木曜日, 4月 2, 2026
ホームつくばつくばの市街地に咲く「絶滅危惧種」 私はどうすればいい?

つくばの市街地に咲く「絶滅危惧種」 私はどうすればいい?

4月、NEWSつくばに読者から「絶滅危惧種の『キンラン』がつくば市街地に自生している」というメールが届いた。

その場所は、つくば駅に近いセンター地区の市街地。後日、メールの差出人に案内されると、ある企業の私有地に、黄色く小さな花をつける1本のキンランがあった。一見、どこにでもあるような普通の植物。周囲の雑草と見分けがつかず、探すのに時間がかかった。

「絶滅危惧種」がなぜ市街地に生えているのだろう? 希少な植物に出合ったとき、私たちは一体どうすればいいのだろう? 湧き上がるいくつかの疑問を胸に、専門家に話を聞いた。

キンランとは?

そもそもキンランとはどのような植物なのか。

キンランは、日本に約300種あるとされるラン科の植物の一つ。多年草で、ブナ科やマツ科の樹木の根もと近くに生育し、30センチから70センチほどの高さになる。これらの樹木の根に寄生する菌類が作る養分を、キンランは取り込み生きている。こうした菌類との共生関係を必要とし、単体では生きられないのも大きな特徴だ。

かつて雑木林に群生するキンランを見ることは珍しくなかった。しかし近年、個体数が減少し将来的な絶滅が危惧されることから、環境省は「絶滅危惧II類」に、茨城県も独自に「準絶滅危惧」に指定している。

なぜ「絶滅危惧種」に?

では、なぜキンランは個体数が減ってしまったのか。

県自然博物館(坂東市)で学芸員を務める伊藤彩乃さんは、減少の理由の一つとして、かつて人の暮らしに欠かせなかった雑木林の手入れが行き届かなくなったことを指摘する。 

「かつてキンランは、私たちにとって身近な植物でした。雑木林にはコナラやクヌギといった、キンランの生育に必要なブナ科の樹木が多くありました。それらの樹木を、まきや炭として利用するために定期的な伐採や下草の刈り取りを行っていました。しかし、生活の変化によって放置される林が増え、下草が密集し伸びると、背丈の低いキンランに光が届かなくなり、光合成ができず生育できなくなったと考えられます」

手入れが行き届かなくなった雑木林

つくば市で環境保全活動をする「つくば環境フォーラム」の田中ひとみさんも同様の指摘をした上で、「キンラン以外にも絶滅の危機に瀕する動植物が、人との関わりが停止した雑木林を含めた『里山』に多く存在している」と話す。

「里山」とは、農林業など人の生活を通じてつくられた、農地や集落を含めた広い生活圏のことを指す。かつて日本各地で見られた環境だ。「里山」の減少がキンランだけでなく、キキョウやオミナエシなどいくつもの植物を絶滅の危機に追いやっている。環境省は植物以外にもメダカ、タガメ、クロシジミなどの動物も、里山減少による絶滅危惧種として挙げている。

環境保全の意味

「絶滅しそうな里山の動植物を保全するには、人による再生が必要」だと、田中さんは話す。

ではなぜ私たちは里山を保全し、動植物の減少を防ぐ必要があるのだろうか。田中さんはこう説明する。

「実感しづらいかもしれませんが、人が自然の恵み(生態サービス)によって、その命を繋いでいるからです。自然界は、多様な生物のバランスによって今まで持続してきました。絶滅危惧種が急増しているのは、そのバランスが崩れてきている証拠ではないでしょうか。自然界のバランスが崩れると、生物種のひとつである人類にもいずれ生存の危機がくるかもしれません」

生活する人間と、その環境に適応する多様な動植物の関係が長い年月をかけ育まれた。人の暮らしも、そのバランスの上に成り立ってきたのだ。

再び増えつつある個体数。都市部に適応する生命力

今回キンランが見つかったのは、つくば市の中心市街地という「自然」と離れた場所だった。そこにキンランが咲く意味を、どう捉えればいいのか。質問に対し、県自然博物館の伊藤さんはこう話す。

