土曜日, 6月 7, 2025
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今度は退職金もらうの? つくば市長 《吾妻カガミ》189

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】3カ月前、1期目の退職金を辞退した五十嵐つくば市長に、2期目の退職金はどうするのか聞いてみた。答えは、前回と同様に辞退するか、今度は受領するか、まだ決めていないということだった。3期目に挑む市長選挙(10月20日告示、27日投開票)の1~2カ月前にはどうするか決断し、市民の前に明らかにする必要があるだろう。

退職金辞退というポピュリズム

市長退職金問題。4年前の記事「廃止を公約の退職金22円に…」(2020年6月5日掲載)、コラム91「…退職金辞退に違和感」(同10月5日掲載)を引っ張り出して整理すると、以下のような「事件」だ。

最初の市長選公約に「市長特権の退職金の廃止」を掲げた五十嵐市長は、市長1期目が終わる4カ月前、規定では2040万円の退職金を辞退すると発表した。記事の見出しでは「…退職金22円…」となっているが、これは法的な障害をクリアするための最少額で、事実上ゼロと考えてよい。

五十嵐市長は、公約を反古(ほご)にするのは次の選挙にマイナスと考えただけでなく、おカネにこだわらない(好ましい?)市長像を市民の間に広げたかったようだ。政治の世界では、この種の受け狙いの政治手法をポピュリズム(大衆迎合主義)と呼ぶ。

「私は、退職金廃止という公約そのものに違和感を持っている。退職金はハードな仕事をこなす市長の報酬の一部だから、大きな失政をしないことが前提になるが、堂々と受け取るべきと考える。市長選で退職金廃止を公約したのは、市長の仕事をうまくこなす自信がなかったからか?」(コラム91

今度も辞退? 対抗馬は有力県議

「市長特権の退職金の廃止」は2期目も続くのか? 3カ月前に五十嵐市長に聞いたのは、4年前のポピュリズム選挙を繰り返すのか知りたかったからだ。最初のパラグラフで書いたように、答えは思案中ということだったが、気になる発言があった。

退職金辞退を発表したあと、市長の後援者から受け取るべきだと注意されたと言うのだ。わざわざ後援者の助言を持ち出し、2期目は受け取るとの意向をにおわせた。それなのに辞退するか受領するか明言しなかったのは、判断材料が出そろっていなかったからだろう。

判断材料とは何か? 市長選に対立候補が現れるのかどうか、現れるとすれば強そうな候補か弱そうな候補か、3カ月前には見えていなかった。退職金辞退=強そうな候補が出馬した場合/退職金受領=弱そうな候補が出馬した場合―ではないかと聞いたところ、答えはムニャムニャだった。

記事「星田弘司県議が立候補へ…」(8月8日掲載)にあるように、選挙経験豊富な星田県議が立候補を決断し、秋の市長選の構図が見えてきた。星田県議=強そうな候補だから、上の分け方では退職金辞退のケースだ。でも、後援者の助言を受け入れ、ポピュリズム批判を振り払うために、退職金を受領する?(経済ジャーナリスト)

つくば市議選、新人20人出席 立候補予定者説明会

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立候補者説明会会場前の掲示板=つくば市役所

市長選は1人、市議選は計38人

任期満了に伴って10月20日告示、27日投開票で行われるつくば市長選・市議選の立候補者説明会が18日、同市役所で行われた。

市長選は、新人の星田弘司陣営のみが出席した。

市議選(定数28)は、現職18陣営、新人20陣営の計38陣営が出席した。男女別は男性が28、女性が10。

説明会に出席しなかった立候補予定者もいるとみられる。

事前審査は10月2日と3日に行われる。

土浦中都地区物語 引き揚げの記憶【戦争移住者の営み今に】3

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中都地区の開拓者とその親族の(左から) 尾曽章男さん 、飯島俊康さん、下田惇さん、相崎守弘さん、相崎伸子さん、皆川千寿子さん、飯島ゆきえさん、飯島節子さん

土浦市北部の中都地区は戦後、旧満州からの引き揚げ者や復員軍人らが1947年から48年にかけて入植し、平地に広がる松林を開拓した地域だ。筑波おろしが吹く、農業に適さないとされた土地に茂る松林を切り開き、野菜や果樹を栽培し、酪農を起こし地域に根付いていった。入植者の主な出身地は、全国で最も多くの開拓民を旧満州に送り出した長野県だった。

満州から茨城へ

8月、中都3丁目の自宅前にある下田梨園で梨の収穫が始まった。戦後、中都地区に入植し農園を開いた故・下田博さんが植えた「新高(にいたか)」という品種が今もたわわに果実を実らせる。中都地区では1950年代前半ごろから入植者の間に梨栽培が広がった。

幸水を収穫する下田農園の相崎守弘さん。園内には下田博さんが約70年前に植えた「新高」の木が今も梨を実らせている

当時、小学生だった下田さんは1940年前後に家族と満州に渡った。数年後、学業を修めるために家族より先に戻った郷里の長野県で終戦を迎えた。満州に残った両親、姉妹、弟の5人のうち、弟が病で、父親が終戦時の混乱の中で事件に巻き込まれ、帰国を前に命を落とした。母親と姉妹が無事帰国した。戦後「茨城には未開の土地がある」という話を耳にして、家族や同郷人と共に土浦に入植した。

中都地区にある、開拓者が建てた農村集落センターの石碑には、入植した57人の開拓者の名が刻まれている。長野県出身の38人を筆頭に、茨城、新潟、宮城、山形、岩手と出身地別に名前が続く。

開拓者は同郷者ごとに集まり土地を分け合い、「不二」「平和」「都和第二」「湖北」「中貫」「笠師」という名を開拓地につけた。のちに「都和開拓農業組合」として一つにまとまり、隣接する旧新治村の開拓地が加わり「都和地区開拓農業協同組合」が発足した。現在の「中都」という地名は、開拓地が「都和」と「中貫」の間にあることから名付けられた。

中都町農村集落センターに建つ開拓者の碑

タバコ畑に父の遺体を埋めた

下田博さんの妹・飯島節子さん(82)は、1942年に満州・吉林省で生まれた。現在の長野県飯田市出身で、両親が38年に息子2人、娘1人と、水曲柳開拓団として渡満した。兄の博さんは生前に記した「自分史」で、初めて足を踏み入れた満州の様子を「雪一面の冬景色(中略)、零下20〜30℃、なにものも凍らせてしまう寒さ」と記し、防寒具が不足し苦労した様子を述べている。一方で「オンドル」という朝鮮半島や中国東北部でみられる、かまどから出る燃焼ガスを利用した床暖房システムの暖かさ、銃を手にした父と出掛けた狩りのこと、満州人(中国人)が売るトウフなどの地元食について子どもらしい新鮮な驚きを書いている。

終戦の時、節子さんは3歳だった。敗戦後、あるトラブルから、暮らしていた村内で日本人が満州人を殺害する事件が起きた。村の中では満州人が「誰か日本人が責任を取れ、出てこなかったら皆殺しだ」と日本人に詰め寄った。正義感の強かった節子さんの父親は無関係にも関わらず、「俺が行く」と前に出たところを銃を向けられ射殺されたという。「タバコ畑に穴を掘って遺体を埋めに行ったんです。3歳だったけど、埋めに行ったというのは覚えてる」と節子さん。その後、身を隠しながら移動を繰り返し、旅順から引き揚げ船に乗り帰国したのは1年後のことだった。郷里の長野では、街ぐるみで父親の葬儀が行われた。

開拓地から筑波山を望む

泣くと捕まるから殺せと

「俺らが入ったのは、中貫開拓」と話すのは、中都3丁目に暮らす尾曽章男さん(89)。6歳で満州に渡り、10歳前後で終戦を迎えた。その後、紆余曲折を経て家族で土浦に入植した。日本で最多の3万3000人余りの満州移民を輩出した長野県の中でも、尾曽さんの出身地、長野県飯田・下伊那地域からは突出して多い約8400人が満州へ渡った。尾曽さんは吉林省白山子に同郷者14~15軒と暮らし、現地に展開する日本軍に向けた米作りを担った。軍との繋がりもあり、安定した生活を送ることができていた。

敗戦後、状況が一変する。満州人の略奪から逃れて、焼けた工場跡地に身を隠し、移動中に投石を受けることもあった。武装した中国共産党の「八路軍」が近づき危険を感じると、生き残るために八路軍に参加していた日本人兵士に助けられたこともあった。まだ幼かった妹のゆきえさんは、周囲から「泣くとソ連兵に捕まるから殺してくれ」と言われたと当時を振り返る。

引き揚げたのは終戦から1年後。その間に病にかかった長男と長女が帰国を待たずに亡くなった。母親は引き揚げ船で感染した伝染病がもとで、入港した佐世保の病院で命を落とし郷里に帰ることができなかった。

1932年から45年の間に約27万人が満蒙開拓団として満州へ渡ったとされる。背景にあったのが昭和の大恐慌による農村の疲弊と、農村の土地不足や過剰人口を解決するためのほかに、資源確保など軍事上の必要性があり、渡満した約8万人が亡くなったとされる。長野県出身者が突出して多かったのは、世界恐慌後に生糸価格が暴落し主産業だった養蚕への打撃から農村が困窮したことと、地元の指導者が満蒙開拓に積極的だったことなどがあるとされる。戦後、戦争が生んだ移民の歴史が土浦へと繋がっていく。(柴田大輔)

続く

夏花火本番 天衣が必携《見上げてごらん!》30

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甲府駅で筆者撮影

【コラム・小泉裕司】JR身延線の車中にいきなり鳴り響くチャイム音。大雨警報のエリアメールだ。

今年3回目となる「花火の日」8月7日(土)に開催された「神明の花火」(山梨県市川三郷町)は、雨予報の中、風や雲の影響もなく無事、打ち上げを終了。華麗な演目を締めくくったグランドフィナーレ花火の余韻を楽しむ間もなく、予約した特急「ふじかわ」に乗り遅れないよう市川大門駅に急いだ。

途中、大粒の雨が降り始め、駅到着時には雷鳴がとどろき、ゲリラ雷雨の雨嵐状態。折りたたみ傘は役立たず、天衣(てんい)を着用し、列車を待つ行列に並んだ。間もなくして特急券を事前購入した筆者は、駅に優先入場し、プラットホームで雨風を凌いだ。

その後入線した列車に乗車し出発したのだが、冒頭の気象状況で、次の停車駅「東花輪駅」で2時間40分の運転休止。甲府駅前のホテル到着は深夜1時を過ぎ、楽しみのビールものどを通らないほど疲弊し、床に就いた。

