土曜日, 7月 2, 2022
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茗渓学園が9大会連続優勝 高校ラグビー県決勝

【池田充雄】第100回全国高校ラグビー県代表決定戦が7日、水戸市のケーズデンキスタジアム水戸で開かれ、茗渓学園(つくば市)が88-0で日立一高(日立市)に勝利し、9大会連続26回目の優勝を決めた。茗渓は12月27日から東大阪市花園ラグビー場で開催される全国大会への出場権を獲得した。  茗渓学園 88-0 日立一前半 47-0後半 41-0 茗渓学園は前後半とも7トライずつを挙げ、守備では零封で日立一を圧倒した。フルバックの大田浩平(3年)は俊足を生かしてこの日3トライ、またキッカーとしても7本のコンバージョンキックを決めた。「これだけ観客がいる大舞台は久しぶりで、緊張がありうまく入れなかったが、最初のトライを取って自分たちのペースにできた」と話した。 後半16分、この日3つめのトライを決めた大田浩平 川尻圭人主将(3年)は「ゲームプラン通り進められ、試合内容は良かったが、花園に向けてはまだまだ満足ではない」とし「密集での押し込みはしっかりやろうと練習してきた部分で、うまく対応できた。しかし攻撃でちょっとしたミスが出たり、反則を取られたりして、うまく前へ進めることができなかった」と振り返った。

《県南の食生活》17 栗王国茨城 「筑波」「ぽろたん」

【コラム・古家晴美】今年は長い梅雨、夏の猛暑と続いたが、ようやく秋の気配が感じられる。先日、旬を控えまだ小ぶりの栗の実をいただき、渋皮煮を作って初秋の味覚を楽しんだ。 茨城県の栗生産量は、10年以上、全国1位を誇っている。県南地域の生産地としては、かすみがうら市、石岡市をはじめ、つくば市、土浦市などが挙げられる。これから秋が深まるにつれ、店頭にも多く並ぶことだろう。 栗は縄文時代の遺跡からも出土され、日本人にとっては馴染(なじ)み深い食べものだ。ニホングリの原生種と考えられているシバグリは、北海道中部から九州南端まで自生しており、それを採取して食用としていた。7世紀末になると、諸国で栽培を奨励する記録が残っており、栽培の歴史も古い。最古の産地は、丹波地方とされている。 茨城県で本格的に栽培され始めたのは、近代に入ってからだ。しかし、1936(昭和11)年には、他県を圧倒して大量の茨城栗がアメリカに輸出されている。では、「栗王国茨城」の礎は、どのように築かれたのであろうか。 下志筑村 (しもしづくむら、旧千代田村、現かすみがうら市)の長谷川茂造は、1898(明治31)年に山林を開墾し、苗産地(川口市安行)から取り寄せた苗を植え付け、栗栽培を始めた。当時、このような形での栗園経営は全国的にも珍しく、周囲の人を驚かせたと言う。 「芋名月」、「豆名月」「栗名月」

【高校野球代替大会を終えて】㊦ 「野球の力を感じた」

【伊達康】今大会は優勝してもその先に甲子園がないことが前提で開催された。小さな頃から甲子園でプレーすることを夢見てきた球児たちにとって喪失感は筆舌に尽くしがたい。 3月から5月半ばまでの学校の休校措置により春季大会は中止となり、多くのチームが通常の部活動すら行えない期間を過ごしてきた。 代わりに用意された代替大会。体裁上、表向きはみな優勝を目指して頑張るとは言いつつも、気持ちの整理を付け、失ったモチベーションを取り戻すことは容易ではなかっただろう。むしろ、モチベーションを失ったまま最後の大会に臨んだ選手がいたとしても不思議ではない。 大会中、何度か球場で取材をした。夏の大会では敗者は泣き崩れることが常であるが、今大会は敗者もそれほど泣くことなく、どこか達観した面持ちで球場を去る光景が見られた。 通常は、敗戦によって、もうこいつらと野球ができない、勝ちたかった、悔しい、無念だという様々な感情が押し寄せて泣きじゃくる者もいるのだが、今回は最初から甲子園への切符がない。敗者の感情の起伏という面からも今大会が持つ独特の雰囲気が感じられた。 「今が一番野球が楽しい」

【高校野球代替大会を終えて】㊤ 常総、夏1勝は創部以来初

【伊達康】茨城の夏の高校野球代替大会は5日の準々決勝をもって終了した。勝利したのは霞ケ浦、土浦湖北、水戸啓明、明秀学園日立の4校だ。 「3年生全員」戦法通用せず 今大会で最も衝撃だったのは秋優勝の常総学院が、3回戦で多賀に2対3で敗退したことだろう。 大会前から菊地竜雅と一條力真のWエースは全国的にも有名なプロ注目の逸材だった。 初戦の2回戦では菊地が152キロ、一條は148キロとそれぞれ自己最速をマークし、前評判通り圧倒的な投手力を披露した。さらにベンチに入った31人の3年生全員が出場する離れ業をやってのけた。

