濃紺の軽トラックが、研究学園都市の幹線道路をさっそうと走る。メーカーカタログには見られない車体色。よく見るとハンドメイドで塗装した刷毛(はけ)の跡がそこかしこにある。その濃紺の車体に、白く刻まれた「TSUKUBA BLUE(ツクバ ブルー)」の文字。
それが、藍師をめざす渋谷怜さん(39)の染色に掲げたテーマだ。

「かつてはどんな地域にも存在した紺屋(こうや)という職種を、つくばの住人になって、いろいろな縁をいただく中で知りました。紺屋が営んでいた天然素材を使った藍染の古く繊細な技術を今の世の中に呼び覚まし、つくばの地から広い世界に届けていきたい。そんな願望が、ツクバブルーという言葉になりました」
渋谷さんはもともと、東京住まいのアウトドア製品メーカーの社員だった。子供が生まれ、のびのびと子育てをしたいという夫婦の希望が、メーカーのつくば支店開設と合致し、店長として転勤しながら、居をつくば市に落ち着かせた。
「まだつくばの住人になって8年ほどです。あるとき、家族でデイキャンプに出かけたのですが、そのとき隣のサイトでワイワイとやっていたのが、染色家の丹羽花菜子さんのご主人でした。彼も私と同業者で意気投合することになり、その後、子供を通わせた保育園で、丹羽さんのお子さんも一緒であることを知り、花菜子さんの藍染を体験させていただいたことが転機になりました」

渋谷さんは興味を持ったものに対して没頭する性格だった。この出会いと前後するが、自転車のメカニズムにひかれて車体を分解して組み立て直したり、ミシンに高じてお子さんの服を自ら縫ってみたりのトライアルをいくつも行ってきた。そのひとつが、縫い上げたお子さんの服を使った藍染だ。
「自分の作業で青く染まっていく服を眺めながら、背中を突き動かされるんです。もう、まさしく、これだ!と」
丹羽さんの工房で藍染の歴史や技術を学ぶ中で、原料である蓼藍(たであい)がつくばの地では不足していることや、そもそも紺屋という地域の職種が衰退していることにも思うところがあり、仕事を辞した。
「もちろん、仕事にはやりがいを感じていましたが、家族と一緒に過ごせる時間をもっと大事にしたいという気持ちが本心です。それをかなえながら、打ち込めるもの。藍染には今の自分が打ち込める魅力があります」

知人であり藍を生産している未来農家GoRe3の鈴木聡さんとともに蓼藍畑を耕した。昨年、つくば市のマルシェイベントに参加し、蒅(すくも)を使わず直接染められる「生葉(なまば)染め」をアピールした。つくばエクスプレスつくば駅前のペデストリアンデッキで、プランターに植えた蓼藍から採取した生葉の緑色が、布地を青く染めていく様子は、イベントに訪れた人々の関心を集めたという。
「私自身はこのイベントには1回しか出られなかったのですが、蓼藍づくりを協力してくれる農家や仲間たちに助けられました。このメンバーと、『チーム ペリヘリオン(太陽と惑星の近日点のこと)』を立ち上げ、藍染の文化をよみがえらせ、例えばキャンプ用のタープや、オリジナルTシャツを制作して、ツクバブルーというブランディングを実現したい」
渋谷さんの見ているツクバブルーの青は、まだどんな色なのか誰も知らない。渋谷さん自身が駆け出しで、青の持つ言葉やイメージの領域の広さに戸惑うこともある。ひとつ言える確かなことは、藍染と出合い、創造の戸口に立った渋谷さんのすべてがそこに凝集している。

「染色のための設備はこれから整えていくので、作業自体は桜川市(真壁地区)の藍保存会の皆さんにお世話になっています。私自身は蓼藍を蒅に変え、つくばの特産品に育てていきたい。染め上げた二次製品の数々を介して、つくば発の藍染という小さな産業と文化を送り出していきます」
「わくわくすること、興味を持ったことにはじっくりと取り組んでほしい」—。これは渋谷さんの、昨年亡くなられた妻の願いだという。過ぎ去った時間は戻らないが、渋谷さんが作り出す藍染とその手で染められた布や衣服は、長く思いを残していく。ツクバブルーのまだ見ぬ青は少し悲しくも、それを大きく包み込むやさしさの色になっていくだろう。(鴨志田隆之) 写真提供 渋谷さん
渋谷 怜(しぶや・れい)
1982年岐阜県多治見市出身
アウトドア用品メーカーSNOWPEAK勤務を経て独立
2020年からツクバブループロジェクトをスタート