月曜日, 4月 29, 2024
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いよいよジュネーブの国連審査へ《電動車いすから見た景色》33

【コラム・川端舞】国連の障害者権利条約は、入所施設ではなく地域で生活する権利や、普通学校に通う権利など、障害者が他の人と平等に生活するための権利を規定している。その中でも、より重要だったり、誤解されやすいものについては、「一般的意見」という別の文章でより詳しく説明されている。 例えば、いわゆるバリアフリーを説明した「一般的意見第2号」では、バリアの撤廃が必要な事柄として、「建物、道路、輸送機関その他の屋内外の施設」「その他の屋内外施設には、とりわけ、法執行機関、裁判所及び刑務所、社会機関、社会的交流、娯楽、文化的、宗教的、政治的活動及びスポーツ活動の場と、買い物施設が含まれる」などと書かれている。 一見、とても細かい部分まで書かれているようだが、改めて考えれば、娯楽やスポーツ活動など、人生においてはどれも欠かせないものである。障害者が自分たちの権利を議論してつくった条約だからこそ、「どんな些細(ささい)なことでも、障害のない人が当たり前にやっていることは、障害者も当たり前にできるのが権利なのだ」と、はっきり意思表示できたのだと思う。 日本政府の矛盾点を指摘 そんな障害者権利条約を締約国が守っているか、定期的に国連が審査する。条約締結後、初の日本への審査が今月22~23日、ジュネーブでおこなわれる。 日本政府が国連に事前に提出した報告書では、例えば教育分野では「(障害児には)適切な指導及び必要な支援を行う特別支援教育が実施されており、…特別支援学級、特別支援学校といった、連続性のある『多様な学びの場』が整備され」ていると書かれている。 これに対し、全国的な障害者団体や家族等支援団体などで構成する日本障害フォーラムが提出した報告では、「現行の就学先の決定の仕組みは、地域の通常学校・学級に通うことが原則になっていない」など、障害児が障害のない子どもとともに育つ権利を謳(うた)う障害者権利条約と、日本政府の報告との乖離(かいり)を指摘している。 他の分野に関しても、日本障害フォーラムは政府報告の矛盾点を指摘しており、今回、ジュネーブで国連の審査委員と日本政府が直接対話するとき、これらの矛盾点がどのように話し合われるのか注目だ。 今後の日本の障害者施策が変わる、分岐点になるだろう場に立ち会えることに感謝し、将来、日本の障害者施策をよりよいものにするために働きかけられる、障害者リーダーに私もなりたい。(障害当事者)

いよいよジュネーブの国連審査へ《電動車いすから見た景色》33

【コラム・川端舞】国連の障害者権利条約は、入所施設ではなく地域で生活する権利や、普通学校に通う権利など、障害者が他の人と平等に生活するための権利を規定している。その中でも、より重要だったり、誤解されやすいものについては、「一般的意見」という別の文章でより詳しく説明されている。 例えば、いわゆるバリアフリーを説明した「一般的意見第2号」では、バリアの撤廃が必要な事柄として、「建物、道路、輸送機関その他の屋内外の施設」「その他の屋内外施設には、とりわけ、法執行機関、裁判所及び刑務所、社会機関、社会的交流、娯楽、文化的、宗教的、政治的活動及びスポーツ活動の場と、買い物施設が含まれる」などと書かれている。 一見、とても細かい部分まで書かれているようだが、改めて考えれば、娯楽やスポーツ活動など、人生においてはどれも欠かせないものである。障害者が自分たちの権利を議論してつくった条約だからこそ、「どんな些細(ささい)なことでも、障害のない人が当たり前にやっていることは、障害者も当たり前にできるのが権利なのだ」と、はっきり意思表示できたのだと思う。 日本政府の矛盾点を指摘 そんな障害者権利条約を締約国が守っているか、定期的に国連が審査する。条約締結後、初の日本への審査が今月22~23日、ジュネーブでおこなわれる。 日本政府が国連に事前に提出した報告書では、例えば教育分野では「(障害児には)適切な指導及び必要な支援を行う特別支援教育が実施されており、…特別支援学級、特別支援学校といった、連続性のある『多様な学びの場』が整備され」ていると書かれている。 これに対し、全国的な障害者団体や家族等支援団体などで構成する日本障害フォーラムが提出した報告では、「現行の就学先の決定の仕組みは、地域の通常学校・学級に通うことが原則になっていない」など、障害児が障害のない子どもとともに育つ権利を謳(うた)う障害者権利条約と、日本政府の報告との乖離(かいり)を指摘している。 他の分野に関しても、日本障害フォーラムは政府報告の矛盾点を指摘しており、今回、ジュネーブで国連の審査委員と日本政府が直接対話するとき、これらの矛盾点がどのように話し合われるのか注目だ。 今後の日本の障害者施策が変わる、分岐点になるだろう場に立ち会えることに感謝し、将来、日本の障害者施策をよりよいものにするために働きかけられる、障害者リーダーに私もなりたい。(障害当事者)

