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電動車いすから見た景色
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友よ、一緒に社会を変えていこう 《電動車いすから見た景色》42
2023年5月19日
【コラム・川端舞】前回のコラムで書いたように、先日、故郷の群馬で開催されたプレゼンテーション大会で、重度身体障害がありながら、障害のない同級生と同じ学校に通った経験を話した。「ぜひ群馬で川端の経験を話してほしい」と、その大会に私を推薦してくれたのは高校時代の友人。友人は、生まれたときに割り当てられた性別は女性だが、今は男性として生きているトランスジェンダー当事者だ。 多くの建物の入り口には段差があり、車いすで入れない。言語障害のある者が話すと、多くの人は困った顔をし、本人と直接話すことを諦める。今の社会は障害者にとって生きづらい。しかし、それは障害者が悪いわけではなく、障害者の存在を前提につくられていない社会の問題だ。この考え方を「障害の社会モデル」と言い、国連の障害者権利条約もこの考え方を取り入れている。 一方、友人と話すうちに、就職面接など、人生において重要な場面ほど、性別を聞かれ、制服やトイレなど、あらゆるものが男女別に分けられる社会はトランスジェンダーにとっても過ごしづらい環境なのだと気づいた。それはトランスジェンダーが悪いわけではなく、トランスジェンダーがいることを前提に社会がつくられていないのが問題だ。 もちろん、男女別の制服や施設が心地よい人もいるだろう。その人たちの意見は決して否定しない。だから、トランスジェンダー当事者にとって、心地よい制服や施設のあり方はどのようなものかも直接聞いてほしい。それぞれが心地よくいられる、全く新しい制服や施設のあり方が見つかるかもしれない。そうすることで、多様な人が過ごしやすい社会に変えていける。 高校3年分の絆 1年ほど前から、頻繁に友人と連絡を取るようになり、互いの子ども時代のことも聞き合った。その過程で、「障害者もトランスジェンダーも生きづらいのは社会の問題である」という共通認識を持て、いつしか「一緒に社会を変えていこう」と話すようになった。全く初対面の障害者とトランスジェンダーが、ここまで仲間意識を持つのは難しいかもしれない。 しかし、友人と私は、高校3年分の楽しかったこともしんどかったことも共有できる。改めて、多様な背景を持つ子どもたちが同じ教室で育つ大切さを、彼との関係から学んでいる。互いの周囲にも影響を与えながら、ともに暮らしやすい社会に変えていこう。(障害当事者)
友よ、一緒に社会を変えていこう 《電動車いすから見た景色》42
2023年5月19日
【コラム・川端舞】前回のコラムで書いたように、先日、故郷の群馬で開催されたプレゼンテーション大会で、重度身体障害がありながら、障害のない同級生と同じ学校に通った経験を話した。「ぜひ群馬で川端の経験を話してほしい」と、その大会に私を推薦してくれたのは高校時代の友人。友人は、生まれたときに割り当てられた性別は女性だが、今は男性として生きているトランスジェンダー当事者だ。 多くの建物の入り口には段差があり、車いすで入れない。言語障害のある者が話すと、多くの人は困った顔をし、本人と直接話すことを諦める。今の社会は障害者にとって生きづらい。しかし、それは障害者が悪いわけではなく、障害者の存在を前提につくられていない社会の問題だ。この考え方を「障害の社会モデル」と言い、国連の障害者権利条約もこの考え方を取り入れている。 一方、友人と話すうちに、就職面接など、人生において重要な場面ほど、性別を聞かれ、制服やトイレなど、あらゆるものが男女別に分けられる社会はトランスジェンダーにとっても過ごしづらい環境なのだと気づいた。それはトランスジェンダーが悪いわけではなく、トランスジェンダーがいることを前提に社会がつくられていないのが問題だ。 もちろん、男女別の制服や施設が心地よい人もいるだろう。その人たちの意見は決して否定しない。だから、トランスジェンダー当事者にとって、心地よい制服や施設のあり方はどのようなものかも直接聞いてほしい。それぞれが心地よくいられる、全く新しい制服や施設のあり方が見つかるかもしれない。そうすることで、多様な人が過ごしやすい社会に変えていける。 高校3年分の絆 1年ほど前から、頻繁に友人と連絡を取るようになり、互いの子ども時代のことも聞き合った。その過程で、「障害者もトランスジェンダーも生きづらいのは社会の問題である」という共通認識を持て、いつしか「一緒に社会を変えていこう」と話すようになった。全く初対面の障害者とトランスジェンダーが、ここまで仲間意識を持つのは難しいかもしれない。 しかし、友人と私は、高校3年分の楽しかったこともしんどかったことも共有できる。改めて、多様な背景を持つ子どもたちが同じ教室で育つ大切さを、彼との関係から学んでいる。互いの周囲にも影響を与えながら、ともに暮らしやすい社会に変えていこう。(障害当事者)
