでいる旨が記されている。元帥も、和歌では武井主計中将(1965年、歌会始の召人)を先達としていたようで、そのことも「海軍主計大尉 小泉信吉」で言及されている。 信三博士は、山本元帥が知友・武井氏と趣向が同じ点でも、元帥に親近感を抱いていたようである。1943年5月21日、慶應義塾教職員俱楽部で山本連合艦隊司令長官戦死のラジオ放送を聞いた時には(実際の死没は4月18日)、満腔(まんこう)の敬意をもって、塾生に知らせるよう指示した。ちなみに、第一艦隊司令長官は、1941年8月、山本海軍大将から、武井大助氏や中島喜代宣氏と同級の高須四郎海軍大将(1884~1944年)に替わっている。これも符合の一つである。 私の(母方)祖父から伝承された「手本とすべき先輩たち」の話に導かれ、小泉信三「海軍主計大尉 小泉信吉」は、私にとっては無視できない符合がいくつか重なった。それらを個人的な記憶として風化させるべきではないと考え、2回にわたり記した次第。(専修大学名誉教授)

里山収穫祭 大人も子供もダンス《宍塚の里山》131

【コラム・古川結子】11月23日、土浦市の宍塚の里山で行われた「秋の収穫祭」で、ダンス企画が行われました。私は、法政大学公認の環境系ボランティアサークル「キャンパス・エコロジー・フォーラム」(略称 キャンエコ)の活動として、収穫祭の運営補助をする中で、サークルのオリジナル曲に合わせて踊る機会をいただきました。 「宍塚の里山」はキャンエコのメーン活動の一つであり、普段は毎月第4日曜日に宍塚を訪れ、環境保全活動を行っています。 このダンス企画が始まったのは、昨年4月に行われた「春の収穫祭」からです。バレエやダンスに親しんできた私に対し、里山でキャンエコの活動をサポートしている「宍塚の自然と歴史の会」の齋藤桂子さんが提案してくださったことがきっかけでした。そこから、収穫祭では、はやりの曲に合わせて地域の子供も大人も一緒になって踊ってきました。 そして今回、秋の収穫祭に向けた準備の中で、齋藤さんから「ぜひキャンエコでオリジナルのダンスを作ってほしい」と言っていただきました。卒業を控えた自分にとって、この言葉はとても大きく、思い切ってオリジナル曲の制作と振り付けに挑戦することにしました。 歌詞は、サークルの仲間と協力して書き上げ、AIを使って曲を完成させました。振り付けは子供から大人まで踊れるように意識しました。 里山で生まれた一体感 「踊る」という行為は、慣れない人には少し恥ずかしく感じるかもしれません。それでも、音楽に合わせて身体を動かす楽しさを、少しでも感じてもらえたらという思いがありました。 当日、最初は遠慮がちに周りで見ていた大人の皆さんも、学生や子どもたちにつられるように輪に入り、楽しそうに踊っている様子を見て、とてもうれしかったです。踊り終わったころには、初めて会う人同士でも距離が縮まっているのが、ダンスのすごいところであると感じました。 宍塚の里山は、多くの人の手によって守られています。今回の収穫祭でのダンスが、里山の存在やキャンエコの活動を知るきっかけになっていたら幸いです。みんなで踊った様子は動画として記録し、YouTubeにも公開しています。これをご覧になり、里山で生まれた一体感を、多くの方に感じていただけたらと思います。(法政大学キャンパス・エコロジー・フォーラム 4年) https://youtu.be/lr5EXHD-NLc?si=29c9cISMDT8rN0Tq

個人情報記載の住宅地図を誤配布 つくば市

つくば市は26日、同市谷田部、陣場ふれあい公園周辺の352世帯に、公園近隣の86世帯の名字など個人情報が入った住宅地図を誤って配布してしまったと発表した。うち2世帯は名字と名前が入っていた。 市公園・施設課によると、同公園でのボール遊びについて注意喚起する文書を、公園の位置を示す拡大した住宅地図を付けて周辺世帯に配布した際、本来、地図の個人情報を削除すべきところ、削除せず配布した。 23日午前10時~正午ごろ、市職員が公園周辺の352世帯に配布、2日後の25日、通知文書を受け取った市民から市に、住宅地図に個人情報が記載されている旨の電話があった。 市は26日、地図に個人情報が掲載された公園近隣の86世帯に対し謝罪の文書を配布。さらに周辺の352世帯に対し、23日配布した住宅地図の破棄を依頼する文書を配布したほか、個人情報を削除した住宅地図を改めて配布した。 再発防止策として同課は、個人情報の取り扱いや外部への情報提供の方法について見直しを行い、再発防止に努めますとしている。

大の里の姿を精巧に表現 雲竜型土俵入りなど人形2体を贈呈

横綱昇進祝し 関彰商事 第75代横綱に昇進した大の里を祝し、記念人形の贈呈式が25日、阿見町荒川本郷の二所ノ関部屋で行われ、関彰商事(本社 筑西市・つくば市)の関正樹社長が特別に制作された記念人形2体を大の里に贈った。 人形は、雲竜型の土俵入りをする戦う表情の大の里と、横綱に昇進し着物姿で喜ぶ表情の2体。土俵入りの人形は、高さ36センチ、幅40センチ、奥行き20センチ、着物姿は高さと幅が46センチ、奥行き32センチの大きさで、いずれも大の里の力強く気品あふれる姿を精巧に表現している。 桐の粉で作った胴体に溝を彫り、布の端をきめ込む「江戸木目込人形」の技法を用いて、さいたま市岩槻区の老舗人形店「東玉」の人形師で伝統工芸士の石川佳正さんが製作した。石川さんは「大変名誉な仕事を預かり光栄。制作には、他の仕事をキャンセルして1カ月かかった。陰影を出すように、肌の色などはつるっとしないように工夫した。はかまは京都の西陣織を採用した」などと説明した。 大の里は「素晴らしい作品が出来上がった。大変光栄なことで、感謝とともに、これを励みにさらに精進していきたい」と語った。 関彰商事は、牛久市出身の二所ノ関親方(当時は稀勢の里)が十両だった2004年から、関正夫会長が「稀勢の里郷土後援会」の会長を務めたなど、長年にわたり二所ノ関親方を支援。親方になってからも二所ノ関部屋を支援している。今回の贈呈も、これまでの継続的な後援活動の一環として行われた。 関社長は人形師の石川さんに感謝し、大の里には今後の活躍にエールを送った。(榎田智司)