ジュネーブに行ってきます 《電動車いすから見た景色》32

【コラム・川端舞】障害者権利条約は、障害者が社会のあらゆる場面で他の人と平等に生活する権利を規定している。日本が障害者権利条約を守っているか、国連の障害者権利委員会が審査する会合が8月、国連ジュネーブ本部で開催される。その会合を傍聴するために、スイスのジュネーブに行けることになった。 日本を審査する国連障害者権利委員会の委員は、ほとんどが世界中から選ばれた多様な障害者だ。日本からも多くの障害者がジュネーブに向かい、国内の障害者の権利について現状を障害者権利委員会の委員に伝える。 障害者権利条約は、「私たちのことを私たち抜きで決めないで(Nothing about us without us)」を合言葉に、世界中の障害当事者が参加して作成され、2006年に国連で採択された。そんな当事者主体の条約に基づき、世界と日本の障害者リーダーが自分たちの権利を話し合う場に、私も参加できるのだ。 国連審査傍聴に向けて、権利条約や審査の流れを改めて勉強し直しているため、国連審査の詳細は8月のコラムで説明したい。そのコラムが掲載されるときには、私はジュネーブにいるはずだ。 経験値を増やす絶好のチャンス 国連審査を傍聴するまでの旅路は初めてのことだらけだ。まず人生で初めて、航空券を自分で予約した。自分と介助者の航空券を間違えないように、緊張しながら予約する。今回は他の車いすユーザーも一緒に行くこともあり、旅行代理店の方も慣れているようで、私が車いすを利用していることを伝えると、すぐにどの書類を提出すればいいか教えてくれた。 私は介助者と一緒に飛行機に乗ったり、10日間も介助者と旅をするのも初めてで、楽しみ半分、不安半分なのだが、自分以外にも多くの障害当事者が同じような日程でジュネーブに行くと思うと、少し安心する。 障害があると「失敗するとかわいそう」「大変だから無理にやらなくていいよ」と言われることも多く、いろんなことに挑戦する機会が少なくなってしまいがちだ。しかし、新しく挑戦したことが思っていた以上に面白く、自分の世界が広がることもある。新しい挑戦を応援し、見守ってくれる人たちがいるおかげで、私の世界は広がり、好きなことがどんどん増えていく。 これから私も障害当事者として多くの経験を積んで、他の当事者が新しいことに挑戦するのを不安がっているときに、「こうすれば大丈夫だよ」とアドバイスできる存在になりたい。そのために経験値をどんどん増やす絶好のチャンスが、この夏やってくる。(障害当事者)

ジュネーブに行ってきます 《電動車いすから見た景色》32

【コラム・川端舞】障害者権利条約は、障害者が社会のあらゆる場面で他の人と平等に生活する権利を規定している。日本が障害者権利条約を守っているか、国連の障害者権利委員会が審査する会合が8月、国連ジュネーブ本部で開催される。その会合を傍聴するために、スイスのジュネーブに行けることになった。 日本を審査する国連障害者権利委員会の委員は、ほとんどが世界中から選ばれた多様な障害者だ。日本からも多くの障害者がジュネーブに向かい、国内の障害者の権利について現状を障害者権利委員会の委員に伝える。 障害者権利条約は、「私たちのことを私たち抜きで決めないで(Nothing about us without us)」を合言葉に、世界中の障害当事者が参加して作成され、2006年に国連で採択された。そんな当事者主体の条約に基づき、世界と日本の障害者リーダーが自分たちの権利を話し合う場に、私も参加できるのだ。 国連審査傍聴に向けて、権利条約や審査の流れを改めて勉強し直しているため、国連審査の詳細は8月のコラムで説明したい。そのコラムが掲載されるときには、私はジュネーブにいるはずだ。 経験値を増やす絶好のチャンス 国連審査を傍聴するまでの旅路は初めてのことだらけだ。まず人生で初めて、航空券を自分で予約した。自分と介助者の航空券を間違えないように、緊張しながら予約する。今回は他の車いすユーザーも一緒に行くこともあり、旅行代理店の方も慣れているようで、私が車いすを利用していることを伝えると、すぐにどの書類を提出すればいいか教えてくれた。 私は介助者と一緒に飛行機に乗ったり、10日間も介助者と旅をするのも初めてで、楽しみ半分、不安半分なのだが、自分以外にも多くの障害当事者が同じような日程でジュネーブに行くと思うと、少し安心する。 障害があると「失敗するとかわいそう」「大変だから無理にやらなくていいよ」と言われることも多く、いろんなことに挑戦する機会が少なくなってしまいがちだ。しかし、新しく挑戦したことが思っていた以上に面白く、自分の世界が広がることもある。新しい挑戦を応援し、見守ってくれる人たちがいるおかげで、私の世界は広がり、好きなことがどんどん増えていく。 これから私も障害当事者として多くの経験を積んで、他の当事者が新しいことに挑戦するのを不安がっているときに、「こうすれば大丈夫だよ」とアドバイスできる存在になりたい。そのために経験値をどんどん増やす絶好のチャンスが、この夏やってくる。(障害当事者)

私が普通学校で過ごしてきた証し 《電動車いすから見た景色》31

【コラム・川端舞】今年3月、私の故郷、群馬県で活動する某団体のオンラインイベントに参加した。その団体の活動自体にも興味があったが、高校時代の友人がそこで活動していることをSNSで知り、頑張っている姿を見て、刺激をもらいたかった。 もともと、その団体の活動についてあまり詳しく知らなかったし、他の参加者は群馬県内から参加しているようだったので、おとなしくイベントを聞いているつもりだった。イベント後半、参加者同士の交流が始まり、参加者1人1人が自己紹介をしていく。しかし、その時、私のそばには介助者がいなく、障害のある参加者は私だけのようだったので、「私が話しても、誰も聞き取れないよな」と思い、オンラインイベントから退出しようとした。 その瞬間、「かわばっちも何か話してよ」と友人の声がした。学生時代のあだ名で久しぶりに呼ばれ、ドキッとする。「だって、今、介助者がいないから」と答えると、友人は「わかった」と一言。「これで話さなくて済むかな」と思ったのもつかの間、なんと友人が他の参加者に「川端さんは私の高校の同級生で、脳性麻痺という障害があります。言語障害もありますが、何回か繰り返し聞けば、聞き取れるので…」と私の紹介を始めてしまった。 私を紹介し終えると、「…ということで、かわばっちも何か話してよ」と再び私に話しかけてくる。「これは逃げられないな」と思い、ドキドキしながら、私は自分の声で話し始めた。友人は私の話に相づちを打ちながら、時々、他の参加者に私の話を通訳する。高校卒業後、10年以上会っていなかったことがうそのように、友人は私の話を聞き取った。 「普通学校にいてよかったんだよ」 専門知識はないのに、私の障害のことを他の人にスラスラ説明できること。言語障害を気にして話さない私に、余計な気を遣わずに「話してよ」と言ってしまえること。おそらく高校3年間を同じ教室で過ごしたからこそ、できることなのだろう。 正直、普通学校に通っていた当時はつらいことのほうが多かった。障害のある自分が普通学校にいていいのかと、数え切れないほど悩んだ。今でも、障害児が普通学校に通うことを拒否されたり、普通学校で必要な支援を受けられない話を聞くと、普通学校に通っていた自分自身を否定された気分になる。 しかし、障害のある私を同級生として当たり前のように紹介する友人の姿に、「かわばっちは、確かに私たちと同じ教室で過ごしたんだよ。それでよかったんだよ」と言われた気がした。すべてが報われた気がして、涙が出るほどうれしかった。(障害当事者)