茨城県自然博物館学芸員、伊藤彩乃さん

「私たちにとっての『(自然の)豊かさ』とは、原生林など人の手が加わっていない場所を想像するかもしれません。しかし、生き物の視点から見た時に、意外と都市の中にも、彼らにとって『豊か』な場所はあるのです」

「キンランが生きるために必要な条件は、ブナ科やマツ科の樹木、そこに寄生する菌類、適度に人手が加わり、光が届く場所。意外かもしれませんが、都市部にも、こうした植物にとって『良い』条件が整う場所が少なくないのかもしれません」

「街路樹や公園など、植栽された林が市街地には多いと思います。昔ながらの雑木林ではなく、街をつくった時に新たに木を植えたところです。そこにブナ科やマツ科の樹木を選んで植えることがあります。そうした場所に生えるキンランを、最近見るようになりました」

つくばの中心市街地で今回見つかったキンランを振り返ると、近くに松の木があったし、周囲の雑草は適度に刈られていた。伊藤さんがこう続ける。

「はっきりとした理由はわかりませんが、元々あった雑木林から飛んできた種子が発芽した可能性もありますし、植えられた樹木の根についてきた可能性もあります。キンランは、菌類との共生関係が必要です。持ち込まれた樹木と共生する菌類が活発であれば、キンランが発芽する条件は整います」

「人が作った環境に適応するキンランの姿を見ると、生き物としてのしたたかさを感じます」

見つけた人はどうすればいいのか?

希少動植物の中でも特に保護が必要とされる「国内希少野生動植物種」は、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律(種の保存法)」に基づき、個体の捕獲や譲渡が原則禁止され、違反すると罰則が適用される。しかし、キンランは法的な保護の対象には含まれていないものの、県は「茨城県希少野生動植物保護指針」で県民に対し、「自主的かつ積極的に取組みを進めること」を求めている。

では具体的にキンランに遭遇したとき、私たちはどうすればいいのか?

今回つくば市でキンランが確認されたのは、吾妻1丁目、NTT東日本茨城支店つくばビルの敷地内だった。NEWSつくばの問い合わせに同社は、こう回答している。

「キンランが生育している場所の状況から、囲い込み等の保護は行わず(囲い込みを行うことにより、かえってイタズラ等にあう可能性もあるため)、自然体で見守っていきたい。除草作業等時はキンランの花弁が落ちていたことを確認したうえで、球根を傷つけないよう配慮しつつ、来年以降も対応をとっていきたい」

茨城には、キンランの他に、キンランの一品種である「ツクバキンラン」もある。珍しさも手伝い、思わず自宅に持ち帰りたくなるかもしれない。それに対して伊藤さんはこう話す。

県自然博物館の敷地内に自生する「ツクバキンラン」

「(キンランの)数が減ってしまった要因に、花がきれいなために採集されてしまったということもあります。キンランは、樹木と菌類との共生関係が必要なので、持ち帰って鉢に植えても育つことはできません。それだけでは生きることができないのです。樹木や菌を含めた周囲の環境が整ってこその生き物です。なので、むやみに採ることはせずに、林のなかで咲いている姿を楽しみましょう。周りの環境と共に見守ってほしいと思います」。(柴田大輔)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

