火曜日, 1月 13, 2026
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江戸時代の梅酒 《県南の食生活》25

【コラム・古家晴美】この時期、店頭にはチラホラと青梅が姿を見せ始めている。昨夏は梅の土用干しについて記したので(20年7月22日付)、今回は梅酒について見てきたい。現在、水割りや炭酸割梅酒が手軽に飲めるサイズで販売されているが、それでも自家製のものをお作りになる方もいらっしゃるだろう。

以下は「梅酒」の作り方についてしばしば引用される、江戸時代前期に著された『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』の一節である。著者は、庶民の日常生活に用いる食に関して記したと述べている。

「痰(たん)を消し、渇きを止め、食を進め、毒を解し、咽痛を止める。半熟の生梅の大ならず小ならず中くらいのを、早稲草の灰汁(あく)に一晩浸し、取り出して紙で拭き浄め、再び酒で洗ったものを2升用意する。これに好い古酒5升・白砂糖7斤を合わせ拌勺ぜ(かきまぜ)、甕(かめ)に収蔵める。20日余を過ぎて梅を取り出し、酒を飲む。あるいは、梅を取り出さずに用いる場合もある。年を経たものが最も佳い。梅を取り、酒を取りして、互いにどちらも用いる」(人見必大著・島田勇雄訳注『本朝食鑑2』 平凡社東洋文庫 1977年)

現代との違いは、いわゆる薬酒として用いられているが、焼酎ではなく、3年物の古酒の使用を勧め、あく抜きに藁(わら)の灰汁を使用している。慶安期の引き札によると、薩摩焼酎が1升500文なのに対し、酒が40~60文(古酒はこれよりは高いだろうが)で、焼酎は高価だ。庶民にとって、手頃な価格で火入れの技術が発達していなかった当時、3年間腐敗を免れた古酒は、果実酒作りにふさわしかったとの指摘もある。

かなり甘く濃厚 酒というより薬

では、現在の梅酒の分量と比べるとどうなるだろうか。
青梅2升=(中粒の青梅で計量したところ1.2リットルが1キロなので)3キロ
砂糖7斤=4.2キロ
古酒5升=9リットル
―に換算できる。

これを現在の一般的な梅酒レシピの分量である、青梅1キロ、氷砂糖600~1000グラム、焼酎1.8リットルと比較すると、梅:砂糖:酒の割合が、前者は1:1.4:3であるのに対し、後者は1:1:1.8となる。江戸時代の梅酒は、梅の量1に対して、砂糖と酒の割合がかなり高い。江戸前期の砂糖はまだ量産されておらず、高価であったろうが、気前よく使用している。

ただし、前者は氷砂糖を、後者は白砂糖を使用している。糖度の違いが99.95Z°と97.69Z°で多少の違いがあるが、残念ながら、糖度と甘味度の相関性の説明は専門外で難しい。古酒は当時も上等なものだろうが、醸造学の小泉武夫氏によれば、江戸時代の原酒はアルコール度数が17~22度で、アミノ酸度や酸味が高く、糖度に至っては4~5倍で味の濃いものだったので、希釈して飲んでいたと言う。

これらのことから大胆不敵に想像の翼を広げると、『本朝食鑑』の梅酒は、希釈せよ、とも書かれていないので、かなり甘めで濃厚な、「酒」というよりも風邪気味の時に飲む「薬」のイメージだろうか。

現在、いくつかの酒蔵で、江戸時代の日本酒を再現したものや、古酒を醸造している。これを機に、それらの酒で梅酒を作ってみようか。(筑波学院大学教授)

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