地元で話す 子ども時代の経験 《電動車いすから見た景色》41
2023年4月20日
【コラム・川端舞】来月、故郷の群馬で、とあるプレゼンテーション大会に登壇し、子ども時代のことを話す。多くの障害児が特別支援学校に通うなか、重度身体障害のある私は小学校から高校まで、障害のない同級生と同じ学校に通った。しかし、特に中学時代は、介助員からトイレ介助を拒否されるなど、つらいことが多かった。 私は中学時代の介助員や、介助員からの虐待に気づかなかった担任教員だけが悪いとは決して思っていない。 どんな障害があっても、健常児と同じ学校に通う権利があると国連は認めている。障害児を含めた全ての子どもが過ごしやすいように、環境を整えるのは学校全体の責任だ。それなのに、障害児には介助員さえ付けておけば、必要な支援はすべて介助員に任せておけばいいと思われていたことが、当時の介助員を孤立させ、虐待に追い込んだ。 学校全体に流れていた「重度障害児はこの学校にいるべきではない」という空気が、虐待に気づかないほど、担任教員の目を曇らせたのだろう。「どんな障害があっても、普通学校に通うのは権利で、それを保障するのは学校の責任だ」と教育全体が思わない限り、おそらく同じ悲劇は繰り返される。 自分のような経験は誰にもさせまいと今までも様々な場所で自分の経験を話してきた。 障害児が同じ教室にいるのは当たり前 しかし、子ども時代の自分を直接知る人も多い群馬で、自分の経験を話すことはないと思っていた。地元の普通学校で育った障害者が、受けてきた教育を否定しているとなれば、「だったら、特別支援学校に行けばよかったのに」と思われ、普通学校から障害児を一層追い出そうとするかもしれない。それが怖かった。 そんな私が子ども時代の経験を故郷で話すことになったのは、高校時代の友人が「川端に群馬で話してほしい」と言ってくれたからだ。私は彼に自分の過去を話した。その話をすると、多くの人は「そんなにつらいのに、なぜ普通学校に行ったのか」と私に問う。だが、友人は「なぜ大人が子どもを守らないのか」と反応した。 どうやら、高校3年間、障害のある私が同じ教室にいるのが日常だった彼にとっては、私が普通学校に通ったのは当たり前のようだ。障害児だった私を「普通の子ども」と捉え、その子が学校で傷つけられたことを、自分のことのように怒ってくれる。常に例外として扱われた私にとって、友人の反応は泣きたくなるほど心地よい。 友人が近くで聞いてくれるなら、群馬でも話せるかもしれない。どんな障害があっても普通学校に通うのが当たり前の社会になることを祈りながら、話してこよう。(障害当事者)
地元で話す 子ども時代の経験 《電動車いすから見た景色》41
2023年4月20日
【コラム・川端舞】来月、故郷の群馬で、とあるプレゼンテーション大会に登壇し、子ども時代のことを話す。多くの障害児が特別支援学校に通うなか、重度身体障害のある私は小学校から高校まで、障害のない同級生と同じ学校に通った。しかし、特に中学時代は、介助員からトイレ介助を拒否されるなど、つらいことが多かった。 私は中学時代の介助員や、介助員からの虐待に気づかなかった担任教員だけが悪いとは決して思っていない。 どんな障害があっても、健常児と同じ学校に通う権利があると国連は認めている。障害児を含めた全ての子どもが過ごしやすいように、環境を整えるのは学校全体の責任だ。それなのに、障害児には介助員さえ付けておけば、必要な支援はすべて介助員に任せておけばいいと思われていたことが、当時の介助員を孤立させ、虐待に追い込んだ。 学校全体に流れていた「重度障害児はこの学校にいるべきではない」という空気が、虐待に気づかないほど、担任教員の目を曇らせたのだろう。「どんな障害があっても、普通学校に通うのは権利で、それを保障するのは学校の責任だ」と教育全体が思わない限り、おそらく同じ悲劇は繰り返される。 自分のような経験は誰にもさせまいと今までも様々な場所で自分の経験を話してきた。 障害児が同じ教室にいるのは当たり前 しかし、子ども時代の自分を直接知る人も多い群馬で、自分の経験を話すことはないと思っていた。地元の普通学校で育った障害者が、受けてきた教育を否定しているとなれば、「だったら、特別支援学校に行けばよかったのに」と思われ、普通学校から障害児を一層追い出そうとするかもしれない。それが怖かった。 そんな私が子ども時代の経験を故郷で話すことになったのは、高校時代の友人が「川端に群馬で話してほしい」と言ってくれたからだ。私は彼に自分の過去を話した。その話をすると、多くの人は「そんなにつらいのに、なぜ普通学校に行ったのか」と私に問う。だが、友人は「なぜ大人が子どもを守らないのか」と反応した。 どうやら、高校3年間、障害のある私が同じ教室にいるのが日常だった彼にとっては、私が普通学校に通ったのは当たり前のようだ。障害児だった私を「普通の子ども」と捉え、その子が学校で傷つけられたことを、自分のことのように怒ってくれる。常に例外として扱われた私にとって、友人の反応は泣きたくなるほど心地よい。 友人が近くで聞いてくれるなら、群馬でも話せるかもしれない。どんな障害があっても普通学校に通うのが当たり前の社会になることを祈りながら、話してこよう。(障害当事者)