特急券は神対応で払い戻し

帰路土浦駅に到着間際、「ふじかわ」の指定席を譲ってくれた花火鑑賞士仲間から、遅延による特急券の払い戻し情報が届いた。だが、特急券は、昨夜、降車時に甲府駅員に渡してしまい手元にはない。ダメ元で、土浦駅改札口の駅員に払い戻しの手続きをたずねた。

「市川大門駅→土浦駅」の乗車券を提示しながら事情を駅員に説明。早速、駅員はJR東日本お問い合わせセンターの電話番号を記した案内メモに〇を付けた。その瞬間、「どうする?花火旅」(2023年9月17日掲載)の「JR窓口のたらい回し」が脳裏をよぎった。「またか!」の瞬間、彼はメモを取り下げ、「回収した特急券を甲府駅で探してもらう」と説明し、確認次第、連絡するとのことで帰宅した。

3時間後、「甲府駅で特急券を確認」との連絡が入り、翌日、払い戻しの手続きを完了した。JR駅員の「神対応」に心から感謝している。「終わりよければ…」ということで、1年前の一件をいったんリセットしてみよう。

「足立の花火」中止の英断

7月20日夜、東京足立区の荒川河川敷で開かれる予定だった「足立の花火」が、雨や雷の影響で開催直前に中止になった。ケーブルテレビのライブ中継画面には、稲光を背に中止の理由を説明する近藤やよい足立区長が映っていた。ゲリラ雷雨に見舞われながら帰路に着く観客の映像が流れるたび、切迫した中で観客の命を守るリーダーの英断に感服した。

しかし、多様な判断材料があることも十分承知しており、開催を強行する大会があることも理解できる。

今年の花火は、これからが佳境。本稿入稿の15日(木)は「諏訪湖祭湖上花火大会」(長野県諏訪市)、17日(土)は「赤川花火大会」(山形県鶴岡市)、31日(土)は「大曲の花火」と続くが、酷暑や台風の影響は予断を許さない状況が続くが、夏の花火大会では自分を守るための雨具は必携。

雨傘は周囲の邪魔となるため、大きな花火大会はすべて使用を禁止し、カッパやポンチョなどの天衣を推奨している。本日は、この辺で「打ち止めー」。「ドーン ゴロゴロ ザーザー」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

土浦公園ビル物語 高山俊夫商会【戦争移住者の営み今に】2

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高山俊夫商会の高山節子さん

土浦市中央、亀城公園の隣にある「公園ビル」で、建設初期から中心的な立場で活躍した1人が、同ビルで印刷業を営む「高山俊夫商会」創業者の故・高山俊夫さんだ。1993年に74歳で亡くなるまで、土浦全国花火競技大会の賞状を手書きするなど地域に欠かせない存在として地元を支えてきた。同店は現在、長女の高山節子さん(74)が跡を継いでいる。

店に入ると目に入る大きな印刷機を指しながら節子さんが、「機械のガッタンガッタンって音が聞こえると、ここ(公園ビル)の子どもたちが安心したんです。逆にその音がないと寝られないって話があったくらい」と、俊夫さんの思い出を語る。

俊夫さんが使用していた印刷機が店に残る

「いつも仕事をしてました。面倒見が良くて、几帳面だった」という俊夫さんは、印刷業とともに名刺や賞状の文面を手書きする仕事も請け負っていた。土浦の花火大会をはじめ、各地の小中高校の卒業証書などを数多く手掛けてきた。繁忙期には徹夜で筆を握り続ける姿を家族は見てきた。「土浦で起きてるのは警察署と消防署とうちくらいって言われてましたよ」と節子さんが話す。

シベリア抑留から帰国

俊夫さんは字がうまかったから、軍隊でも苦労はしなかったという。「あまりの字の上手さから、戦争に行っても事務方で戦場に行かなくていいと言われたくらい」だったという逸話が公園ビルに残る。

1919年、市内で生まれた俊夫さんは、陸軍兵士として渡った満州で終戦を迎えた。直後、侵攻してきたソ連軍の捕虜となりシベリア抑留を経験。帰国したのは4年後だった。

郷里の土浦に戻ると、市内で印章店を営む実家の支援を受け、完成間もない公園マーケットに店を構えた。当初は本家と同じ印章店を「本家から少しのハンコと幾らかの商売道具を分けてもらい、米びつにお米を一斗入れてもらって始めた」と節子さんが言う。

公園ビルに入る高山俊夫商会

窓を開けてお堀に釣り糸をたらした

「お堀から流れる川が、今もこの下を流れてる」という現在の公園ビルの地下を暗渠(あんきょ)となった川が霞ケ浦へと流れている。「ビルは3階建だけど、下に暗渠があるから4階建なんですよね」と話す節子さんは、バラック時代をここで過ごした当時を知る貴重な存在だ。

「昔はお菓子屋さんやアイスキャンディー屋さんがあった。魚屋さん、お花屋さん、電気屋さんに靴屋さん、八百屋さんに牛乳屋さんもあった。なんでもそろったんですよ」と懐かしむ。マーケットの子ども同士で遊んだのは、隣接する裁判所だった。敷地の中に湧き出る井戸水でスイカ冷やしたり、うっそうと茂るビワの木陰で鬼ごっこをしたりした。「遊んでると、裁判所の小使いさん(用務員)に怒られたりしてね」。

「ここはお堀の上にバラックを建てた掘っ立て小屋みたいなものだった。狭くなれば2階を付け足した。家の後ろの窓を開けてお堀の川に糸を垂らして魚やザリガニを釣った。棒でばちゃばちゃやって魚を追い込んだりもした。昔は水がきれいだった」と子どもの頃を思い出す。

1951年に始まった「土浦七夕まつり」は特に印象に残っている。「にぎやかでしたね。桜町の芸者さんが踊って華やかだった。アーケードを飾り付けて、金魚すくいや水風船なんかもやりました」

公園ビル地下の暗渠へ流れ込む亀城公園のお堀

父が残した字のお陰

公園ビルのモデルになったのは、戦後の先進的な建築物である「防火建築帯」として建てられた宇都宮の商業施設「バンバビル」。1951年、できて間もない同所を公園マーケットの住民が総出で見学に出掛けている。

「今あるこの建物は、いろんなところに視察に行って、あちこちにお願いして銀行からお金を借りて建てたと聞いた。お金もないのに建てたから、鉄筋じゃなくて借金コンクリートだって聞いたことがありますよ」と節子さん。

1993年、74歳で亡くなった俊夫さんが生前に語っていたのは「店は俺一代でいい」ということ。「でも急に亡くなってしまって、見よう見まねでどうにか仕事を継いできた。なんとかその後も30年続けられたのは、父の残してくれた字のお陰」と言って、節子さんは俊夫さんの手書きの賞状や名刺に目をやる。父が残した版を元に今も印刷物を作成している。節子さんは「いまだに父の字を使って仕事をしている。天国に行っても稼がせてもらっている。父には感謝しています」と話す。

達筆で鳴らした俊夫さんが手書きした賞状

イベント開催し新風

組合の代表理事を務める亀屋食堂の時崎郁哉さんによると、現在の組合員は17軒。その中で営業を続けているのは6店舗。その一軒に、以前に菓子店が入居していた場所をリノベーションして2018年にオープンしたギャラリー「がばんクリエイティブルーム」がある。音楽ライブや落語会、写真や絵画の展示会など様々なイベントを開催し、公園ビルに新しい風を吹き込んでいる。

時崎さんは「建物は60年以上経ち古くなっている。単純な居住目的じゃなく、商売を兼ねているのがここの特徴。『がばんさん』のように使うこともできたらと思うんです。食べ物に関わらず、最近はどこにいっても街が似たようなものになってきてるのは寂しい。少しでもおじいさんたちが残してくれた『宝』を生かしていきたい」と語る。(柴田大輔)

「老い」が尊ばれる時代 《看取り医者は見た!》25

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写真は筆者

【コラム・平野国美】コラム23「…今『老いるショック』」(7月20日掲載)を読まれた仏教関係者と話す機会がありました。「仏教の世界では老いを尊ぶ文化があり、大僧正は高齢の方が就任されることが多いです。昔ほどではありませんが、年上を敬う風潮は残っており、老いるショックは少ないと思います」とのことでした。

大僧正は僧侶階級制度における最高位の称号であり、仏教では修行と経験を積んだ年長僧侶が尊敬される存在です。実際、多くの宗派で調べてみると、大僧正は80代、90代を超えた方が就任するのが一般的です。

その方は「見た目が枯れることで独特の風格が出ます。説法時の低く掠(かす)れた声は、重要な教えを伝えているかのように、聞き手の注意を引きます。話される言葉には、ささいなことでも重大な意味があるように感じられ、聞き手を考えさせます。実際は分かりませんが…」とも述べていました。

僧侶は他の職種に比べて長寿であるとされ、その理由として、食習慣の徹底、瞑想(めいそう)、早寝早起き、腹式呼吸、日常の修業=適度な運動―などが挙げられます。また、老後の自分の存在が尊ばれる文化も、長寿に寄与しているのかもしれません。

生きる長さや量、そして質も

あらゆる病気のコントロールが長寿の一因であると考えられています。1935年の東京朝日新聞には「人生は五十年より短い日本人の命」とあり、平均寿命が男性44歳、女性46歳と書かれていました。

ところが、1959年の朝日新聞では、男性64.9歳、女性69.4歳と報じられ、寿命が延びた理由として、新薬の開発と治療方法の進歩が挙げられています。ガンや高血圧などによる死亡率は増加しているが、結核、心臓病、肝硬変などは減少し、厚生省は「女性は『人生70歳』を達成する見込み」と言っている、と。

健康と長寿を追求した結果、2024年の今、年金問題や少子高齢化問題が生じています。医学界や厚生労働省は引き続き寿命を延ばす努力を続けるでしょう。しかし、訪問診療の仕事で高齢者と接していると、彼らが必ずしも長寿を喜んでいないことに気づきます。理由は様々なのですが、生きる長さや量だけでなく、質も重視しなければなりません。(訪問診療医師)

土浦公園ビル物語 亀屋食堂【戦争移住者の営み今に】1

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亀屋食堂3代目の時崎郁哉さん

8月15日の終戦により、海外からの引き揚げ者や他県からの無縁故者、復員軍人らが土浦にも数多く移住した。右籾、中村地区にあった将校宿舎などの軍関連施設は「引揚者寮」として利用され、一時3500人余りが暮らし、農村地域では縁を頼った引き揚げ者による開拓が始まった。土浦の中に、戦争が生んだ「移住者」による営みが現在に引き継がれている。