14 コメント

14 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

配偶者暴力相談支援センターを設置 つくば市 DV防止法に位置付け

配偶者や交際相手などからの暴力(DV)被害や夫婦関係、人間関係などの相談を受ける配偶者暴力相談支援センターを1日、つくば市が設置した。DV防止法に位置付けられた機関で、地域の身近な窓口として被害者支援の中心的役割を担う。DV被害の相談のほか、緊急時には被害者の安全確保や支援機関との連絡調整、自立支援を行うなどの役割がある。 設置により、通報への対応、保護命令への関与、県の配偶者暴力相談支援センター(女性相談センター)や警察など関係機関とより密接な連携協力を図ることができる。同センターは、2007年のDV防止法改正で市町村は設置が努力義務となっている。県内市町村での設置は、水戸、古河、かすみがうら、つくばみらい市に次いで5番目という。 センターの愛称は「まんまるつくば」で、具体的な業務は、DV被害の相談に応じたり、緊急時に一時避難所を利用するための相談を受けたり、福祉制度や住居など自立生活を送るための情報を提供したりする。本人が配偶者や交際相手などに対し接近禁止や電話禁止などを申し立てたい場合は、裁判所の保護命令について情報提供したりなどする。 同市はDVや夫婦関係、自身の生き方などの悩みに対し、これまでも電話や面談による相談を受け付け、女性向けの一般相談、心と生き方相談、法律相談のほか、男性向けの相談を曜日や日数を限定して実施してきた。センター設置後は受付日数を増やし、DV相談と女性相談は平日の午前9時~午後4時、女性の法律相談は第2と第4木曜の午後1時30分~4時、男性相談は第1と第3金曜の午前9時~午後4時に受け付ける。 同市がこれまで電話や面談で受け付けた相談件数は2024年度が計617件で、相談内容は離婚や別居に関する相談が最も多く43%、次いで夫からのDV相談が22%、自身の生き方に関する相談が18%、夫婦の在り方が14%だった。23年度は計523件で、相談件数は増加傾向にあるという。 担当する市ダイバーシティ推進室は「まんまるつくば(つくば市配偶者暴力相談支援センター)は、パートナーとの関係に関する相談や女性の抱える様々な課題に寄り添う窓口。DVに関する相談は性別を問わず受け付けているので、一人で抱え込まずどうぞお気軽にご連絡ください」と呼び掛けている。(鈴木宏子) ◆相談窓口の専用電話は029-856-5630。相談料は無料。電話代は自己負担。相談窓口の場所は相談者の安全確保のため非公開としている。

浴場を全面リニューアル 高齢者支援センターくきざき つくば

eスポーツ機器導入 設備の老朽化で風呂を沸かすボイラーが故障し2023年1月から利用を停止していたつくば市下岩崎、茎崎老人福祉センターの入浴施設が1日、全面リニューアルされ、名称を高齢者支援センターくきざき「ゆるり庵」に改め、3年ぶりにオープンした。施設内の活動スペースにはコンピューターゲームが楽しめるeスポーツ機器が市内の高齢者施設で初めて導入された。 同センターは高齢者の健康増進や生きがいづくりを目的とする施設で、入浴のほか、くつろいだり、食べ物を持参し飲食などができる。市内に住む60歳以上の高齢者と障害者などは利用料が無料になる。 市町村合併前の旧茎崎町が1988年に建築。鉄筋コンクリート造平屋建て、建築面積約1070平方メートル、敷地面積は1.5ヘクタールで、敷地内には他の施設も立地する。リニューアル前は浴室が1カ所しかなく、午前と午後で男女入替制とし、1日5人程度の利用者しかなかった。 23年の利用停止後、24年度に全面修繕のための設計を実施、25年度に改修工事を実施し、浴室や大広場の改修、ボイラーや排水管の交換などを実施した。改修費用は総額約1億2650万円。 リニューアル後は、浴室を男女別で2カ所に増やした。お湯は井戸水を毎日沸かす。大広場も改修し、畳24畳のくつろぎスペースと、eスポーツ機器が3台設置された活動スペースを設けた。1日150人の利用を目標にしている。 茎崎地区では、牛久沼のほとりの同市泊崎にあった入浴施設、茎崎憩いの家が耐震基準を満たしてなかったことから2021年3月末で廃止、茎崎老人福祉センターも23年から利用停止になり、市の入浴施設がなかった。一方、茎崎老人福祉センターが立地する地区は土砂災害警戒区域に指定されており、議会などでも指摘があったが、市によると既存建物の改修は可能だとしている。(鈴木宏子) ◆入浴施設の利用時間は午前9時~午後7時。利用料金は市内に住む60歳以上の高齢者と障害者、小学生以下は無料。市外の高齢者などは210円。中学生以上、60歳未満は510円。年齢確認のため初回は身分証を持参し登録が必要になる。