私が普通学校で過ごしてきた証し 《電動車いすから見た景色》31

【コラム・川端舞】今年3月、私の故郷、群馬県で活動する某団体のオンラインイベントに参加した。その団体の活動自体にも興味があったが、高校時代の友人がそこで活動していることをSNSで知り、頑張っている姿を見て、刺激をもらいたかった。 もともと、その団体の活動についてあまり詳しく知らなかったし、他の参加者は群馬県内から参加しているようだったので、おとなしくイベントを聞いているつもりだった。イベント後半、参加者同士の交流が始まり、参加者1人1人が自己紹介をしていく。しかし、その時、私のそばには介助者がいなく、障害のある参加者は私だけのようだったので、「私が話しても、誰も聞き取れないよな」と思い、オンラインイベントから退出しようとした。 その瞬間、「かわばっちも何か話してよ」と友人の声がした。学生時代のあだ名で久しぶりに呼ばれ、ドキッとする。「だって、今、介助者がいないから」と答えると、友人は「わかった」と一言。「これで話さなくて済むかな」と思ったのもつかの間、なんと友人が他の参加者に「川端さんは私の高校の同級生で、脳性麻痺という障害があります。言語障害もありますが、何回か繰り返し聞けば、聞き取れるので…」と私の紹介を始めてしまった。 私を紹介し終えると、「…ということで、かわばっちも何か話してよ」と再び私に話しかけてくる。「これは逃げられないな」と思い、ドキドキしながら、私は自分の声で話し始めた。友人は私の話に相づちを打ちながら、時々、他の参加者に私の話を通訳する。高校卒業後、10年以上会っていなかったことがうそのように、友人は私の話を聞き取った。 「普通学校にいてよかったんだよ」 専門知識はないのに、私の障害のことを他の人にスラスラ説明できること。言語障害を気にして話さない私に、余計な気を遣わずに「話してよ」と言ってしまえること。おそらく高校3年間を同じ教室で過ごしたからこそ、できることなのだろう。 正直、普通学校に通っていた当時はつらいことのほうが多かった。障害のある自分が普通学校にいていいのかと、数え切れないほど悩んだ。今でも、障害児が普通学校に通うことを拒否されたり、普通学校で必要な支援を受けられない話を聞くと、普通学校に通っていた自分自身を否定された気分になる。 しかし、障害のある私を同級生として当たり前のように紹介する友人の姿に、「かわばっちは、確かに私たちと同じ教室で過ごしたんだよ。それでよかったんだよ」と言われた気がした。すべてが報われた気がして、涙が出るほどうれしかった。(障害当事者) 

例外だった私の子ども時代 《電動車いすから見た景色》30

【コラム・川端舞】学校教育法では特別支援学校の対象となる障害の程度が定められていて、それより重度の障害を持つ子どもは就学時に教育委員会から特別支援学校への入学を提案される。2007年から、障害児の就学先を決定する際は保護者の意見を聞かなければならないとされたが、それでも特別支援学校の就学基準に該当する障害児はそのまま特別支援学校に入学するのがほとんどだろう。 私も小学校入学時、特別支援学校への入学を提案されたが、両親の強い意向により、私は重度の障害を持ちながら、通常の小学校に入学した。 障害があるのに通常学級に通っている自分が例外的な存在であることは、小学校時代から薄々気づいていた。身体障害のある子どもは自分しか学校にいなかったし、数人いた知的障害のある同級生は、ほとんどの授業を別の教室で受けていた。 時々、道徳の授業で教材に出てくる障害者は、教室で学んでいる同級生とは異なる世界で生きている「特別な存在」だと言われている気がして、実は「障害者」に分類される人間が同じ教室にいることがばれないように、私は息を殺して授業を聞いていた。 「障害を持って通常学級に通う…」 大学で特別支援教育を学び、改めて法律上は、私は特別支援学校の就学基準に該当することを知った。特別支援学校での障害児支援に関する研究はたくさんあるのに、子ども時代の自分のように通常学校に通う重度障害児への支援に関する研究はほとんど見つからず、「そんな障害児はいない」と言われているようで、無性に悔しかった。当時の私の調べ方が足りなかったのかもしれないが、通常学校に通う障害児もいる。 でも、私は重度障害を持って生まれ、小学校から高校まで通常学校で学んだ。楽しいことばかりではなく、正直、苦しいことのほうが多かったけれど、障害を持って通常学校に通うことでしか私という人生は始まらなかっただろう。 そして、悩み多き高校時代を経て、地元の群馬からつくば市に引っ越してきてから12年たった今でも、当時の同級生と連絡を取り合うこの人生が間違っていたとは思えない。「障害を持って通常学級に通うのは例外などではなく、当たり前に楽しんでいいことなのだよ」と小学校時代の自分に言ってあげたい。今から20年も前、通常学校に通う重度障害児は確かにいたのだ。(障害当事者)