バラックから始まった

土浦市中央にある亀城公園の隣に、長さ約100メートルの3階建の「公園ビル」(同市中央)がある。食堂や印刷店などが入居し、1階が店舗、2、3階が居住空間となっている。現在の建物は、終戦直後の1947年に困窮する引き揚げ者や復員軍人の救済を目的にバラック式で建てられた、住居一体型の「公園マーケット」を58年に建て替えたものだ。当時は珍しかった鉄筋コンクリート造だった。市主催の桜祭りに合わせて開かれた竣工式・開店大売り出しには県外からも見物客が訪れるなど多くの来場者でにぎわった。

亀城公園脇に建つ公園ビル

現在、公園ビルの各店舗を所有する17軒による「公園ビル商業協同組合」で代表理事を務めるのが、同ビルで創業77年を迎える「亀屋食堂」を営む時崎郁哉さん(49)。SNSでも話題に上る名物のかつ丼を求めて県外からファンが訪れるなど、地元以外にも新しい顧客を増やしている。郁哉さんは公園ビルで生まれ育った3代目。「ここは長屋みたいなところで、誰もが子どものころからよく知る近しい関係。学校が終わると亀城公園で近所の子ども同士でよく遊んだ。亀城公園は僕らの社交場でしたね」と話す。

同店の創業者で、同組合長を長年務めたのが祖父の故・時崎国治さん。1906年に福島県大玉村で生まれ、海軍航空隊に志願し土浦に来た。戦後、公園ビルの前身となるマーケットで1947年に亀屋食堂を開いた。開店当時の名物は、卵と小麦粉を使わず水だけで繋いだコロッケと秋刀魚のフライだったと郁哉さんが言う。

亀屋食堂初代の時崎国治さん

「昭和20年代に店に来てくれていた人に『コロッケは忘れられないよ、今も思い出す』と以前はよく言われてたんですよ。その世代の方も大分亡くなっちゃって寂しいですが、何もない時代だったからこそ、そういうものもご馳走だったのかな。当時、魚はよく獲れてたけど肉は貴重だったんですよね」

救済のため建設を請願

国治さんが「公園ビル」の歴史を、91年に作った冊子「公園ビル四十五年の歩み」に記している。同書によると「復員軍人、満州中支引揚者」の生活再建の場として、亀城公園のお堀から霞ケ浦へ注ぐ水路上に27軒からなる「公園マーケット」が建てられたのが1947年10月だった。最初の建物は「(水路上に)杭を打って建てた杉皮葺の急造バラック」で、一戸あたりの広さは「店舗二坪と四畳半一間」。押入れやお勝手はなく、トイレは5軒に一つだった。国治さんは「冬の寒さが堪えた」としながらも、土浦駅前には5、60人の引き揚げ者が暮らすバラック住宅が他にもあり、「贅沢(ぜいたく)は言えない」と述べている。

終戦直後の土浦が直面したのが急激な人口増加だった。1946年9月の土浦市議会議事録によると、45年11月1日時点で4万3665人だった人口が、9カ月後の46年8月5日には約7000人増の5万629人に増えている。各地から流入する引き揚げ者や戦災者たちによるもので、その増加数は月平均770人余り。

こうした背景の中で、1946年10月、移住者たちを救済するため住居と店舗を兼ねた「バラック式マーケット」の建設を説いた請願書が、「土浦市真鍋戦災者引揚者互助会」(萩原孝会長)から市議会に提出された。マーケットの建設場所として、かつて「前川マーケット」という商業施設があった現在の公園ビルが建つ旧前川町(現・中央2丁目)を流れる水路上が提案された。この新施設の建設計画は市内の「貸家組合」と呼ばれる団体が請け負った。地元住民の要望により関連機関と折衝をし、土浦市を保証人として43万円の建設費用を銀行から借り入れた。こうして47年10月に「公園マーケット」が建てられた。

創業当時の亀屋食堂

「よそ者同士の集まりで、当初は軋轢(あつれき)もあったそうです」と郁哉さんが話す入居者たちは、各自で商売を始めつつ共同事業として亀城公園のお堀でスワンボートの貸し出しをスタート。売上金でマーケットにアーケードを作るなどして徐々に結束を高めていった。

その後、1951年にはマーケット組合を結成し組合長に国治さんが就任し、老朽化する建物の建て替えに向けて動き始めた。56年には現在の「公園ビル商業共同組合」を発足させて、58年4月の現在の建物完成へとつながった。

郁哉さんは「長屋時代のことは直接知らないが、みんな苦労してきた人たち。軍人だった祖父は特に仕事に厳しい人だった。お客様に対するマナー、相手の気持ちになるよう教えられた。いたずらをして木につるされたのもいい思い出」だと振り返る。

レトロブームで女性客も増えた

現在の名物かつ丼は、2代目の父・次郎さんが始めたものだ。夏の高校野球の季節になると、弦を担ぐ関係者からの注文が増えるという。

名物のかつ丼

「最近はレトロブームもあって、純喫茶やうちのような食堂にも若い人がよく来てくれる。以前は少なかった女性客も増えた。部活帰りの高校生が店の前に自転車をいっぱい並べてゾロゾロ入ってきてくれる。いい光景ですよね。みんな若いから、こっそりご飯大盛り。おまけしたとは言わないけどね。個人店だとそういうのができる。部活やってたら腹減るでしょう。高校生ならいくらでも食べれるからね」と郁哉さんは言うと、「お客さんも若い人が増えているので、こういう食堂文化を伝えていけたらと思ってます。フードコートとは違う、長年やってるこういうところもあるんだよってね」と語った。(柴田大輔)

続く

水戸歩兵第二連隊歌への旅《映画探偵団》79

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イラストは筆者

【コラム・冠木新市】茨城県出身の詩人、野口雨情にはいくつかの謎がある。その一つ、「戦争は唄にはなりゃせんよ」と軍歌を作らなかった雨情だが、昭和7(1932)年に『爆弾三勇士』(映画探偵団32)、昭和9(1934)年に『水戸歩兵第二連隊歌』『地から生えたか 筑波の山と』(民謡・水戸歩兵の歌)を作詞している。これは一体どういうことだろうか。

私が『雨情からのメッセージⅡ/幻の茨城民謡復活コンサート』(2013年)を開催したとき(映画探偵団30)、『水戸歩兵第二連隊歌』の楽譜を探したが見つからなかった。その後も探し続け、『水戸歩兵第二連隊史』(水戸歩兵第二連隊史刊行会)に載っていることを知り、土浦市立図書館で楽譜をコピーすることができた。

長年の宿題を果たしたような気がしたが、改めて雨情がなぜ軍人の歌を作詞したのかの謎は残った。

コッポラの『地獄の黙示録』

コンラッドの小説『闇の奥』をベトナム戦争に舞台を移したフランシス・フォ一ド・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1980年)は、公開当時、賛否両論が巻き起こった作品である。だが今では、ベトナム戦争映画の名作として評価は定まっている。

ウィラ一ド大尉は、ジャングルの奥地に米軍の命令を無視し独立王国をつくって君臨するカ一ツ大佐(マ一ロン・ブランド)の暗殺を命じられる。ウィラ一ドは川をさかのぼり、カ一ツの王国をめざす。旅の途中でベトナム戦争の狂気の数々を目撃する。それはまたカ一ツの人生を追体験する旅でもある。

始めは米軍の秩序だった戦闘シ一ンが続くが、川をさかのぼるにつれ、軍の秩序は崩れ混沌(こんとん)化する。旅の終焉(しゅうえん)は、死体が木につるされ、首がゴロゴロ転がる、カ一ツが住む石の宮殿だ。登場したカ一ツは暗闇の中にいて、時折顔の一部分が映る程度のシルエットで表現される。

そこでは、ウィラ一ドとカ一ツの謎めいた対話が主となる。戦闘シ一ンの前半部分と静寂な後半部分の落差が激しいため、盛り上がりを期待していた観客は肩すかしをくらうだろう。

1980年の劇場公開版(147分)の後も、コッポラ監督は、2001年特別完全版(196分)、2019年ファイナル・カット(182分)と、39年間にわたり改訂を続けた。

ペリリュー島でほぼ玉砕

『水戸歩兵第二連隊歌』の楽譜を手にするまでに、昭和19(1944)年、水戸歩兵第二連隊がペリリュー島で世界最強の米第1海兵師団と戦い、ほぼ玉砕した歴史を知った。米軍から勇敢な兵士と称賛を受けるが、生き残った兵士の話では、飢えに苦しみ、人肉を食べたり、脱走する仲間を撃ち殺したり、地獄の状況そのものだった。

連隊歌の3番の歌詞にはこうある。

雄々しき我等 益良夫は
死なば護国の 鬼となり
生きて最後に 残るとも
身は皇の 楯となる
ああわが水戸の 二聯隊
茨城健児の その名こそ
名は徒の ものなりや

雨情は、水戸歩兵第二連隊の玉砕を知ったとき、何を思っただろうか。来年2025年は雨情没後80年で、戦後80年でもある。私はそれまでに、この歌の謎を解きたいと思っている。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

母の流した涙を次の世代に味わわせてはならない【語り継ぐ 戦後79年】6

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両親の戦争体験を話す稲葉教子さん

つくば市 稲葉教子(きょうこ)さん

つくば市の稲葉教子さん(73)さんは子どもの頃、いろいろな時々に母親から戦争の話を聞いて育った。「今73歳になって、母の流した涙を次の人たちに伝えておきたい、息子や孫に絶対に味わわせてはならない」と今年5月から、所属する市民団体の会報に両親の戦争体験をつづり始めた。

教子さんの母親は、1925(大正14)年埼玉県深谷市生まれ。戦争で2人の夫を亡くし、家を守るため3度結婚した。最初の嫁ぎ先は岡部村(現在は深谷市)の農家。山林を開墾した農家で、暮らしは楽ではなく、夏の間は蚕を飼って生活を支えた。青年団の活動で最初の夫と知り合い、当時は珍しい恋愛結婚だった。次の年、教子さんの兄になる長男が生まれ、夫と息子、夫の両親に囲まれ、母にとっては貧しくても一番幸せな時だったのではないかと思う。