「みんなと仲良く」を諦められない《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》9

【コラム・2年 アトモスフィア】「みんなと仲良く」ということは、私達の大半がそうするに越したことはないと理解していて、それでも心のどこかで諦めてしまっていることなのだと私は思います。そして、それは実際に試みた結果として理想とのギャップに打ちのめされてしまうというより、平穏な暮らしの中ですら、自分でも意識しないうちに、自然と無力感を植え付けられているという方が近いのかも知れません。学校での集団いじめから国家間の戦争に至るまで、気が滅入るニュースは日々探すまでもなく転がり込んできますし、暮らしの中で出会う誰かの、ひどく鼻持ちならない言動を見たり、されたりして、人と関わること自体が億劫(おっくう)になることもあるでしょう。 普通の人間である私には、好きな人間と嫌いな人間がいて、それはきっとあなたも他の皆もそうであり、その時点で「みんなと仲良く」なんてことは空想でしかないのかも知れません。知れません、などと曖昧な語尾を繰り返すのは、断言がはばかられるというより、そういう現実に生きていながら、他でもない私が、心のどこかで「みんなと仲良く」を諦められないからです。 小学校の高学年頃、私は当時同級生の中では成績がとてもよく、それを鼻に掛けて心の中で周囲を見下しているようなすごい嫌な奴でした。隠していたつもりでも態度ににじみ出ていたのか、一部の子に意地悪をされることもありました。あるいはその意地悪が先にあって、それにかこつけて壁をつくっていたのかも知れません。いずれにせよ今となっては分からないことです。思い出にふたをするように市外の中学校に進学してからは人間関係にも恵まれ、小学校の思い出もおぼろげになりつつあり、今やすっかりその辺の高校生となりました。しかし、ふとした瞬間にかつての記憶が首をもたげて、私はどうするべきだったのだろうと疑問に思わされるのです。 私が「みんなと仲良く」をどうしても諦めきれないのは、ひょっとしたらあの経験の後ろ暗さへの埋め合わせが理由なのかも知れません。過去を変えることはできませんが、それを糧に未来をより良くすることは誰もが許された権利であり、私は今、身の回りにいる、あるいはこれから出会う人々に誠実に向き合うために、そのことを考えてみたいと思いました。それがこのコラムを執筆するに至った主な動機です。 誠実さの在りか 私達は皆、自分一人の力だけで生きていくことはかないません。誰かに養われる人もいれば、誰かを養うために仕事に従事する人もおり、それら全て一人の力では果たすことのできない営みです。お金に食事に住み家に服にと、必要なものは基本的に自分でない誰かの手から渡ってきます。そのために人は人と関係性を築くことを避けられません。裏を返せば、人間関係は相手から何かを得るためにあるのだ、ということになるでしょう。友人関係でさえその理屈は同じではないでしょうか。「何かを得る」というのは、決して実質的なメリットに限った話でなく、一緒にいて楽しいとか、安心できるだとか、目に見えない実感をも含みます。それらは生命や生活の維持に関わらずとも、私達の人生に幸福を与えるものだからです。誰だって、自分に何も与えてくれない、一緒にいた所で自分がすり減るだけの相手とは付き合いたくないものです。 しかし、そんなふうに言われてしまうと、まるで損得感情を抜きにした人間関係、すなわち「真実の友情」みたいなものが存在しないかのようで、反発を覚える方もいるかもしれません。ここで考えるべきなのは、打算的であることと、人間関係において誠実であることの関係性です。私はむしろ、人間関係が損得勘定抜きに成立しない以上、私達が「誠実さ」と呼んでいるものの鍵はそこに存在するのではないか、と思うのです。 前述の通り、私達は日常生活において、周囲の人間から多くの助けを得て暮らしています。生活を支えたり彩ったりする何かを日々受け取っているのです。そして、何かをしてもらった相手には感謝をするべきだということは、私達の中に当たり前のこととして浸透している認識だと思います。私は、恐らくこの認識こそが、人間関係において誠実であるために重要なことではないかと思います。特に友人関係においては。 友人関係よりも家族関係などの方が、生活、言わば生存における比重が重い分、感謝の重要性も高いのではないかと思うかもしれません。しかし、むしろここにおいて重要なのは、友人関係が「最悪、無くてもいい」ものであるという事実です。 