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「キーパーソン」 《続・気軽にSOS》112

【コラム・浅井和幸】「キーパーソン」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。病院への入院や介護施設に入所するときの手続きや連絡先などの協力をする人を指すことがあります。家族などが担うことが多いですが、身寄りがない方の場合は弁護士や施設の職員などが担うこともあるようです。 それ以外に、地域福祉でも支援時に課題解決のカギを握っている人という意味で使われることがあります。例えば、コミュニケーションの取れないひきこもりの方への支援としてのキーパーソンとして、接する機会が多い家族や友人、すでに支援をしているワーカーなどが挙げられるでしょう。 「悪いのは自分ではない、社会の方だ」という信念から、支援者とは会いたくない、何をされるのか分からずに怖いと感じている方は多いものです。支援を受けるなんて迷惑をおかけして申し訳ないと考えて、かたくなに支援を拒む方もいます。 良い悪いではなく人は支え合い、その多様性の中で生きていくものです。生活上で何か支障があれば、頼れるところを頼ることは大切なことです。 しかし、頼ることに慣れていない人が、そうそう簡単に支援者を利用することを選択できないことは当たり前のことです。心身にある程度の余裕がなければ、新しいことを始めることがさらなるストレスになり、避けたくなるのは不思議なことではありません。 そのようなときに、新しいことを取り入れることができる、周りの少しでも余裕のある方に関わってもらうことは、事態を変化させることにポジティブな影響を与えます。いろいろな関わり方のできる人が周りにいることは、複数の選択肢を得ることになります。

あまり話さない息子と、あまり話さない私《ことばのおはなし》47

【コラム・山口絹記】あなたは、生まれてはじめて自分が発したことばを覚えているだろうか。 まぁ、覚えていないだろう。でも、親であれば自分のこどもが初めて発した意味のある(と思われる)ことばは覚えているのではないだろうか。我が家の上の娘も、最初は「まんまんま」とか「わんわん」とか、おそらく統計的にもよくあることばから話し始めていた。 しかし、下の1歳になる息子があまり話さない。 今年から保育園に通い始めたのだが、ついに保育園の先生に「あまり話さない」ということで心配されてしまっていた。普通はそろそろ「ママ」とか「わんわん」とかいうんですけど、ということらしい。かわいそうに、2人目のこどもということで、だいぶ適当に育てられている彼。母子手帳に書かれているような発育具合のチェックも適当になっていて気が付かなかった。 とはいえ、特に心配していなかったのには一応理由があった。保育園の先生にはなんとなく言えなかったのだが、すでにいろいろボキャブラリーがあったのだ。 一つは「でてって?(出ていけの意)」。何か気に食わないことが起きたり、私の帰宅時に飛び出すひとこと。これは姉のマネである。

日本はプーチンのロシアになるのか 《ひょうたんの眼》50

【コラム・高橋恵一】プーチンのロシアの理不尽なウクライナ侵攻を見て、日本の危機と防衛力の強化が叫ばれている。よくメディアに登場する「専門家」は、防衛省関係者・自衛隊幹部OB、あるいは旧大日本帝国の残影が残る関係者が大半だ。 「専門家」の解決策は、ロシアを押し返して、妥協できるところで停戦するシナリオだろうが、それまでにどれだけのウクライナ人が死ななければならないのだろう。ロシアの兵士は何万人死ぬのだろうか。世界の穀倉地帯の混乱で飢餓に陥る人々は16億人を超すとも予測されている。 プーチン大統領は、核兵器使用もいとわないという、無茶ぶりだ。NATO欧州加盟国は、防衛費をGDPの2%に増額するという。長期戦略として効果的かどうかも疑わしいが、少なくとも今のウクライナには間に合わない。 現在の日本の防衛予算は世界第8位。取りざたされているGDPの2%になれば、米国、中国に次いで、世界3番目の軍事費大国になる。 プーチンの侵略行為が、先の大戦のナチスドイツや大日本帝国軍の行動によく似ていることを考えれば、日本の防衛力強化は軍国日本の復活ともとられ、世界や日本国民が受け入れるとは思えない。世界は、そう見るのだ。 当然、中国もロシアも北朝鮮も、対抗して防衛力を強化する。それどころか、日本を警戒する意味で、韓国、台湾、フィリピンなどとの緊張も高めてしまうかもしれない。米国も、軍事産業部門以外からは、歓迎されないのではないか。

安売りカメラ店 《写真だいすき》9

【コラム・オダギ秀】また昔の話で、ゴメン。でも、店への愛を込めて書きたいのだ。とても若いころ、写真家仲間が頼りにしていた安売りカメラ店のことだ。 新宿の裏通りのその店は、間口が2、3間ほどだったろうか、住宅のような、お店とは思えないようなところだった。ガラスの引き戸を開けて入るとカウンターがあり、商品は並んでいない、カメラや写真の材料を売る店だった。近所にかつて浄水場があったので、その名前が付けてあった。 カウンターで「トライ、長巻き、2缶」のように言うと、無口な細っこいアンチャンが奥の棚から品物を持って来てくれた。貧しいカメラマンたちには、ありがたい安売り店だった。品物は並んでいないから、何というどんな商品か、価格はいくらならいいのか、わかる者だけが出入りする店だった。プロ機材ならまず手に入ったし、価格に不満なこともなかった。安かったのだ。 1年ぐらいしてからか、天井に穴を開け、2階の倉庫から品物をひもで吊り下げるようになって、品ぞろえとスピードが少し増し、店員も2人から5人くらいに増えたと思う。 昔、写真は、フィルムという感光シートか、それを細く巻いたロールで撮影していた。フィルムはパトローネという小さな金属ケースに巻き込まれていて、パトローネには36枚撮影分のフィルム入り、というのが普通だった。 プロやそのタマゴたちはパトローネ入りではなく、ずっと長くてコスパのいい100フィート入りの缶を買い、適当な長さにフィルムを切って、使用済みのパトローネに詰め、フィルム代を安くあげるようにしていた。