抱いて寝たら骨が暖かかった

2、3年経って最初の夫が出征し、ある日突然、戦死したという知らせが届いた。夫の両親は茫然として涙も出なかった。その後、戦友が訪ねてきて、遺骨と遺品をもってきてくれた。遺品は血染めの便せんで、最期の様子も話してくれた。

母は血染めの便せんを、たんすの一番奥の下着の下にしまっていた。年末の大掃除の時、子どもだった教子さんが茶色くなった紙を見つけた。何か母の秘密のものなのではないかと、恐る恐る「母ちゃん、これなあに」と聞くと、母親が「それはね、母ちゃんが前のだんな様と結婚していた時、その人が戦争に行って、母ちゃんがその人に書いて送った手紙なんだ」と教えてくれた。

最初の夫は、母の手紙を胸のポケットに入れて出陣、「進め」という合図で進軍し、ちょうど胸に弾が当たって便せんが血で染まったのだと戦友は母に話してくれた。教子さんが小学2、3年生の1960年頃のことで、戦争なんてずっと遠い昔のことだった思っていたが、身近に戦争を感じたという。最初の夫がどこで亡くなったのかは分からない。

遺骨が返ってきた日、母は遺骨を抱いて寝た。「そしたら遺骨が暖かった。骨が『家に帰ってきてうれしいよって言ってるんだなと思った』」と母親は教子さんに語った。

夫が亡くなったので、息子を連れて実家に戻りたいと母が義理の両親に言うと、両親から「今実家に戻られたら家が絶えてしまう、何とかして家を継いでほしい」と言われた。義理の母親がかわいがっていた甥っ子を婿に迎えるので、どうにかして家に残ってほしい」と説得された。

2度目の結婚をしたが、太平洋戦争末期で2番目の夫も間もなく招集され、何カ月もしないうちに戦死の報が届いた。南方洋上で船に乗っている時に爆撃を受けて沈んだらしく、遺骨も遺品も無かった。

同じころ母の実家からは、2人の兄が亡くなり、目の不自由なおばあちゃんがいるので何としても戻ってほしいと言われた。しかし義理の両親が今度は、母を養女にしてお婿さんをとるから何とか残ってくれないかと畳に額をこすらんばかりにして頼み、母親は3度目の結婚を承諾した。

軍隊のお下がりを嫁にした

3人目の夫が教子さんの父親で、子供の頃、肺結核を患っていた。なかなか治らず、ある日医者に連れて行かれたら、これで殺せと毒薬を渡されたという。家族はいくらなんでも毒薬を飲ませることができず、寺のお坊さんに相談したところ「俺が面倒を見るから俺に渡せ」と言われ、寺にもらわれた。肺結核を患っていたから兵隊の検査でも甲種合格にはならなかった。

3番目の夫は結婚初夜、母に対し「俺は軍隊のお下がりを嫁にした」と言ったと、母から聞いた。教子さんはその話を聞いた時、子供ながら「母は好んで寡婦になったわけではない。これから妻になって一緒に生きていく人にそういうことを言うなんて、なんてひどい父なんだろうと思った」という。

一方で、父について「あの頃、肺結核で兵隊にもなれない、そういう奴はお荷物だから早く死んだ方がいいと言われ、父は軍隊と兵隊が大嫌いだったんだと思う。父には父なりの、そういう経験が影響していたんだと思う」と教子さん。

教子さんの父親は生前「戦争ってのはな、絶対やっちゃいけねえんだ」とよく口にしていた。父を看取り、82歳で亡くなった母は「戦争はしてはならない」と父のようには言わなかったが、淡々と話す母の人生の物語から、戦争をするとこうなるんだよと言っているような気がした。

教子さんは「母や父の人生をみると、戦争はどこか遠くで起きるようなことではなく、愛する人たちが不幸になっていくこと、だれが犠牲者になるか分からず、皆が不幸になることだと思う」と話し、「第2次大戦では、戦争が始まってからでは反対できなかったことを国民は知っているはずなのに、このころ忘れてしまっていると思う」という。(鈴木宏子)

終わり

声をあげる勇気、声を受けとめる勇気《電動車いすから見た景色》57

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イラストは筆者

【コラム・川端舞】前回コラム(7月19日掲載)で、「私は今、怒っている」と書いたが、同時に、自分の具体的な傷付きを公に書けない悔しさがある。この悔しさを代弁してくれる本はないかと探していた最中、「オリンピックという名の虚構―政治・教育・ジェンダーの視点から」(晃洋書房)に出合った。

カナダでスポーツを研究しているヘレン・ジェファーソン・レンスキーが、オリンピックが社会にもたらす負の影響を詳細に分析した著書だ。レンスキーによると、オリンピック開催都市では、競技場や選手村の建設のために、先住民族や低所得の住民の強制退去や、作業員の過重労働が頻繁に起こるという。

オリンピックのためにそのような人権侵害が起きているとは、無知な私はにわかには信じられなかった。しかし、改めて調べると、東京2020大会でも、国立競技場の建て替えのため、多くの高齢者が入居していた都営アパートが取り壊され、住民が立ち退きを強いられた。

また、選手村や国立競技場の建設現場で働いていた作業員が、クレーンに挟まれ事故死したり、過労自殺していた。国際的な労働組合である「国際建設林業労働組合連盟」は、各建設現場での労働環境を調査し、スケジュールの遅れや労働力不足により、労働者の安全が脅かされていることを指摘する報告書を2019年に公表した。

問題意識を持って調べれば、インターネットで東京2020大会に関連する人権侵害の記事を簡単に見つけられる。それなのに、私は当時、何も知らずに、ただオリンピックを楽しみにしていた。

声が暗闇に消える虚しさ

もちろん、知らなかったのだから仕方ないと言い訳することもできるが、では日本中がオリンピック歓迎ムードに沸いていた当時に、この事実を知ったとして、オリンピックのために慣れ親しんだ住居や命すらも奪われた人たちがいることを、私はどのくらいの熱量で受け止められただろうか。オリンピックという熱に浮かされたまま、彼らの声を聞こうともしなかったかもしれない。

オリンピックの裏で起きた人権侵害を公に告発した人たちは、勇気を振り絞って声をあげたに違いない。訴えられた側が社会的な影響力を持っているほど、周囲の人々が被害者の声に耳を傾けるのは難しい。被害者の声を聞くことで、それまで自分の信じてきたものがもろく崩れてしまうかもしれない。それは、ものすごく怖い。

でも、振り絞ってあげた声が誰にも届かず、暗闇に消える虚しさを私は知ってしまったから、私に向かって叫んでくれた声は、きちんと受けとめる勇気を持っていたい。(障害当事者)

パリ五輪男子サッカーの大岩監督、関彰商事で帰国報告会

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パリ五輪の報告をする大岩監督

パリ五輪男子サッカー日本代表U-23の大岩剛監督(52)が帰国し、スポーツアドバイザーを務める関彰商事つくばオフィス(同市二の宮)で13日、帰国報告会が開かれた。大岩監督率いる日本代表は、優勝したスペインに決勝リーグで敗れたものの、予選リーグでパラグアイ、マリ、イスラエルを撃破し、予選3連勝という好成績を残した。

大岩監督は「たくさんの応援を感謝したい。思うような結果は残せなかったかもしれないが、責任を持って戦った。とてもレベルの高い大会だったので、自分もチームも成長することが出来た。2年半活動し、準備し、自信をもって攻撃するチームづくりをしてきた。その結果として、予選リーグを全勝、(決勝で)優勝したスペインとも互角の戦いが出来た。この経験を通し、今後の日本サッカー界に良い影響を与えて行きたい」と述べた。

報告会には関正樹社長ほか社員約50人が集まった。関社長は「最終的にはスペインに敗れたが、結果ではないところで、楽しませてもらった。本当にお疲れ様でした。日本サッカー界を引っ張ってゆく大岩さんの活躍を、関彰グループ全員で応援して行きたい」と話した。

関社長は帰国報告会の進行役もつとめた。社員2人から、パリ五輪の空気や緊張感はどのようなものだったかなどの質問があり、大岩監督は「鹿島時代のアジア・チャンピオンリーグや五輪アジア予選の時の方が緊張感はあった。五輪に出場しなければならないというプレッシャーは大きかったので、パリに入ってからは緊張感よりもやってやろうという前向きな気持ちが強く、選手にもそれが伝わり良い試合が出来た。それでも本当はプレッシャーがあったようで、何もしなくても体重が5キロ落ちた」と語った。

「選手は2年半で成長した。この指導の実績をサッカー界に落とし込むという責任がある」とも話し、試合が終わった後の感想として「終わった後は負けた悔しさがあり、寂しかったり悲しかったりだったが、余韻は1時間ぐらいだった。リーグ戦に戻る準備もあったので、すぐに解散式をした。開放感はあっというまで終わった」などと付け加えた。

大岩監督は静岡県出身、静岡市立清水商業高校、筑波大学を経て、選手として名古屋グランパス、ジュビロ磐田、鹿島アントラーズなどでプレーした。その後、、鹿島のコーチ、2021年にはU-21日本代表の監督に就任した。関彰商事では2020年からスポーツアドバイザーに就任している。(榎田智司)

開拓団が逃げた後の居留地でソ連兵の残飯をあさった【語り継ぐ 戦後79年】5

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松浦幹司さん

つくば市 松浦幹司さん

市民講座「楽々大学」を主催するNPO法人スマイル・ステーション代表のつくば市、松浦幹司さん(87)は、旧満州(中国東北部)で生まれ、9歳だった終戦翌年、家族4人で引き揚げてきた。「このような体験はこれからの人たちに二度としてほしくない」と語る。

1937(昭和12)年、旧満州国(中国東北部)の首都、新京(現在は長春)で生まれた。盧溝橋事件が起きた年で、この後、日本軍は上海に攻め込み、翌38年、南京大虐殺といわれる南京事件が起こる。

松浦さんの両親とも山口県出身。新聞記者だった父親が、新聞社が満州に支社をつくるというのをきっかけに家族で満州に渡った。父親は一旗揚げようと、その後新聞社を辞め、満州でさまざまな事業を手掛けた。

40歳を過ぎた父に召集令状

1944年、戦況が悪化し満州国を実質的に統治していた関東軍が戦力を南方に移していたため、後を埋めるのに、40歳を過ぎた父親にも召集令状がきた。出征先はハイラルというソ連国境に近い町。父親は陸軍病院の事務方として勤務した。