旅行に行ったらお土産を買ったり、プレゼントをもらったらお返しをしたり、友人関係には無駄や面倒が多いものです(家族関係も似たようなものですが、そちらは血縁である分、多少の失礼は看過されるはずです)。そうと分かっていてなぜ続けるかと言えば、「やらないと申し訳ない」という感情がそこについて回っているからです。もう少し踏み込めば、「そうしないことで、相手やみんなから白い目で見られないように」という思惑です。それらの自然な習性は、人間の寄せ集まった社会で共有されることで、ある種の強制力を持った習慣となります。「最悪無くてもいい」関係性のためにそんな心労を払わなければならないだなんて、とても厄介なことです。だからこそ、そういう「お約束」をきちんと守ってくれる相手に、私達は「きちんとした人」「礼儀正しい人」という印象を抱きます。それゆえに粗末な扱いをしてはいけない、自分も同じくらい礼儀正しくしなければいけない、とも。これは、相手から何かをもらった、その事実が相手への誠意へとつながる例です。 友人なんて要らないと言えば言い過ぎかもしれませんが、他にも友人はいるだろうに、他でもない自分のために何かをしてくれたという事実。これはとてもかけがえのないことなのです。私達は私達の友人に対して誠実であるために、彼らから受け取ったものに対して、もっと眼差しを向けるべきではないでしょうか。受け取った恩を正しく認識しないことには、正しい恩返しは出来ません。私は学校で頻繁に忘れ物をしては友達に泣きついているので、「友達関係に損得はない」なんて口が裂けても言えません。私が一方的に助ける側ならともかく、人の助けを借りておいてそんなことを言うのは全くもって恩知らずであり、私の目指すべき誠実さとは程遠い態度であるからです。 分かりあうために さて、人間関係が助け合い、あるいは利害の受け渡しで成り立ってるのなら、人間関係を乱す人というのは、それを拒否する人のことです。相手の反応もお構いなしに自分の話題ばかりを続けたり、袋詰めのお菓子を一人で食べ尽くしたり、相手の些細(ささい)な気遣いへの感謝を忘れたりします。関わらない方が正解だと言いたくなる気持ちもわかるのですが、前述の通り私の目指すことは「みんなと仲良く」なので、そこでくじけるわけにはいきません。そもそも日々の生活において、誰かと関わらないようにすることは、結構な場合困難なことです。私の場合は学生ゆえに特にそれを実感します(嫌いなクラスメートからはクラスメートである限り逃れられませんし、住んでいる家や街を勝手に出て行くことはできません)。「分かり合えない」と思う相手との付き合い方を考えるのは、ただの願望やきれい事ではなく、割と有用なことなのです。 前提として大切なのは、分かり合い、仲良くするということは決して、相手の内面性の全てを好きになることではないということです。私達は、関わる人々の全てを把握できるわけではありません。見せたくない一面や言えない秘密は誰にでもあります。仲の良い友達の良いところばかりが見えるのは、良好な関係性を保つために、よき友達としての側面を彼ら自身が作り上げているからです。時には、友達の思いがけない嫌な側面を目にしショックを受けることもあるでしょう。そういう時、それまでに積み重ねた信頼があれば「まあいいか」と思えるかもしれません。 でも、中にはそんなふうに「まあいいか」とは思えない、十分な信頼を積み重ねていない相手もいます。或いは積み重ねた信頼ゆえに余計ショックを受けてしまうこともあるでしょう。そのような事態には、一体どうやって向き合うべきなのでしょうか。 重要なことですが、人が人に傷つけられたと思う時、その相手の振る舞いが必ずしも意図的とは限らないということです(悪意に駆られることもあるでしょうが、もとが理性のある人間ならば自分自身で反省することができますし、そうでなかったとしても、コミュニティの規範などによって自然と淘汰(とうた)されるものです)。それを踏まえて、私が今大切にしたいのは、あらゆる人間に対して判断を急がない忍耐を持つことです。 忍耐という言葉を聞いて、つい身構えてしまう方もいるでしょう。しかしそれは「我慢して善人になろう!」みたいな押し付けがましい根性論ではなくて、むしろ貴方や私の息苦しさを軽減するための技術なのです。良い人、悪い人といったきっぱりとした分類は、私達の認識する世界を単純明快なものにしてくれますが、ふとした瞬間にそれを裏切られた際、整合性を取るために自らの認識を修正する必要が生じてしまいます。好きだった人を嫌いになるのは、まるでそれまでにプラス100好きだった分、マイナス200嫌いになったようで寂しいことです。そこに何か認識のワンクッション(あの言動は本当に悪意があったのか? 何か事情があったのか?)