例外だった私の子ども時代 《電動車いすから見た景色》30

【コラム・川端舞】学校教育法では特別支援学校の対象となる障害の程度が定められていて、それより重度の障害を持つ子どもは就学時に教育委員会から特別支援学校への入学を提案される。2007年から、障害児の就学先を決定する際は保護者の意見を聞かなければならないとされたが、それでも特別支援学校の就学基準に該当する障害児はそのまま特別支援学校に入学するのがほとんどだろう。 私も小学校入学時、特別支援学校への入学を提案されたが、両親の強い意向により、私は重度の障害を持ちながら、通常の小学校に入学した。 障害があるのに通常学級に通っている自分が例外的な存在であることは、小学校時代から薄々気づいていた。身体障害のある子どもは自分しか学校にいなかったし、数人いた知的障害のある同級生は、ほとんどの授業を別の教室で受けていた。 時々、道徳の授業で教材に出てくる障害者は、教室で学んでいる同級生とは異なる世界で生きている「特別な存在」だと言われている気がして、実は「障害者」に分類される人間が同じ教室にいることがばれないように、私は息を殺して授業を聞いていた。 「障害を持って通常学級に通う…」 大学で特別支援教育を学び、改めて法律上は、私は特別支援学校の就学基準に該当することを知った。特別支援学校での障害児支援に関する研究はたくさんあるのに、子ども時代の自分のように通常学校に通う重度障害児への支援に関する研究はほとんど見つからず、「そんな障害児はいない」と言われているようで、無性に悔しかった。当時の私の調べ方が足りなかったのかもしれないが、通常学校に通う障害児もいる。 でも、私は重度障害を持って生まれ、小学校から高校まで通常学校で学んだ。楽しいことばかりではなく、正直、苦しいことのほうが多かったけれど、障害を持って通常学校に通うことでしか私という人生は始まらなかっただろう。 そして、悩み多き高校時代を経て、地元の群馬からつくば市に引っ越してきてから12年たった今でも、当時の同級生と連絡を取り合うこの人生が間違っていたとは思えない。「障害を持って通常学級に通うのは例外などではなく、当たり前に楽しんでいいことなのだよ」と小学校時代の自分に言ってあげたい。今から20年も前、通常学校に通う重度障害児は確かにいたのだ。(障害当事者) 

遠くなった東京 《電動車いすから見た景色》29

【コラム・川端舞】今月末、どうしても東京に用事があり、どうやって行こうかしばらく悩んだ。感染予防を徹底して電車で行くべきか、お金はかかってもタクシーで行くべきか。結局、「東京まで運転できる」と言ってくれる介助者がいたので、福祉車両を借りて、介助者の運転で行くことにした。 思い返せば、コロナ前は講演会など様々な活動のために、月に1回は介助者と一緒に電車で東京に出かけていた。冬はインフルエンザの予防のため、こまめに消毒はしていたが、普通に駅のトイレを使い、何も考えずに、混雑したレストランで食事をしていた。今は外出時にどこのトイレに寄れば、比較的安全か考えてしまう。自分でもやりすぎではと思うくらい、潔癖症になってしまった。 コロナをそれほど恐れる必要はないという意見を聞くことも前より多くなった。私自身も、自分には内科的な基礎疾患はないから、かかっても重症化はしないだろうと思っている。 私がコロナになった場合、一番怖いのは、毎日家に来る介助者や、同じ介助者から介助を受けている他の障害者にうつしてしまうことだ。障害者の中には、基礎疾患を持つ人も多い。私の不用意な行動で、そのような仲間が重症化してしまったらと思うと、遠出をしたくても、無意識に躊躇(ちゅうちょ)してしまう。 障害者が街中に出ていく重要性 一方、本当に今の生活のままでいいのだろうかと思うこともある。昨年秋、感染者数が落ち着いていたころ、本当に久しぶりに都内に行くために電車に乗ったが、駅員がスロープを準備してくれるまでに、以前より手間取っているように感じた。 おそらく、コロナ禍で車いす利用者が電車に乗る機会が減り、駅員がスロープを出す頻度も減ったのだろう。障害者が日常的に駅を使うからこそ、駅員も障害者の対応に慣れていく。障害があっても暮らしやすい社会にするために、障害者が積極的に街中に出ていく重要性を改めて感じた。 しかし、街中に出ていくことには必ず感染リスクが伴う。障害者としてどう行動するべきか、答えの出ない問いが続く。(障害当事者)

遠くなった東京 《電動車いすから見た景色》29

【コラム・川端舞】今月末、どうしても東京に用事があり、どうやって行こうかしばらく悩んだ。感染予防を徹底して電車で行くべきか、お金はかかってもタクシーで行くべきか。結局、「東京まで運転できる」と言ってくれる介助者がいたので、福祉車両を借りて、介助者の運転で行くことにした。 思い返せば、コロナ前は講演会など様々な活動のために、月に1回は介助者と一緒に電車で東京に出かけていた。冬はインフルエンザの予防のため、こまめに消毒はしていたが、普通に駅のトイレを使い、何も考えずに、混雑したレストランで食事をしていた。今は外出時にどこのトイレに寄れば、比較的安全か考えてしまう。自分でもやりすぎではと思うくらい、潔癖症になってしまった。 コロナをそれほど恐れる必要はないという意見を聞くことも前より多くなった。私自身も、自分には内科的な基礎疾患はないから、かかっても重症化はしないだろうと思っている。 私がコロナになった場合、一番怖いのは、毎日家に来る介助者や、同じ介助者から介助を受けている他の障害者にうつしてしまうことだ。障害者の中には、基礎疾患を持つ人も多い。私の不用意な行動で、そのような仲間が重症化してしまったらと思うと、遠出をしたくても、無意識に躊躇(ちゅうちょ)してしまう。 障害者が街中に出ていく重要性 一方、本当に今の生活のままでいいのだろうかと思うこともある。昨年秋、感染者数が落ち着いていたころ、本当に久しぶりに都内に行くために電車に乗ったが、駅員がスロープを準備してくれるまでに、以前より手間取っているように感じた。 おそらく、コロナ禍で車いす利用者が電車に乗る機会が減り、駅員がスロープを出す頻度も減ったのだろう。障害者が日常的に駅を使うからこそ、駅員も障害者の対応に慣れていく。障害があっても暮らしやすい社会にするために、障害者が積極的に街中に出ていく重要性を改めて感じた。 しかし、街中に出ていくことには必ず感染リスクが伴う。障害者としてどう行動するべきか、答えの出ない問いが続く。(障害当事者)