松浦さんが小学2年だった1945年7月、父親がいるハイラルで夏休みを過ごそうと、母と1歳の妹と3人で、父のいるハイラルに出掛けた。ハイラルに近いマンチョウリという町が鉄道の終着駅にソ連の赤い列車が入るからと、見に行くのが楽しみだった。

父親が住む軍の官舎で夏休みの2カ月間を過ごすつもりだったから、衣類はカーキ色の半ズボンと上着のシャツ、帽子ぐらい。冬服は持っておらず、荷物もあまりなかった。

ハイラルの日本人学校は夏休みが無かったため、松浦さんはハイラルで小学校に通ったが、教室での勉強はあまりなく、軍隊の練兵場などの草取りに駆り出された。

ソ連が攻めてきた

ソ連が侵攻した8月9日は、午前2時ごろに父親が軍事演習だと言って呼び出され、軍用のトランクを持って出掛けて行った。

明け方、街中の方でドーン、ドーンという爆発音がして黒い煙が上がり始めた。父親は軍事演習だと言って出掛けたので、残された家族で「演習にしては派手だね」と話したのを覚えている。

そのうちラジオで、ソ連が攻めてきたことが分かった。慌てたが、どうしていいか分からない。そのうちに軍から「ハイラルの駅に集まれ。荷物は1人1個」という指示がきて、着の身着のまま駅に向かった。

駅で何時間か待ち、列車が入ってきた。民間人は後回し、軍人とその家族が優先され、母と妹と3人で列車に乗った。軍人も乗り、父親が家族がいる車両に来てしばらく一緒に過ごした。

軍は、ハルピンに向かって南下する途中のコウアンレイ(興安嶺)という山脈に陣を張って防戦するつもりだったので、チチハルで降りた。父親はここで分かれると言い、形見として軍の双眼鏡を渡してくれた。

家族はハルピンまで南下し、列車を下りた。ハルピン駅の近くには西本願寺があって、軍人の家族200~300人が寺の大広間に集められた。

日本が負けた

8月15日は寺で迎えた。大事な放送があるというので皆庭に出て、玉音放送が始まった、何を言っているのが雑音ではっきり聞き取れなかったが、大人たちが泣き出して、ぼそぼそと、日本が負けたというようなことが伝わってきた。小学2年だったので当時、負けたということがどういうことなのか、よく分からなかった。

何日か後、西本願寺はソ連兵の管理下になり、家族を引率してきた日本兵は武装解除となった。あすは日本に帰すという噂はいっぱい立って、皆それを期待していたが、そのような動きにはならなかった。

ある日、汽車に乗れと言われ、これで日本に帰れるのかなと思っていたら、ハルピン郊外の日本人開拓団が住んでいた居留地に移された。ソ連侵攻で開拓団は逃げ、空(から)になった居留地の一つだった。

コーリャンのおにぎりが1日1個

そこで冬を越すことになったが、食料はコーリャンのおにぎりが1人1日1個配られるだけだった。ソ連軍は開拓団の学校に駐屯し、野外で食事をした。食べ物はジャガイモのふかしたものと黒パンなど粗末なものだったが、日本人の子供たちは食事が終わるのを周りで待って、パンくずとか食べ残した残飯をあさった記憶がある。

栄養失調と赤痢、腸チフスなどの疫病で、毎日のように子供や老人が亡くなった。200~300人いた軍人家族の3割は亡くなったと思う。仲間が亡くなると庭に穴を掘って埋め、そのたびに皆で手を合わせた記憶がある。

母親は結婚前、看護師をしていて、多少医療の知識があり、浣腸の道具などを持っていた。赤痢になると命はないとわかっており、当時、便に血が混じったら教えなさいと言われた。血が混じっても、石鹸を溶いた石鹸液を浣腸で入れて、洗い出すしかなかった。

母親は、居留地での苦労がたたったのか、帰国してからひどい喘息を患い、当時の話を聞くことも出来ず52歳で亡くなった。

長春に戻っていい

中国では当時、毛沢東率いる中国共産党軍と蒋介石率いる国民党軍のせめぎ合いがあった。毛沢東の後ろにはソ連、蒋介石の後ろには米国がついていて、どちらも勝ったり負けたりしていた。1945年末か46年始めの冬、居留地をたまたま蒋介石が治めたときだと思う。日本人は長春(満州国崩壊により新京から改称)まで南下していいということになり、ハルピンから貨物車で向かった。長春には自宅があったが、戻ってみると、留守をしている間に中国人に取られて、入ることもできなかった。

終戦後も長春には何十万人という日本人が残っていたので、知り合いの日本人の家に転がり込み、点々とした。日本人が住むマンションは、階段の登り口に柵をつくってソ連兵や中国人が入れないようにしてあった。夜、ソ連兵の悪い連中が襲ってくると、皆で一斗缶を叩いた。ソ連兵が来たぞという合図となり、一斗缶を叩く音が広がって、しばらくするとソ連の憲兵が来て悪い兵隊を追い散らしくれた。

長春では収入が無かったので、転がり込んだマンションの台所でそら豆を揚げて、中国人に売って歩くのが子供の役割だった。揚げた後の油で石鹸をつくってまた中国人に売って歩いた。日本人同士、そういう知恵を出して助け合った。

中国共産党軍と国民党軍の行ったり来たりのやりとりは新京でも何度かあった。ドンパチにはあまりならず、相手の兵力を見て、危ないと思ったら一晩のうちに逃げてしまう。銃声もそんなにせず、ポン、ポン、ポンとした間に入れ替わった。共産党軍が勝った次の日の朝は、新京の目抜き通りのビルに毛沢東とスターリンの大きな写真が貼られ、逆に国民党軍が勝つと、蒋介石と米トルーマン大統領の写真が目抜き通りビルに飾られた。そういう入れ替えが1回か2回あったのを体験した。

父親と再開

長春に着いて2、3カ月後、父親と再会した。父は何人かの負傷兵を連れて面倒を見ながら南下していた。元気な日本兵はソ連軍に連れていかれたが、父は負傷者の面倒を見る部署だったから、シベリア抑留を免れた。長春の施設に負傷兵を収容し、父はそこで役目を終え、日本に帰国するまでの約半年間、一緒に過ごした。

1946年10月、引き揚げが決まり、長春から渤海に面するコロ島(葫芦島)まで、屋根のない無蓋車に乗って向かった。駅に停車するごとに中国人が物取りに来て「持ってるものを出せ」と脅されたが、皆で助け合いながらしのいだ。

コロ島では米軍の輸送船の船底に荷物と一緒に乗った。リバティ号という名前だった。船から九州の山々が見えた時、大人たちがデッキに出て泣いていた光景が目に焼き付いている。

佐世保に着くと、疫病にかかってないかを見るため2週間留め置かれた。どうやって連絡を取ったか分からないが、山口から祖父が迎えに来ていて、父の実家に向かった。

「満州から親子4人、1人も欠けることなく帰ってこられたのは珍しいと思う。どうして全員無事だったのか分からない。たまたまだったと思う」と松浦さん。

今、79年前を振り返って「辺見庸の『1937』という小説があって、日本人はずるずる(戦争に)行ってしまって、今なお、ずるずる生きているのではないかと警告を発している。今、いろんな情勢を考えると、まさしくその現象が起きつつあると思う」と語る。

年金の国民負担分は所得税に切り替えよ《ひょうたんの眼》71

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宝篋山と筑波山(筆者撮影)

【コラム・高橋恵一】公的年金の財政検証結果が厚生労働省から公表され、2057年度(33年後)の給付水準は、夫婦2人のモデル世帯で、その時の現役世代の平均収入月額41万8000円の50.4%(所得代替率)、21万1000円給付と試算され、現在の年金制度が前提としている所得代替率50%を確保できるとされました。

検証の前提は、実質経済成長率が-0.1%、合計特殊出生率が1.36(2023年は1.26)、会社員の夫と専業主婦のモデル世帯です。

まず、検証の前提ですが、実質経済成長率はこれまでの30年間の趨勢を採用し、今後は、女性、高齢者の労働参加と外国人の増加なのですが、いずれも現在の日本の低賃金層であり、所得に連動する保険料に対応する年金支給額ですから、低賃金を解消しない限り、給付水準は低下することになります。

さらに、低賃金構造の継続は、個人消費支出を押さえ、今後も経済成長の長期低迷が続くことになります。今回の、超高齢社会のピークを含むこれからの30年余を乗り切る年金財政検証は、楽観的な100年安心という政府公約のつじつま合わせに過ぎません。

検証では、給与所得以外の基礎年金(国民年金)のみの加入者世帯については、夫婦で10万7000円(所得代替率25.5%)と算出されました。支給年金から、住民税と後期高齢者医療制度の保険料、介護保険料などが差し引かれます。市町村などによって異なりますが、概ね各人2万円くらいになります。

モデル世帯に当てはめれば、夫婦の手元に残るのは6万円程度になります。単身だと3万円程度、1日1000円、とても生活できる額ではありません。

基礎年金については、年金制度として、現時点でも破綻していると言わざるを得なく、その対応策が提案されていますが、その多くは、厚生年金の加入条件を緩くして、厚生年金加入者を増やそうとする案です。厚生年金の第3号被保険者制度の撤廃もその1つです。しかし、年金の支給額は、加入期間と年金保険納付額に左右されますから、2057年度までの改善には間に合いません。

厚生年金の雇用者負担分は法人税に

近代国家において、高齢者と就労収入を得られないあるいは少ない人への年金支給は、医療、子供への教育と並んで、国家が責任を負う基本的な社会保障です。

社会保険料の天引き後の手取額が、生活保護費を下回る年金など、国民として多くの義務・役割を果たしてきた高齢者への社会保障とは言えません。基礎年金の保険料を所得税に切り替えるべきでしょう。加入者負担の保険料を合計して、所得税に振り替えれば他の財源に影響しません。

財政の大原則は、必要配分と応能負担。保険料負担を所得税負担にすれば、トータルの国民負担に変更はなく、負担が減額になる個人が出ますが、累進税率が公平に適用されていれば、不服のある人はいないはずです。つまり国民負担の増額にはなりません。同じ理由で、厚生年金の雇用者負担分は、法人税に振り替えたらよいと思います。(地歴好きの土浦人)

軍隊調の規則づくめ、普通の子が学童疎開児になった【語り継ぐ 戦後79年】4

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山田実さん

つくば市 山田実さん

つくば市に住む元農水省農業生物資源研究所の研究者、山田実さん(91)は、満州事変翌年の1931(昭和7)年、東京・小岩で生まれ、学童集団疎開と東京大空襲を経験した。戦争体験者の一人として「正義の戦争は国が言うもの。僕は不正義の平和の方がいい」と話す。山田ゆきよさん(88)=8月12日付=とは夫婦。