があれば、人に失望しすぎることがなくなる一方で、善意に対してはただの善意以上に喜べるようになります。また、相手を「間違っている」側に追い込む必要がなくなれば、自分が正しいと信じる価値観も過信することもなくなります。結果として私達の見る世界はきっと善悪のこんがらがったよくわからないものに成り果てるでしょうが、それはきっと、楽しい時間をより多くの人間と分かち合える素敵なものでもあると思うのです。なぜなら、善悪や好悪の物差しの上では排除や拒絶の対象となる人々も、その物差しを外せば、ただ価値観が異なるだけの友人になり得るからです。 もちろん、このような忍耐も万能ではありません。それは一つの心構えであって、他者の人格それ自体に影響を及ぼすものではないからです。相手の無自覚な言動に傷つけられ続ける状況を甘んじて受け入れてまで、関係性を保つ必要はありません。むしろ、そういう時こそ、相手から距離を取ることが一つの選択肢となります。人は環境が変わったり、時間が経ったりすれば、自然と考え方や価値観も変化していきます。だからこそ、相手と自分とを分断するのではなく、頃合いを見て関係性を築き直すのを期待して、距離を置くことが大切になります。大切なのは、相手の人間性や相手との人間関係を一つに定義しないことです。好きな人がたまに見せる嫌なところに寛容になって、嫌いな人がたまに見せる良いところに敏感になることです。その心構えを捨てない限り、どんな人間に対しても、本当に分かたれるということはないと思うのです。 「そうありたい」と思うこと 今になって思うに、小学生の私が人間関係に失敗したのは、漠然とした「分かり合えなさ」にかこつけて歩み寄らないことを正当化しただけでなく、「人と関わることは逃げずに向き合うことだ」という思い込みを捨てられなかったことにあるのかも知れません。見下している相手のために傷ついたり、心を悩ませたりすることがひどく馬鹿らしく思われ、それでも逃げることはもっと恥ずかしかったために、自分を正しい側に、相手を間違った側に固定し、観客席から劇の批評をするような人間関係しか築けなかったのです。しかし、人間関係は元より悩ましいものであり、悩みから解放されたいのであれば、人間関係の方を捨てるしかありません。しかし、人が人と関わらず、誰の支えも得ずに生きていくのはとても難しいということは、これまでに説明したとおりです。 あの頃の私は未熟であり、きっと今もそうなのかも知れません。それでも、ただ周囲との隔絶に何の手も打てなかったあの頃に比べれば、単純な人間ではなくなったと思います。忍耐は自分を犠牲にして相手を許し続けることではなく、未来の可能性を閉じず、その曖昧さに根気よく付き合い続ける能動的な姿勢です。そういう地道な行動を積み重ねれば、「みんなと仲良く」という言葉もそう現実離れしたものには聞こえないように思えます。 そうは言ってもやはり、人には必ず好き嫌いや相性があり、たとえどちらも間違っていなかったとしても両立できない価値観が存在します。全員と同じくらい親密で、誰とも争わないという意味での「みんなと仲良く」はどうしても難しいことです。それでも私は、同じ人間として生まれてきた誰かを簡単に切り捨ててしまうことを、どうしても受け入れたくないと思います。 判断を急がず、善悪を単純化せず、自分の心をも守り、未来の関係性に期待を抱く。そうした態度を選び続けることは、他人や世界の形を変えることはできなくとも、自分に見える世界を平和に保ち続ける力にはなります。その理想はきっと未熟な点も多く、私は数えきれない挫折を経験するでしょうが、それでもなお「そうありたい」と願い続けること自体に、私は何かの意味を見出したいと思うのです。 終わり ◆土浦一高哲学部主催 哲学カフェ「第5回 語るカフェ」のお誘い私たち高校生は、社会人の皆様との対話を通じて、学校生活の中では得られない経験や発想に触れさせていただきたいと考えています。私たちと一緒に哲学を楽しんでみませんか? 年代や職業を問わず、多くの方々の参加をお待ちしています。▽日時 4月26日(日) ▽内容・第1部「ロジカフェ」 午前9時30分開場・受付/午前10時~午後0時10分 ロジカフェ/午後0時20分解散・第2部「エモカフェ」 午後1時開場・受付/午後1時20分~午後4時 エモカフェ/午後4時10分解散▽場所 がばんクリエイティブルーム2階 土浦市中央1丁目13-52▽参加申込方法 参加申込フォームよりお申し込みください▽申込締切 4月20日(月)▽問い合わせ先 電話 029-822-0137(平日午前10時~午後3時30分、土浦一高哲学部顧問 飯島)▽詳細は告知ページへ。