当たり前に介助を受けられる安心感 《電動車いすから見た景色》28

【コラム・川端舞】私は障害のため、口周りの筋肉をうまく使えず、食事を食べこぼしたり、よだれをたらしたりしてしまう。それが原因で、子どもの頃は周囲から怒られたり、からかわれたりしていた。きちんと唾液や食べ物を飲み込めるようにリハビリをし、親にも「毎回、意識して飲み込みなさい」と言われ続けた。 しかし、勉強や遊びに集中すると、いつの間にか、よだれで服を汚してしまう。親からは「よだれは努力次第で直せる」と言われたが、どんなに気を付けていても、少し気を抜くとよだれは出てしまい、再び親に注意されることの繰り返しだった。中学・高校時代は、よだれで制服を汚してしまったことを親に知られないように、毎日、親が仕事から帰ってくる前に、自分でハンカチを濡らし、制服の汚れを拭いていた。 大人になった今でも、食べこぼしたり、よだれをたらしたりしてしまったとき、どうすればいいのか分からなくなる。服を汚してしまったのを介助者に見られるのが恥ずかしい。 しかし、介助者は嫌な顔一つせず、当たり前のように、食べこぼしを拾ったり、ティッシュでよだれを拭いたりしてくれる。私が無意識に謝ると、「なぜ謝るの?」と逆に聞かれることもある。「介助者は舞さんの介助をするために、舞さんの家に来ているのだから」と。自分が悪いから出てしまうのだと思っていたよだれを、ただの生理現象と捉え、さりげなく片付けてくれる介助者を見ると、「今の自分のままでいい」と言われているようで安心する。 「当たり前」を絶やさないように 障害者に対し、「助けてもらって当たり前に思うな」と言われることがあるが、食事をする、服を着替える、買い物に行くなど、生活するために必要な介助を当たり前に受けられることが、「自分はここにいていいのだ」という安心感につながる。 でも、その「当たり前」は昔からあったわけではなく、今まで多くの障害者たちが社会と闘い、重度障害者が介助を受けて1人暮らしができる仕組みを作った上に、現在、私の気持ちを大切にしながら生活を支えてくれる介助者がいるからだ。その「当たり前」に感謝しながら、「当たり前」を絶やさないために、私のできることをしていきたい。 その1つが、自分のような障害者のありのままの暮らしを社会に発信することで、介助者のサポートがあれば、どんなに障害が重くても1人暮らしできることを多くの人に知ってもらうことだと私は思っている。(障害当事者)

当たり前に介助を受けられる安心感 《電動車いすから見た景色》28

【コラム・川端舞】私は障害のため、口周りの筋肉をうまく使えず、食事を食べこぼしたり、よだれをたらしたりしてしまう。それが原因で、子どもの頃は周囲から怒られたり、からかわれたりしていた。きちんと唾液や食べ物を飲み込めるようにリハビリをし、親にも「毎回、意識して飲み込みなさい」と言われ続けた。 しかし、勉強や遊びに集中すると、いつの間にか、よだれで服を汚してしまう。親からは「よだれは努力次第で直せる」と言われたが、どんなに気を付けていても、少し気を抜くとよだれは出てしまい、再び親に注意されることの繰り返しだった。中学・高校時代は、よだれで制服を汚してしまったことを親に知られないように、毎日、親が仕事から帰ってくる前に、自分でハンカチを濡らし、制服の汚れを拭いていた。 大人になった今でも、食べこぼしたり、よだれをたらしたりしてしまったとき、どうすればいいのか分からなくなる。服を汚してしまったのを介助者に見られるのが恥ずかしい。 しかし、介助者は嫌な顔一つせず、当たり前のように、食べこぼしを拾ったり、ティッシュでよだれを拭いたりしてくれる。私が無意識に謝ると、「なぜ謝るの?」と逆に聞かれることもある。「介助者は舞さんの介助をするために、舞さんの家に来ているのだから」と。自分が悪いから出てしまうのだと思っていたよだれを、ただの生理現象と捉え、さりげなく片付けてくれる介助者を見ると、「今の自分のままでいい」と言われているようで安心する。 「当たり前」を絶やさないように 障害者に対し、「助けてもらって当たり前に思うな」と言われることがあるが、食事をする、服を着替える、買い物に行くなど、生活するために必要な介助を当たり前に受けられることが、「自分はここにいていいのだ」という安心感につながる。 でも、その「当たり前」は昔からあったわけではなく、今まで多くの障害者たちが社会と闘い、重度障害者が介助を受けて1人暮らしができる仕組みを作った上に、現在、私の気持ちを大切にしながら生活を支えてくれる介助者がいるからだ。その「当たり前」に感謝しながら、「当たり前」を絶やさないために、私のできることをしていきたい。 その1つが、自分のような障害者のありのままの暮らしを社会に発信することで、介助者のサポートがあれば、どんなに障害が重くても1人暮らしできることを多くの人に知ってもらうことだと私は思っている。(障害当事者)

権利を教えてくれた海老原宏美さん 《電動車いすから見た景色》27

【コラム・川端舞】昨年のクリスマスイブ、海老原宏美さんが天国に旅立った。何冊か本も出版し、NHKに何度も出演している。私にとっては「権利とは何か」を教えてくれ、子ども時代を肯定するきっかけをくれた人だ。 本人の著書によると、海老原さんは1977年に進行性の障害とともに生まれ、小学校から高校まで車いすで普通学校に通い、大学進学後、24時間介助を受けながら1人暮らしを始めた。 私が初めてお会いした2017年には、人工呼吸器をつけながら、自立生活センター東大和の理事長をしていた。初対面のとき、東京で普通学校に通う障害児を支援していると話す海老原さんに、私も障害児支援に関心はあるが、何をすればいいのか分からないと話した。 海老原さんとの出会いをきっかけに、彼女が代表を務める東京インクルーシブ教育プロジェクト(TIP)に関わるようになった。海老原さんはよく、「どんな障害児でも普通学校に通う権利がある」と言っていた。初めて聞いたとき、権利とは何なのか分からなかった。 しかし、海老原さんやTIPの仲間と国連障害者人権条約を読み込み、「権利とは他の人が当たり前にやっていることを、障害者も当たり前すること。障害のない子が当たり前に通う同じ学校に、障害児も当たり前に通うことなんだ」と理解した。 私の役割 子どものころ、障害のある自分が普通学校に通うのは悪いことなのだと思っていた。だから学校でどんな嫌なことがあっても、我慢しなければいけないのだと。 しかし、海老原さんから権利という言葉を何度も聞くうちに、当時の自分には堂々と普通学校に通う権利があったのだと思えるようになった。障害児がどんなに困っていても、その子どもの支援はすべて介助員に任せ、他の教員は障害児に直接声も掛けない普通学校の環境こそ変わるべきだった。 自分の子ども時代を肯定できたことで、今、普通学校に通っている障害児に対しても「君はそのままでこの学校にいていいんだよ」と言ってあげたくなった。 自分のように普通学校でつらい経験をする障害児が減るよう、子どものころ、周囲の大人にどう関わってほしかったのかを、障害児の保護者や教員に伝えていくことが、私の役割だと思っている。「どんな障害児でも必要な支援を受けながら、普通学校に通う権利がある」と言い続けよう。 障害児が普通学校に通うのは本当に正しいのか迷っていた私の考えを、たった5年間でここまで変えてしまった海老原さん。責任を持って、学校教育の当たり前が変わるまで、天国から見守っていてくださいね。(障害当事者)