実さんが生まれた小岩は荒川の東側にあり、周囲は田んぼとハス田と野菜畑だった。荒川を境に西は東京下町の住宅密集地。後の東京大空襲で川の西側は焼け野原になってしまう。

小学1年生になった1939年、中国全土で戦争が拡大し、13歳年上の一番上の兄が兵隊にとられていった。

戦争が始まったんだよ

3年生だった1941年、太平洋戦争が始まった。12月8日朝、ラジオから大本営発表のニュースがあった。「何か始まっちゃったのかな」と言うと、「戦争が始まったんだよ」と兄。うすら寒い曇った朝だったと今でも覚えている。

後で調べて分かったことだが、真珠湾攻撃を始める前の11月20日、戦後、首相になった芦田均衆院議員が、戦争が始まると空襲があるので、大都市の子供たちを計画的に戦禍から避難させるよう求めていたことが分かった。

4年生になった翌年の4月18日昼間、学校で授業中、初めて空襲警報が鳴り、すぐ講堂に集められた。「静かにしろ」と言われたので皆、静かにじっと待ち、そのうち警報が解除。農業地帯だった小岩の町に被害はなかった。これが「ドゥーリトル空襲」と呼ばれた日本本土初の空襲だった。米海軍のドゥーリトル中佐を先頭に、航空母艦から爆撃機が飛び立ち、東京、名古屋、大阪などを爆撃した。

山形県に集団疎開

6年生だった1944年7月、サイパン島で日本軍が陥落すると、本土が空襲されると予想して、小学3年生から6年生まで、いなかのある子は縁故疎開、そうでない子は集団疎開が始まった。

翌月の8月9日、3年生から6年生までが登校班ごとに集まって夜行列車に乗り、上野駅から日本海側にある山形県鶴岡市、あつみ温泉の温泉宿に向かった。夕方、学校に集められたので、いつもの通学路を歩いた。途中まで母親が送ってくれて、ちょっと振り返ると、涙をのみ込むように上を向いていた母の姿を今でも思い出す。

疎開先には、25人程度の登校班二つに、20歳前後の若い娘が寮母として付いてきてくれて、子供たちの掃除や洗濯をやってくれ、病気になれば面倒を見てくれた。

軍隊帰りの先生が罰

大きな旅館だった。生活は、始めのうちはどこか修学旅行にでも行ったような気分だったが、軍隊調の規則づくめの生活で、たちまちこれは大変なもんだと分かった。

野間宏の「真空地帯」という小説は、社会から隔絶された軍隊の中は真空地帯だ、真空地帯に入って人は兵隊になると書く。実さんは「真空地帯」をもじって学童疎開について「普通の児童が疎開に行って学童疎開の児童になった」という。異常な生活体験をしなくてはならなかった。

食事は3食をわりと食べられたが、間食がなく、親に持ってこさせられた薬をおやつ代わりに食べて腹を壊した子もいた。生活は規則づくめ。実さんは6年生だったから班長をやらされ、偉そうなことを言った覚えがある。

面白いこともあった。秋になった時、温泉の裏山に山栗がなっていた。皆で採って、温泉の熱いところに浸して皆で食べた。それを軍隊帰りの先生に見つかって「けしからん、お前たちは」と叱られた。ところがこっちは食いたい盛り、寮母さんとそっとまたやって、一緒に食べた覚えがある。

食べ物のことが第一番だった。他の班の子が深夜、調理場に入って盗み食いをした。見つかって軍隊帰りの先生に、罰として班の全員が、近くにあった川に夜2時間ほど浸からされたという事件もあった。

ある晩、自習時間に口笛を吹いた子がいた。軍隊帰りの先生が隣の部屋にいて口笛を聞き、「山田、来い。お前の班に口笛を吹いた者がいる。だれだ」と怒鳴った。こっちは身に覚えもないし口笛を聞いた覚えもないので黙って座っていたら「はっきり言え」と言われ、箸箱で頭を殴られた。しょうがなくて「僕がやりました」と言ったら許してくれた。その後、廊下の隅で寮母さんと2人で泣いたのを覚えている。

冬は吹雪になると、3重に戸があっても隙間から粉雪が入り込むような厳しい寒さだった。旅館から海に向かってガラス窓があって吹雪の方を見ると、毎朝、ぞろぞろ歩く人の列があった。あの人たち何なんだろうと宿の人にそっと聞いたら「あれは朝鮮人だよ。こちらに長屋があるだろう。反対側にある炭鉱に働きに行かされているんだよ」と教えてくれた。

戦後、そのことを確かめようといくつか調べたが、朝鮮人部落があったこと、働かされていたこと、炭鉱が閉鎖になったこと、日本から立ち去ったことなど町の記録に無かった。改めて思い出し、町に尋ねたところ「記録はない」と言われた。しかし「僕は見たよ、温泉町のお年寄りに聞いてくれ」と言ったら町の職員はちゃんと行って調べてくれて「そういう証言がありました。戦争中のことをよく覚えてますね」と言われた。

焼夷弾が柳の花火のように落ちてきた

6年生は全員、翌1945年2月28日に疎開先を離れた。駅まで見送りに来たのは寮母さんだけだった。東京に帰ったのが3月1日。途中、印象的だったのは日本海側は雪ばかり、それが夜行列車で帰ってきてちょうど那須の辺りで実に明るい陽射しになり、太陽が輝いてると子供心に思った。

東京に帰ってきてからは体を壊し家にいた。胃腸をやられていたので、ほっとして体調を崩したんだと思う。

帰って間もない3月9日の夜、空襲警報が鳴った。何となく騒がしく、庭に出てみたら、B29が飛んでいて焼夷弾を落としていた。焼夷弾1個1個、まるで柳の花火のように落ちてくる。母親に「かあちゃん空襲ってこんなの?」と聞いたら、「いつもと違う」という答えだった。それが一般市民を対象にした3月10日の東京大空襲だった。10万人が死亡し、100万人が罹災したとされる。

翌10日午後、かかりつけの医者に行ったら、待合室は人でいっぱい。空襲に遭った人たちが手当てを受けに来ていた。看護師に「実君、君は明日」と言われ、家に戻った。

ガリ版刷りの修了証書

3月24日は小学校(国民学校)の卒業式だった。学校に行こうとしたら空襲警報が鳴り、卒業式はやらなかった。後で画用紙の半分にガリ版刷りで印刷された修了証書をもらった。

土まで焼けて真っ茶色だった

4月から中学生になった実さんは、荒川の西にあった中学校(旧制中学)に総武線で通った。荒川の橋を渡ると東京は焼け野原、何もなかった。普通火事の跡は焼けぼっくいが残って黒く見えるが、東京は土まで焼けて真っ茶色だった。赤くなったトタンがあちこちに散乱していた。総武線は山手線の上の3階部分を走る。何もなくなって真っ平になってしまったので、列車から東京湾が見えた。

入学した中学校は鉄筋コンクリート造で山の崖のそばにあったため焼けずに済んだ。また空襲があるといけないので、周りから赤いトタンを集めてきて、屋上に並べた覚えがある。

空襲は4月と5月の山の手大空襲など、その後何度もあった。中学1年生ながら「こんなに焼けちゃって日本の空軍も大したことないし、どうなるのかな」と、何となく厭戦(えんせん)気分というか、立派な兵隊になろうなんて気は起らなかった。8月6日の広島原爆投下は薄々、なんだかひどい爆弾が落ちたようだと人づてに聞いた。

8月15日、家のラジオの調子が悪くて、昼にあった天皇のポツダム宣言受諾放送は聞かなかった。放送が終わった後、2軒隣のおじさんが出てきて「実君、戦争に負けたよ」と教えてくれた。勇ましい少年じゃなかったから「あー終わったか。そうだ、もう(電球の光が外に漏れないように覆っていた)電球の黒い布をはずしていいんだ、夜でも電気をこうこうとして本を読めるんだ」と思ったという。ほっとしただけだった。

現在、6年ほど前から毎年11月、つくば市内の小学6年生に戦争体験を話している。「子供たちは僕たちがとんでもない経験をしたということを皆しっかり受け止めてくれる」と話し、「治安維持法ができたのは1925(大正14)年、敗戦が1945(昭和20)年、その間20年かかっている。今僕たちはどの辺にいるか、自ら世の中を見て、真剣に考える必要があるかもしれない」と語る。(鈴木宏子)

土浦一高は地元中学生に遠い存在?《竹林亭日乗》19

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散歩中に見付けた 玉虫(写真は筆者)

【コラム・片岡英明】土浦の中学生は市内に全日制県立高校が5校あり、高校受験には恵まれていた。それが、土浦一高の付属中設置以降大きく変わった。今回はその現状と受験生への応援策を考えたい。ただし、附属中設置の是非については論じない。

2024年の高校受験では、土浦市立中学8校の卒業生1103人のうち、426人(全卒業生の38.6%)が市内の5県立高校に入学。その人数と比率は、つくば市の市立中卒業生2174人が市内の県立高3校に入った人数302人(同13.9%)に比べると、土浦の比率はつくばの約3倍になる。

土浦の中卒生が進学した県立高を多い順に見ると、①土浦三高115人、②土浦湖北110人、③土浦工業99人、④土浦二高84人、⑤石岡一高・二高各35人、⑥土浦一高(定時)28人、⑦牛久栄進25人、⑧土浦一高18人、⑨竹園高16人―となる。

土浦一高は20年まで8学級を募集していたが、附属中学設置に伴い、21年には7学級、22年、23年には6学級になり、24年からは4学級に減った。地域の伝統校として学習面で成果を上げていた土浦一高は、今や土浦の中学生にとってはランク8位の遠い存在となった。

県は近年、地域の伝統校の定員を削減し、受験生を悩ませている。23年で見ると、土浦の中卒生の土浦一高入学はたった37名だった。

そこで我々は、24年の高校募集を4学級にすると、地元土浦からの入学者が20名ぐらいになると心配し、6学級体制を維持するよう県に求めた。しかし、付属中を併設しても中学用の校舎は建てないとの理由で、中学+高校=24学級体制は変えないとして、高校は4学級に削減された。