インド出身校長が退任 今後は地域貢献に意欲 土浦一高

県立土浦一高・附属中学校のプラニク・ヨゲンドラ(通称よぎ)校長(48)が31日退任する。インド出身の同氏は、県立高校長公募で採用され、副校長1年と校長3年を勤めた。任期は4年。インタビューに応じた同氏は「土浦とのご縁ができたので、今後できればこの地に貢献したい」と述べた。 よぎ氏はインドの大都市ムンバイ郊外で生まれ、地元の大学で数学、大学院で経済学を学び、18歳でIT企業に就職した。2001年に日本へ派遣され、12年に帰化した。みずほ銀行国際事務部や楽天銀行企画本部での勤務を経て、インド料理店の実家がある江戸川区の区議も務めた。 2022年、「学生の国際性を伸ばし、学校改革にも臨める人材」を求めていた大井川知事の面接を受け、日本初の外国出身県立学校長として採用され、県内きっての進学校、土浦一高に着任した。 東大20人・医学部20人合格へ 県から与えられたミッション=有力大学合格者増=については、学年主任らとともに2年先に東大20人・医学部20人(現役)合格の目標を立てた。過去2年間は東大・医学部への現役合格者を増やした。今年は目標まで届かなかったが「土浦一高には、数年先に東大40人・医学部40人合格とともに、海外を含め多様な進路を実現する力がある」と述べた。 進学指導以外で注力したことは「同じ公募採用の太田垣 竜ケ崎一高校長と、生徒・教員情報を管理する校務DXシステムを考案し、これが県の予算で来年完成する」「一部教員から反対意見もあった修学旅行を復活させ、高2生を台湾に送り出した」「企業の協力を得て『探求学習』を重視、授業では育たない自己肯定感や事業分析力を育てた」「一高伝統の『文武両道』を踏まえ、体育系や文系のクラブ活動を活性化した」などを挙げた。 常に生徒の身近に インタビューでは、生徒育成のための6カ年進路支援計画がまだ作成中であることが頭にあったのか、あと2年だけでも校長職にとどまれば、校長としての成果を見届けられたとの思いが伝わってきた。 また「私の(県立高改革に対する)考え方は、一部の教員や教員OBの目線とは違っていた。それでも常に生徒の身近にいて、生徒の声を聞きながら、生徒ファーストの意識でさまざまな企画を前に進めた」と述べ、「納入業者と交渉し、校内自動販売機の全商品について30円値引きも実現した」とほほ笑んだ。 「いずれ政治の仕事に」 退任後についてよぎ氏は「6月に東京で日本企業とインド企業の『マッチング・イベント』を開く計画を進めている。当面は、インドに進出したい日本企業、日本に進出したいインド企業をつなぐ仕事をしたい。いずれもハードルが高いがそのお手伝いができたらと思う」と述べた。 さらに「いずれ政治の仕事に戻りたい。予算と権限がない議員ではなく、両方を持っているプレジデント(首長)を目指す。教育でも行政でも、改革には予算と権限が必要だからだ」と、地域振興への思いをにじませた。(坂本栄)