権利を教えてくれた海老原宏美さん 《電動車いすから見た景色》27

【コラム・川端舞】昨年のクリスマスイブ、海老原宏美さんが天国に旅立った。何冊か本も出版し、NHKに何度も出演している。私にとっては「権利とは何か」を教えてくれ、子ども時代を肯定するきっかけをくれた人だ。 本人の著書によると、海老原さんは1977年に進行性の障害とともに生まれ、小学校から高校まで車いすで普通学校に通い、大学進学後、24時間介助を受けながら1人暮らしを始めた。 私が初めてお会いした2017年には、人工呼吸器をつけながら、自立生活センター東大和の理事長をしていた。初対面のとき、東京で普通学校に通う障害児を支援していると話す海老原さんに、私も障害児支援に関心はあるが、何をすればいいのか分からないと話した。 海老原さんとの出会いをきっかけに、彼女が代表を務める東京インクルーシブ教育プロジェクト(TIP)に関わるようになった。海老原さんはよく、「どんな障害児でも普通学校に通う権利がある」と言っていた。初めて聞いたとき、権利とは何なのか分からなかった。 しかし、海老原さんやTIPの仲間と国連障害者人権条約を読み込み、「権利とは他の人が当たり前にやっていることを、障害者も当たり前すること。障害のない子が当たり前に通う同じ学校に、障害児も当たり前に通うことなんだ」と理解した。 私の役割 子どものころ、障害のある自分が普通学校に通うのは悪いことなのだと思っていた。だから学校でどんな嫌なことがあっても、我慢しなければいけないのだと。 しかし、海老原さんから権利という言葉を何度も聞くうちに、当時の自分には堂々と普通学校に通う権利があったのだと思えるようになった。障害児がどんなに困っていても、その子どもの支援はすべて介助員に任せ、他の教員は障害児に直接声も掛けない普通学校の環境こそ変わるべきだった。 自分の子ども時代を肯定できたことで、今、普通学校に通っている障害児に対しても「君はそのままでこの学校にいていいんだよ」と言ってあげたくなった。 自分のように普通学校でつらい経験をする障害児が減るよう、子どものころ、周囲の大人にどう関わってほしかったのかを、障害児の保護者や教員に伝えていくことが、私の役割だと思っている。「どんな障害児でも必要な支援を受けながら、普通学校に通う権利がある」と言い続けよう。 障害児が普通学校に通うのは本当に正しいのか迷っていた私の考えを、たった5年間でここまで変えてしまった海老原さん。責任を持って、学校教育の当たり前が変わるまで、天国から見守っていてくださいね。(障害当事者)

憎くて愛おしい言語障害 《電動車いすから見た景色》26

【コラム・川端舞】「もし自分の障害を、両手の麻痺(まひ)、両足の麻痺、言語障害に分けられて、この中の1つだけ神様が治してくれるなら、絶対、言語障害を選ぼう」。中学から大学にかけて、コミュニケーションの壁にぶつかるたびに私はそう思っていた。 足の麻痺はバリアフリーの場所で車いすに乗れば何の問題もなくなるし、手で文字が書けなくても、パソコンを使えば、人より時間はかかるけど文章を書くことができる。でも、言語障害はどんなに事前に伝えたいことを文章にしても、その場で思いついたことをすぐに周囲に伝えられない。 「言語障害さえなければ、もっとたくさんの人と関わることができるのに」と、大学のころまでずっと自分の言語障害を憎んでいた。 しかし大人になり、介助者と外出するようになると、自分の言ったことが相手に伝わらなくても、そばにいる介助者に通訳してもらえるため、事前に伝えたいことを書いていかなくても、気軽に外出先で話せるようになった。 当たり前だが、文字で伝えるより、声で伝えた方が早く伝わるし、そのとき思ったことを臨機応変に伝えられる。何より直接相手と話した方が、コミュニケーションは楽しい。 言語障害だからこそ伝えられること あれほど嫌だった言語障害を愛(いと)おしく思う瞬間が最近出てきた。様々な場所で私の経験を聞きたいと、講演を依頼されることが増え、「できるだけ介助者が原稿を代読するのではなく、ご自分で話したものを介助者が通訳する形でお願いできないか」と言われることもある。 介助者が代読するより、私が直接話した方が伝わることがあるそうだ。言語障害があっても、どうすれば思いを効果的に伝えられるか、無意識に考える癖が幼いころから付いているからなのかもしれない。言語障害がある私だからこそ、聞き手に訴えかけられるものがあるのなら、私にとって言語障害は武器にもなり、幼いころからともに葛藤しながら歩んできた相棒のようなものなのかもしれない。 子どものころの私は、「言語障害のある人はできるだけ話さない方がいい」と思い込み、言語障害を憎むまでになってしまった。今、堂々と話す私の姿を見て、「言語障害があっても、通訳など周囲の協力があれば、話せるんだ」と、言語障害のある子どもやその周囲にいる人が思ってくれれば、これほどうれしいことはない。 もちろん、障害者によって心地よいコミュニケーション方法は違うが、「本人が自分の声で話したいと思うなら、堂々と話していい」と伝え続けられる人間でいたい。それこそ言語障害とともに生きてきた私だからこそできることだと思う。(障害当事者)

