火曜日, 8月 11, 2026
ホームつくば過去最大を更新 つくば市新年度予算案 総合運動公園の借入金62億円を返済

過去最大を更新 つくば市新年度予算案 総合運動公園の借入金62億円を返済

【鈴木宏子】つくば市の五十嵐立青市長は4日、2021年度当初予算案を発表した。一般会計は前年度当初比1.3%増の約897億1300万円、特別会計などを含めた総額は同比0.5%増の約1495億1300万円で、3年連続で一般会計、総額いずれも過去最大を更新した。

主な事業として、つくばエクスプレス(TX)沿線で小中学校3校と、11校が共同利用する温水プール、学校併設のコミュニティ施設2カ所を新設するほか、総合運動公園用地購入借入金のうち計62億円を3月補正も含めて返済する。

コロナ禍 法人市民税13%減

新型コロナの影響で、歳入は市税収入が前年度比2.2%減ると見込む。同市ではTX沿線地区の人口増などによりここ数年、市税収入が毎年10億円程度増えてきた。市税が減収となるのは、2011年のリーマンショック以来、10年ぶり。

市税のうち、法人市民税が同比13%減少すると見込む。固定資産税は3年に1度の評価替えなども行われることから2.2%減、個人市民税は1.1%減を見込む。

利子負担1億円減らす

総合運動公園用地(同市大穂、約46ヘクタール)は、市土地開発公社が金融機関から66億円を借り入れて購入し、24年3月が返済期限となる。毎年約3600万円ずつ増える利子を減らすため、3月補正で約53億円、21年度当初予算で約9億円を、市が公社に無利子貸し付けをして返済する。残り約6億円は22年度と23年度にさらに約3億円ずつ返済し、1年前倒しで完済する。これにより利子を約1億円減らすことができるという。

歳出の主な事業のうち学校建設は、23年4月開校の研究学園地区小中学校(建設費約20億5700万円)と香取台地区小学校(建設費約9億5300万円)で校舎の建設が始まる。24年4月開校のみどりの南小中学校は設計費(約2億2200万円)を計上する。

学校関連ではほかに、みどりの地区に新設の共同利用温水プールは約6700万円で設計を実施する。学校利用のほか、市民が利用することもできる。葛城小学校の新校舎と香取台小学校には、学校に併設して、地域住民が利用するコミュニティ施設を新設する(建設費計約1億3600万円)。

給食センターをまた新設

児童・生徒の急増により、学校ばかりでなく給食センターも足りなくなることが想定されるため、25年度の開所を目指し新桜学校給食センターの設計(約2200万円)を実施する。給食センターは今年4月、1万2000食を調理できる「つくばほがらか給食センター谷田部」が開所したばかりだが、さらに新設する。

文科省が進めるGIGA(ギガ)スクール構想の一環として約3億6200万円を計上し、小中学生に1人1台パソコン端末を整備する。

春日の旧消防庁舎を解体(2億2800万円)し、筑波大と連携して、跡地に児童発達支援センターを開設するための内装設計(900万円)を実施する。

つくばセンタービル改修設計費6300万円

つくばセンタービルの改修は、市民活動拠点を再整備するための設計費として約6300万円を計上する。

観光では、1986年に建てられ老朽化した筑波山観光案内所を建て替える(約1億7800万円)。

今年、再認定審査が実施されイエローカードが出されると危惧されている筑波山地域ジオパークは、旧筑波東中の一部教室に中核拠点を整備するための設計費(約2200万円)を計上する。

旧筑波東中には併せて、つくば霞ケ浦りんりんロードのサイクリング拠点を整備するための設計(約290万円)も実施する。

つくば駅と研究学園駅周辺ではシェアサイクルの実証実験を開始する(約1600万円)。

五十嵐市長が2期目の課題(20年11月5日付)に挙げた広報のあり方については、市民に市政情報を深く知ってもらうため、新たに「市政情報かわら版」を制作し、区会回覧で配布する(約190万円)。

今年もいつ収束するか先が見通せない新型コロナ対策費については、21年度当初で児童館のエアコン設置やタクシー事業者支援など計約6億4300万円を計上する。1人10万円の特別定額給付金があった20年度のコロナ対策費は279億円だった。

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