上の3パラグラフで示したように、今年、土浦の市立中から土浦一高に進んだ生徒が18人とは、ある意味ショックである。

土浦在住者の高校受験の悩み

土浦一高に入学する市町村別出身者(24年)は、つくば70人、牛久27人、土浦18人、かすみがうら11人、取手8人、阿見・守谷各6人―などとなっている。高校4学級移行を受け、土浦の受験生は土浦一高を敬遠し、牛久よりも入学数が少なかった。県は、土浦の受験生の悩みを汲み取ってほしい。

24年、土浦一高附属中Ⅰ期生80人が内部進学した。土浦一高への高入生に附属中からの内進生を加えると、つくばが高入生70人+内進生29人=99人、牛久が同27人+同10人=37人、土浦が同18人+同26人=44人と、土浦は牛久よりも多い。

土浦一高入学後3年間の学習で十分間に合うのに、土浦の中学生には定員が削減された土浦一高を避ける傾向が生まれているのだろうか? 受験生は伝統校の学びをもっと信頼してほしい。

しかし、「高校からでも大丈夫」との励ましも、土浦一高が内進生に焦点を当てた教育をするならば、高入生の学びは不安になる。今後、①高校を6学級に戻す、②附属中校舎を建て、教育環境を改善する、③入学後は内進生・高入生全員に青春・学び・進路に配慮した教育をする―ことを検討してほしい。(元高校教師、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)

溶鉱炉を流したように焼夷弾が落ちてくる、本当に恐ろしかった【語り継ぐ 戦後79年】3

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山田ゆきよさん

つくば市 山田ゆきよさん

つくば市に住む元音楽教師、山田ゆきよさん(88)は三重県出身。小学4年生になった1945年4月から8月、米軍の爆撃を受け、怖い思いをした。「どんな理由があっても戦争はやってはいけない」という。

1936(昭和11)年、三重県鈴鹿市神戸(かんべ)町で生まれた。父親は旧制中学の教師をしていた。町にはシュークリームを売るお菓子屋、パン屋、肉屋と何でもあったが、1941年12月、太平洋戦争が始まると、店頭からものが消えた。駄菓子屋にあったのは、原料が日本でとれる酢こんぶだけ。あとは全部、店頭から無くなった。早々にコメの配給制が始まり、食べ物一切が配給となった。

煤を持ってきて学校を迷彩柄に

1944年末ごろから日本各地のまちがB29の爆撃を受けるようになった。45年4月、4年生の新学期が始まると、二つの仕事が待っていた。一つは、2人1組になって校庭のどこかに防空壕を掘る仕事。しかし防空壕はまったく役に立たなかった。もう一つ、家から煤(すす)を持ってきなさいと言われた。あの頃は木を燃やして料理をしていたのでどの家にも煤があった。それをバケツに入れて持ってきて水をかけて真っ黒にした。通っていた国民学校は三重県内でも有数のクリーム色のおしゃれな学校だった。敵機から見えないようにと、煤で学校の壁を迷彩柄になるよう、まだら模様に塗った。「よく考えてみたら黄色と黒の迷彩柄なのでその方が目立っておかしな話だと思った」と話す。

その頃から、米軍の爆撃で家を失い疎開してくる人の姿を見るようになった。縁故疎開と学童疎開があって、家を失った人はまず親戚を頼って縁故疎開に来た。工業地帯で海軍の燃料工場などがあった四日市で空襲があり、ゆきよさんの家にも縁故疎開が来た。夜遅く、家族8人が四日市からぞろぞろやってきて「うちはあんたんとこの親戚や」と言ってきた。普段付き合いは全くなかったが、家に入れ、しばらく一緒に暮らした。

知らない子供がある日突然、クラスにいることがあった。親戚を頼って縁故疎開してきた子で、都会の子だから、着ているものや髪型も違って、とてもおしゃれな感じがした。見たこともないようなきれいなリボンを頭に載せていた子もいた。

田舎に縁故がない子供たちは集団疎開をした。名古屋から来た子たちは、神戸町の寺に集団疎開し、寺にピアノがないので、音楽の時間だけいつも2列に並んでゆきよさんたちの学校に来た。学校では「あの子たちは家が無くなってしまって来ているんだよ」と聞いた。

頭の上に降り注いでくるようだった

6月から7月になると、三重県は頻繁に米爆撃機B29の爆撃を受けた。北から、桑名、四日市、津、松阪、伊勢の五つの町がB29のじゅうたん爆撃を受け、焼夷弾で焼かれた。

ゆきよさんがいた神戸町は、津と四日市の間にある。夜、焼夷弾が落ちてくると、津と四日市はそれぞれ20キロぐらい離れていたが、焼夷弾が頭の上に降り注いでくるようたった。「見上げると、最初は上の方でピカっと小さな赤い火が見える。それがだんだんと、釣り鐘のような形で溶鉱炉をそのまま流したように落ちてくる。四日市の時も津の時も、頭の上から落ちてきたような感じ。本当に恐ろしかった。それはすごい景色だった」と振り返る。

爆弾が18発落ちて男の子が死んだ

1945年6月、神戸町から少し離れた村の住職だった祖父が亡くなった。当時父は、生徒を連れて軍需工場で武器をつくる手伝いをしていたため神戸町を離れることができず、寺を空(から)にするわけにいかないと、母親が姉と下の子を連れて父親の実家の寺に移った。60軒ほどの小さい農村にある寺だった。

8月初め、夏休みなので、たまたま母のいる寺に行っていた時、爆弾が近くに18発ほど落ちた。隣の津に軍需工場があり弾がそれたと見られた。田園地帯なので、まさかこんなところに爆弾が落ちるとは夢にも思わなかった。終戦間際、米軍のB29は低いところを通った。音がすごくて、近づくとザーと音がして、ガラガラガラ、ドッスーンとひどい音がした。防空頭巾などかぶっている暇はなくて、その辺にあった座布団を頭からかぶって、下の弟と妹を、母と姉が手をひいて逃げた。

ちょうど3軒家が並んでいたところの3軒目に爆弾が落ちた。男の子たち3人が外で遊んでいて逃げたが、そのうち小学3年の1人が破片に当たって死んだ。B29が行ってしまってから、見て回ったら、あちこちの田んぼにすり鉢状に穴が空いていた。小さい川に細い石の一本橋があって、その上に爆弾が落ち、一本橋は衝撃で100メートルくらい跳ね上がって、民家の屋根を突き破り、床を突き破って、地面にめり込んでいた。

ヤルタ会談合意と原爆開発がビラに

終戦間際になると、空からよく米軍のビラがまかれた。1945年8月初めごろ、米軍が落としたビラを、寺の隣の男の子が拾い、こんなのが落ちてたよと持ってきてくれた。表に米兵とソ連兵が握手してる写真があって、裏面には「アメリカが強力な爆弾(原子爆弾)をつくった。早く降参しないと大変なことになるぞ」と書いてあった。「そういうビラは隣組の組長がすぐに回収して皆の目に触れないようにしていた。私と男の子しか見てないと思う」。

言論統制も敷かれていた。近くに独り住まいの元気のいいおばあさんがいて、近所の人と雑談している中、ふっと言ったことを、だれかが言い付けて警察に引っ張られた。「こんなにぎょうさん死ぬのに、それでもお米が足らんやがな」と言っただけだった。その頃は日本が戦争で負けているのを何となく知っていたが、おばあさんはそう言っただけで警察に連れて行かれ一晩留置された。警察では「誰が言ったのか」ということを厳しくとがめられたという。「誰も言わへんがな。わしがそう思ったから言ったんやがな」と通して、翌日帰ってきた。うっかりものも言えない、そんな時代だった。

8月15日、夏休みだったが、全員集まりなさいと言われ、学校に集められた。教室に入ると、先生は「日本は戦争に負けました」と言い、黒板に、支那(中国)、朝鮮と書いて、一番下に日本と書き「日本は一番下になりました」と言った。ちょっと悲しい気持ちになったが、正直ほっとしたのを覚えている。

戦後79年経ち、若い人たちに「戦争がどういうものか、できるだけ過去の戦争について知ってほしい」という。「戦争を始める時『わが同胞を助けるため』とよく言うが、こういう理由だからとか、戦争は理屈じゃない。今の日本を見ていると、だんだん私たちが若い頃体験したような空気になってきている」と話す。(鈴木宏子)

「農業者」と「農家さん」《邑から日本を見る》165

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涌井義郎さんの堆肥作り体験会

【コラム・先﨑千尋】今、一般に農業生産に携わっている人のことは「農業者」と呼ばれている。農に関連している人たちは農家のことを「農家さん」と、さん付けで呼ぶことが多い。では、農業生産者は果たして「業者」なのか。農家にどうして「さん」を付けるのか。私はこの呼称にずっと違和感を抱いてきた。

水戸市内原町にある鯉渕学園で有機農業を教え、定年前にそこを辞め、2011年に有機農家を育てる研修農場「あしたを拓く有機農業塾」を立ち上げた涌井義郎さんは、近著『未来の食と環境を守れ-有機農家からの提案』(新日本出版社)でこの2つの表現に異議を唱えており、「そうだ、そうだ」と思いながら読んだ。

涌井さんによれば、もともと農は生業(なりわい)。農家のくらしは、業すなわち一般的な理解で言う経済活動だけで成立しているわけではない。生産された農産物の一部は自家消費に使われ、隣人や親戚にも配られる。生産活動で用いられる資材も堆肥や敷き藁(わら)などのように自給することもある。ちょっとした道具も手づくりできる。

このような家族農業が生業。日本の農家の95%を占めている。そうした農家を一括(くく)りに「農業者」と呼んでいいのか。そう、涌井さんは訴えている。

「農家さん」も同じだ。職業に「家」を付けるのは、作曲家、画家、作家など1つの領域を専門とする人のことだ。鍛冶屋、豆腐屋、下駄屋、床屋など「屋」を付ける職業もある。今はそれらの職業はだいぶ廃れているが、農村では、多くは農業との兼業だった記憶がある。

相手を呼称で言う場合、豆腐屋さん、床屋さんとは言うが、画家さん、作曲家さんなどと言うだろうか。「農家さん」だけは別格なのか。

農民や漁民の「民」の語に蔑(さげす)みが含まれてはいないだろうか、「さん」を付け、農家の評価を底上げしようとしている善意が現れているのではないか、それが涌井さんの見立てだ。私も「農家さん」と言われると、こそばゆい感じがしてならない。「農家」だけでいい。断じて、農業者ではないのだ。