憎くて愛おしい言語障害 《電動車いすから見た景色》26

【コラム・川端舞】「もし自分の障害を、両手の麻痺(まひ)、両足の麻痺、言語障害に分けられて、この中の1つだけ神様が治してくれるなら、絶対、言語障害を選ぼう」。中学から大学にかけて、コミュニケーションの壁にぶつかるたびに私はそう思っていた。 足の麻痺はバリアフリーの場所で車いすに乗れば何の問題もなくなるし、手で文字が書けなくても、パソコンを使えば、人より時間はかかるけど文章を書くことができる。でも、言語障害はどんなに事前に伝えたいことを文章にしても、その場で思いついたことをすぐに周囲に伝えられない。 「言語障害さえなければ、もっとたくさんの人と関わることができるのに」と、大学のころまでずっと自分の言語障害を憎んでいた。 しかし大人になり、介助者と外出するようになると、自分の言ったことが相手に伝わらなくても、そばにいる介助者に通訳してもらえるため、事前に伝えたいことを書いていかなくても、気軽に外出先で話せるようになった。 当たり前だが、文字で伝えるより、声で伝えた方が早く伝わるし、そのとき思ったことを臨機応変に伝えられる。何より直接相手と話した方が、コミュニケーションは楽しい。 言語障害だからこそ伝えられること あれほど嫌だった言語障害を愛(いと)おしく思う瞬間が最近出てきた。様々な場所で私の経験を聞きたいと、講演を依頼されることが増え、「できるだけ介助者が原稿を代読するのではなく、ご自分で話したものを介助者が通訳する形でお願いできないか」と言われることもある。 介助者が代読するより、私が直接話した方が伝わることがあるそうだ。言語障害があっても、どうすれば思いを効果的に伝えられるか、無意識に考える癖が幼いころから付いているからなのかもしれない。言語障害がある私だからこそ、聞き手に訴えかけられるものがあるのなら、私にとって言語障害は武器にもなり、幼いころからともに葛藤しながら歩んできた相棒のようなものなのかもしれない。 子どものころの私は、「言語障害のある人はできるだけ話さない方がいい」と思い込み、言語障害を憎むまでになってしまった。今、堂々と話す私の姿を見て、「言語障害があっても、通訳など周囲の協力があれば、話せるんだ」と、言語障害のある子どもやその周囲にいる人が思ってくれれば、これほどうれしいことはない。 もちろん、障害者によって心地よいコミュニケーション方法は違うが、「本人が自分の声で話したいと思うなら、堂々と話していい」と伝え続けられる人間でいたい。それこそ言語障害とともに生きてきた私だからこそできることだと思う。(障害当事者)

誰も自分と同じ経験をしないために 《電動車いすから見た景色》25

【コラム・川端舞】今年は怒涛の1年だった。4月に本サイトで重度障害のあるライターとして取り上げられたのをきっかけに、他メディアからも取材を受けた。しかし私にとって一番大きかったのは、中学時代の出来事を複数のメディアに語ったことだ。 小中学校時代、介助員から支援を受けながら普通学校に通った私は、一時期、介助員との関係がうまくいかないことがあった。その時のことを公に話すと、当時の介助員を批判してしまうことになるため、ずっと話さないでいようと思っていた。 しかし、自分の経験を公表することで、現在、普通学校で介助員から支援を受けている障害児が自分と同じような経験をすることを防げるかもしれない。ずっと心の片隅でそう思っていた私は、今年、複数のメディアから中学時代の介助員との出来事を話す機会をいただき、自分の経験が普通学校で学ぶ障害児の役に立てばと願いながら、メディアで当時のことを話す決意をした。 私は中学時代の介助員を責めるつもりは全くない。当時、私が介助員との関係で悩んでいたといことは、介助員も同様に私との関係で悩んでいたということだろう。 関係がこじれた時、私と介助員双方の話を聞いてくれ、すれ違いを一緒に解決しようとしてくれる大人が近くにいれば、問題が複雑にならないうちに、関係を修復できたかもしれない。障害児の支援を介助員1人だけに任せ、他の教職員は支援に関与しないという状態では、何か問題が起きた時に過度に障害児や介助員を苦しめることになりかねない。 他の障害児者と出会う機会 障害児が必要な支援を受けながら、健常児と同じ学校に通うことは、大人になってから障害者と健常者が共に生きていくためにも大切なことだ。同時に、障害児が普通学校に通っていても、地域に住む他の障害児者と出会い、周囲からどのように支援を受ければいいのかなど、自分と同じような障害のある人に相談できる環境も必要なのかもしれない。 私は高校時代まで自分のような障害者に会ったことがなかった。中学時代、介助員との関係を他の障害者に相談できていたら、解決方法を見つけられたかもしれない。 内閣府によると、令和元年現在、日本の障害者は人口の7.6パーセントを占める。1つの学校に障害児が数人しか通っていないこと自体、不自然なことなのだ。(障害当事者)

誰も自分と同じ経験をしないために 《電動車いすから見た景色》25

【コラム・川端舞】今年は怒涛の1年だった。4月に本サイトで重度障害のあるライターとして取り上げられたのをきっかけに、他メディアからも取材を受けた。しかし私にとって一番大きかったのは、中学時代の出来事を複数のメディアに語ったことだ。 小中学校時代、介助員から支援を受けながら普通学校に通った私は、一時期、介助員との関係がうまくいかないことがあった。その時のことを公に話すと、当時の介助員を批判してしまうことになるため、ずっと話さないでいようと思っていた。 しかし、自分の経験を公表することで、現在、普通学校で介助員から支援を受けている障害児が自分と同じような経験をすることを防げるかもしれない。ずっと心の片隅でそう思っていた私は、今年、複数のメディアから中学時代の介助員との出来事を話す機会をいただき、自分の経験が普通学校で学ぶ障害児の役に立てばと願いながら、メディアで当時のことを話す決意をした。 私は中学時代の介助員を責めるつもりは全くない。当時、私が介助員との関係で悩んでいたといことは、介助員も同様に私との関係で悩んでいたということだろう。 関係がこじれた時、私と介助員双方の話を聞いてくれ、すれ違いを一緒に解決しようとしてくれる大人が近くにいれば、問題が複雑にならないうちに、関係を修復できたかもしれない。障害児の支援を介助員1人だけに任せ、他の教職員は支援に関与しないという状態では、何か問題が起きた時に過度に障害児や介助員を苦しめることになりかねない。 他の障害児者と出会う機会 障害児が必要な支援を受けながら、健常児と同じ学校に通うことは、大人になってから障害者と健常者が共に生きていくためにも大切なことだ。同時に、障害児が普通学校に通っていても、地域に住む他の障害児者と出会い、周囲からどのように支援を受ければいいのかなど、自分と同じような障害のある人に相談できる環境も必要なのかもしれない。 私は高校時代まで自分のような障害者に会ったことがなかった。中学時代、介助員との関係を他の障害者に相談できていたら、解決方法を見つけられたかもしれない。 内閣府によると、令和元年現在、日本の障害者は人口の7.6パーセントを占める。1つの学校に障害児が数人しか通っていないこと自体、不自然なことなのだ。(障害当事者)

私の隣にいるのは介助者です 《電動車いすから見た景色》24

【コラム・川端舞】先日、インフルエンザの予防接種を受けに病院に行った時、同行していた介助者を見て、受付の人が「ご家族の方ですか?」と聞いてきた。いつものことだったため、特に気にせず、「いいえ。介助者です」と答えたが。 介助者(ヘルパー)と一緒に外出する障害者なら、似たような経験をしている人も多いだろう。介助者と一緒に来ているのに、なぜか家族だと思われてしまう。同行している介助者が私と同年代なのに、「お母さんですか」と言われてしまい、あとで介助者が「私、そんな年齢に見えるのかな」とつぶやいた時は、おかしいような、気まずいような気持ちになる。 なぜ、障害者の外出に同行している人は家族だと思われてしまうのだろう。確かに、介助者と一緒に外出する障害者よりも、家族と外出する障害者の方が多いのは事実かもしれない。しかし、障害者の介助は家族がするのが当たり前だという考え方を多くの人が持っていて、本当は介助者と外出している障害者を見かけても、「きっとそばにいるのは家族なんだろう」と思われてしまうこともあるように感じる。 「介助者と外出するのが当たり前」の社会 障害のない人であれば、たいてい大人になったら、実家を離れて、1人暮らしをしたり、パートナーと一緒に暮らすだろう。親も子育てから卒業し、仕事や趣味に時間を使う。しかし障害者となると、大人になっても親が介助するのが当たり前だと思われてしまう。本来なら、障害者の親になっても、子育てが終わったら、子離れして、親自身の人生を楽しむ権利があるはずなのに。 もちろん、障害者の介助をずっと家族に任せてしまう背景には、介助者という職業の人手不足という問題もあるだろう。しかし、障害のある家族と外出するたびに「ご家族の方ですか?」と言われてしまうと、「やっぱり障害者は家族が介助しないといけないんだ」と思ってしまい、介助を家族以外の人に交代してもらうという選択肢を思いつかなくなってしまうこともあるかもしれない。 私のような障害者が介助者と一緒にどんどん外出し、「ご家族の方ですか?」と言われるたびに「介助者です」と答えることで、家族ではなく介助者と一緒に外出する障害者もいることを多くの人に知ってもらい、「介助が必要な障害者は介助者と外出するのが当たり前」と思ってもらえるような社会をつくっていきたい。(障害当事者)

私の隣にいるのは介助者です 《電動車いすから見た景色》24

【コラム・川端舞】先日、インフルエンザの予防接種を受けに病院に行った時、同行していた介助者を見て、受付の人が「ご家族の方ですか?」と聞いてきた。いつものことだったため、特に気にせず、「いいえ。介助者です」と答えたが。 介助者(ヘルパー)と一緒に外出する障害者なら、似たような経験をしている人も多いだろう。介助者と一緒に来ているのに、なぜか家族だと思われてしまう。同行している介助者が私と同年代なのに、「お母さんですか」と言われてしまい、あとで介助者が「私、そんな年齢に見えるのかな」とつぶやいた時は、おかしいような、気まずいような気持ちになる。 なぜ、障害者の外出に同行している人は家族だと思われてしまうのだろう。確かに、介助者と一緒に外出する障害者よりも、家族と外出する障害者の方が多いのは事実かもしれない。しかし、障害者の介助は家族がするのが当たり前だという考え方を多くの人が持っていて、本当は介助者と外出している障害者を見かけても、「きっとそばにいるのは家族なんだろう」と思われてしまうこともあるように感じる。 「介助者と外出するのが当たり前」の社会 障害のない人であれば、たいてい大人になったら、実家を離れて、1人暮らしをしたり、パートナーと一緒に暮らすだろう。親も子育てから卒業し、仕事や趣味に時間を使う。しかし障害者となると、大人になっても親が介助するのが当たり前だと思われてしまう。本来なら、障害者の親になっても、子育てが終わったら、子離れして、親自身の人生を楽しむ権利があるはずなのに。 もちろん、障害者の介助をずっと家族に任せてしまう背景には、介助者という職業の人手不足という問題もあるだろう。しかし、障害のある家族と外出するたびに「ご家族の方ですか?」と言われてしまうと、「やっぱり障害者は家族が介助しないといけないんだ」と思ってしまい、介助を家族以外の人に交代してもらうという選択肢を思いつかなくなってしまうこともあるかもしれない。 私のような障害者が介助者と一緒にどんどん外出し、「ご家族の方ですか?」と言われるたびに「介助者です」と答えることで、家族ではなく介助者と一緒に外出する障害者もいることを多くの人に知ってもらい、「介助が必要な障害者は介助者と外出するのが当たり前」と思ってもらえるような社会をつくっていきたい。(障害当事者)

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