「百姓」という言葉

百姓という言葉もある。永く差別用語として使われてきた。私は学生時代、旧友と口論していて「どん百姓」とののしられたことを、今でも鮮明に覚えている。私の知人で名刺に「百姓」と入れている人を何人も知っている。姓は「かばね」と読み、特定の技術職あるいはその技術・技能を代々伝える家系のことを言った。農民でありながら、同時に様々な仕事を兼ねる人々が百姓だった。むしろ誇るべき言葉だった。それがいつの間にか逆転してしまった。

涌井さんは自分自身の経験をもとに、本書で「有機農業に舵(かじ)を切った現在の農政に対して、担い手となる有機農家を育てるために技術指導者を増やせ。そのために1兆円以上の農家育成予算を」などと提言している。有機農業の将来に対してどのような絵を描いても、誰がそれを担うのかが基本。それが抜けていれば絵にかいた餅になりかねない、というのが涌井さんの主張だ。

その他、本書では有機農業の技術など学ぶことが多い。涌井さんは2019年に、地域生産の有機農産物と国産無添加食品のオーガニック直売所を笠間市に開店している。(元瓜連町長)

有機農家が作ったオーガニックの店

傍観者に行動呼び掛ける案も 筑波大生ら 痴漢・盗撮被害防止ポスターを作り直すイベント

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オリジナルのポスター原案を制作する参加者

つくばエクスプレス(TX)の駅構内などに貼られている痴漢や盗撮の被害防止を訴えるポスターを作り直し、新たにオリジナルのポスターを制作しようというイベント「ちかん、盗撮 誰のせい?」が10日、つくば駅前のつくばセンタービルで開かれ(7月31日付)、中学生や大学生、社会人など男女10人がそれぞれ、ポスターの原案を制作した。現場に居合わせた第3者ができる5つの行動をポスターに記載する案が複数の参加者から出された。

5つの行動は①被害者の知り合いのふりをして声を掛けるなど「加害者の気をそらす」②自分の安全が確保できるなら加害者に注意するなど「直接介入する」➂警察や駅員に知らせるなど「周囲に助けを求める」④スマホで映像や音声を撮るなど「被害の証拠を残す」⑤後で被害者に声を掛けたり通報を助けるなど「後で対応する」ーの5つ。居合わせた人がただ見ているだけでなく行動する人(アクティブ・バイスタンダー)になることで、痴漢や盗撮などの抑止につながるとされている。

イベントを主催した筑波大3年の上田咲希乃さん(21)は「被害者と加害者だけに限定せず、傍観者が自分たちの問題としてとらえ、行動していくというポスターが結構見受けられたのが良かった」と話した。

イベントは、TX駅構内に掲示されているポスターに「スカートを履いている時が危険」「夜道の一人歩きを避ける」と書かれているなど、被害者に自衛を求める価値観に違和感を感じた上田さんが呼び掛け、9人でプロジェクトを立ち上げ、開催した。

臨床心理学や犯罪心理学が専門で実際に性犯罪者の治療に取り組んでいる原田隆之筑波大教授、ポスターを制作したつくば警察署、つくば市ダイバーシティ推進室、性暴力や性差別を無くす取り組みをしている慶応大学の学生団体などが参加した。

中学生や大学生らは、原田教授やつくば警察署の担当者などから話を聞いた後、それぞれオリジナルのポスターの原案制作に挑戦した。

上田さんは「きょう制作してもらったポスターを参考に、今後、2点か3点のポスターを改めて制作して、9月下旬か10月初めを目途につくば警察署に持っていきたい」と話し、つくば警察署生活安全課の植野真人係長は「筑波大生が自分たちの視点で作ってくれるなら、県警本部に上げたい」としている。(鈴木宏子)

大東亜共栄圏信じ、国を守りアジアのためという気持ちだった【語り継ぐ 戦後79年】2

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自宅で戦争体験を話す木村嘉一郎さん

つくば市 木村嘉一郎さん

つくば市臼井に住む木村嘉一郎さん(95)は太平洋戦争末期の1944年、東京陸軍少年飛行兵学校の第19期生となった。日本を中心にしてアジアの国々が栄える大東亜共栄圏の構想を強く信じて、この戦争は日本の国を守ると同時にアジアのためという気持ちだったので、兵隊に行くことは当然の義務だと思っていたという。

13歳の時に乙種海軍飛行予科練習生を受験、目の検査で不合格となり悔しい思いをしていたので、兵学校に入ったことは誇りだった。戦争で死ぬという感覚はなかった。

入校後は学業や鍛錬に厳しい生活を送ったが、比較的楽しい生活だったと振り返る。

学校でのスケジュールは朝5時30分に起床し点呼と体操と掃除。6時40分 朝食をとり自習。8時 服装検査。8時15分 学科教育。12時 昼食。13時 術科教育。15時15分 運動。17時 入浴と夕食。18時30分 自習。21時 点呼。21時30分 消灯というものだった。生徒は、軍人の身分である兵籍に編入され、木村さんは月給として5円50銭の支給を受けていた。

ほとんど外出がなかったので戦況も世界情勢も全くわからず、上官にあたる中隊長が話をするぐらいだった。そんな中でも1945年3月10日の東京大空襲や、戦闘機のエンジンをつくっていた三鷹の中島飛行機武蔵製作所が米爆撃機B29の標的になったことなどは耳に入ってきた。

8月15日、突然の玉音放送を全校生徒で聞くことになる。内容は分からなかったが、戦争が終わったことだけは理解できた。内務班に戻り上官の話で、ポツダム宣言を受諾し全面降伏をしたことを知った。自分のことよりも、国家は、日本は、どうなるのかという人が多く、個人のことを話す人は少なかった。

1週間で世界は変わった

8月21日、学校は解散となり、実家に帰ることになった。10カ月ぶりに戻り安堵もあったが、今後の見通しも立たず仕事もできず、ただ呆然(ぼうぜん)と日々を送っていた。地区内では35人が兵隊に行き、13人の戦没者があった。満州に行って行方不明の者もいた。

木村さんの住む六所地区(つくば市臼井)でも戦争中、山林に戦闘機が落ちる事件があった。地元の大人たちは米軍が落ちたのかと思い、竹やりをもって落ちた場所に向かったが、日本兵だったので皆で助けたという話を聞いた。

終戦を迎えて8日目の23日の夜、神社の境内で盆踊りをすることになったので見に出掛けた。よその集落の人も加わり、盛大に行われ、明るく楽しそうな様子だった。木村さんは「わずか1週間で状況は変わったのか」と信じがたかった。

「身内に不幸があった状況なら、まったく気に留めず、こんなに楽しんでいいのだろうか。この人たちはどんな気持ちで戦争を考えていたのか」と思ったが、人々のこの姿は、今日を強く生きるという現れだったと解釈した。

当時の農村は、自分の家に本などはなく、新聞を購読している人も少なかったので、社会情勢をあまり知らなかった。「敗戦の打撃は年長で教養ある者ほど大きく、若い人たちは早く新しい時代の流れに乗ることができたのだと思う」と語る。

木村さんは戦後、地域のリーダーとして10年もの間、区長を務めた。60を過ぎて独学で地域の歴史の勉強を始め、今もノートに記録を続けている。毎年、木村さんの研究や歴史の話を聞きたいと、地区の人や話を聞きつけた人が集まってくる。

地元の六所児童館で開かれた歴史勉強会。木村さんの話を聞きに地元の人たちが集まる

木村さんは「今なお、世界中で戦争の話を聞く。戦争の記憶のある者がその実情を若い世代に伝えていく必要がある」と話す。(榎田智司)

人生暇つぶし《続・平熱日記》163

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】もう何年も同じ風景のままの本棚。その中のずっしり重い○○画報という女性雑誌を手に取ってみたのは、妻が亡くなってしばらく経ってからのこと。「あこがれの軽井沢で…」という大きな文字が目立つ表紙。巻頭には緑に囲まれたモダンな平屋の建物の写真。

それは文化学院の創設者、西村伊作の別荘。この当時の西村家の財力からするとむしろ質素にも見える別荘は、実は当代きっての文化人であり教育者だった伊作氏の軽井沢や別荘建築に対する理想や思いが詰まっている。

この雑誌を読んだせいかはわからないけれども、妻がしきりと軽井沢へ行きたいと言い出したのは亡くなる数週間前ぐらいだったか。それまで一度も旅行をせがんだりしたことはなかったし、軽井沢に行ったことさえなかったのに。

てっきり日帰り旅行だと思ったら宿泊をしたいという。それはちょっと無理だと家族の誰もが思ったのだけれども、本人は行く気満々というか行ける気満々だった。結局、在宅医療に来てくれるお医者さんに説得されて軽井沢行きはかなわなかった。

行ってみるか軽井沢

ところで、長女の義理のお母さん、姑さんはとても元気な人で、今も海外旅行の添乗員をしていて1年の半分ぐらいは日本にいない。そのお母さんが、この夏に長女家族と軽井沢に避暑に行くからと私も誘ってくれた。正確には北軽井沢。上田出身のお母さんはその辺りの事情に詳しく、「軽井沢は実は結構暑いのよ」と、より標高の高い北軽井沢推し。

私自身は避暑などという概念すらなく、夏はとにかく暑いのが好きで、海や山を駆けずり回っていたい方だったのだが、このところの尋常ではない暑さと年齢のせいか、それからつけっぱなしのクーラーにも罪悪感を覚えたりして、夏は涼しいところで過ごしたいというふうに考えが変わってきた。

ある夜のこと。まだ起きる時間ではなかったが目が覚めたので、紙粘土で文化学院の旧校舎を作って描くことにした。実は、私はお茶の水の文化学院に日曜日の社会人対象の絵画講座の講師として長いこと通っていた。入口の大きなアーチが印象的な西洋風の洒落た建物だった(多くの文化人を輩出した自由で独創的な学び舎も時代の波には勝てず約百年の歴史に幕を下ろした)。

ネットで校舎の画像を見ながら、当時を懐かしく思い出す。フランスから帰ってきたばかりの私を文化学院に紹介してくださったのは当時の大学の恩師。そういえば先生は晩年を軽井沢で過ごされた(まきストーブのまき割りに行くという口約束をしたきりになってしまった)。

フランスから帰って来てちょうど30年。この夏、彼の地ではオリンピックが開かれている。開会式の様子を見ながら、懐かしい風景を思い出す。聖火の灯されたチュイルリー公園では、嫌がる妻と観覧車に乗ったっけ…。

そして、当時学院長だった西村八知先生のエスプリに富んだ名言がふと頭をよぎった。「人生暇つぶしだから…」。行ってみるか軽井沢、暇つぶしに。夏の浅間山を妻に見せるつもりで。(画家)