議論は当事者の声を聞いてから 《電動車いすから見た景色》40
2023年3月16日
【コラム・川端舞】最近、メディアやSNSで、体の性と自認する性が一致しないトランスジェンダーに関する議論をよく目にする。しかし、なぜ「トイレや更衣室の利用」についてばかりが注目されるのだろう。もっと早急に議論すべきことがあるはずだ。 2021年にイギリスのトランスジェンダー当事者であるショーン・フェイにより書かれた「トランスジェンダー問題―議論は正義のために」(明石書店)は、当事者が社会の中で経験する様々な課題を論じている。 同書によると、イギリスではトランスジェンダーの子どもの6割が学校でいじめに遭っているが、その半数がいじめについて誰にも相談できていない。また、トランスジェンダーの若者の8割が、自傷行為をした経験がある。トランスジェンダー全体の4割が、否定的な反応を恐れて、家族に自分の性について話せていない。 本書を訳した高井ゆと里さんの解題によると、日本でもトランスジェンダーを理由に家族から拒絶される当事者は多い。今、世間でトランスジェンダーについて議論している人は、当事者の生きづらさをどのくらい直接聞いたことがあるだろうか。 障害者とトランスジェンダーの連携 私たち障害者も社会から生きづらさを押し付けられてきた。障害者が他の人と同じように、どこで誰と住むかを自分で決めたり、障害のない子どもと同じ学校で学ぶ権利があることを定めた国連の障害者権利条約は、2006年に世界中の障害者が参加して作成された。日本の障害者関連の法律を権利条約に合わせたものに整備するよう、日本政府に働きかけたのは国内の障害者たちだ。 この背景には「障害者のことは障害者が一番分かっている。障害者のことを障害者抜きに決めないで」という信念がある。障害者自身の声によって作られたからこそ、障害者権利条約はそれまで社会から抑圧されてきた障害者の権利を丁寧に規定し、世界中の障害者を勇気づけるものになった。 トランスジェンダーが社会から負わされる生きづらさを一番よく分かっているのはトランスジェンダー自身だ。偏見にさらされやすい今の社会で、人口の1%にも満たないトランスジェンダー当事者が声を上げるのは想像を絶する勇気がいることだろう。しかし、今現在も堂々と情報発信している当事者もいる。トランスジェンダーについて議論するのなら、当事者の声をじっくり聞くことから始めなければならないのではないか。 障害当事者の声を法律や政治に反映させるために長く運動してきた障害者団体の経験は、トランスジェンダー当事者にとっても役に立つだろう。障害者とトランスジェンダーが連携することで、互いに生きやすい社会に変えていく速度を上げられると私は確信している。(障害当事者)
議論は当事者の声を聞いてから 《電動車いすから見た景色》40
2023年3月16日
【コラム・川端舞】最近、メディアやSNSで、体の性と自認する性が一致しないトランスジェンダーに関する議論をよく目にする。しかし、なぜ「トイレや更衣室の利用」についてばかりが注目されるのだろう。もっと早急に議論すべきことがあるはずだ。 2021年にイギリスのトランスジェンダー当事者であるショーン・フェイにより書かれた「トランスジェンダー問題―議論は正義のために」(明石書店)は、当事者が社会の中で経験する様々な課題を論じている。 同書によると、イギリスではトランスジェンダーの子どもの6割が学校でいじめに遭っているが、その半数がいじめについて誰にも相談できていない。また、トランスジェンダーの若者の8割が、自傷行為をした経験がある。トランスジェンダー全体の4割が、否定的な反応を恐れて、家族に自分の性について話せていない。 本書を訳した高井ゆと里さんの解題によると、日本でもトランスジェンダーを理由に家族から拒絶される当事者は多い。今、世間でトランスジェンダーについて議論している人は、当事者の生きづらさをどのくらい直接聞いたことがあるだろうか。 障害者とトランスジェンダーの連携 私たち障害者も社会から生きづらさを押し付けられてきた。障害者が他の人と同じように、どこで誰と住むかを自分で決めたり、障害のない子どもと同じ学校で学ぶ権利があることを定めた国連の障害者権利条約は、2006年に世界中の障害者が参加して作成された。日本の障害者関連の法律を権利条約に合わせたものに整備するよう、日本政府に働きかけたのは国内の障害者たちだ。 この背景には「障害者のことは障害者が一番分かっている。障害者のことを障害者抜きに決めないで」という信念がある。障害者自身の声によって作られたからこそ、障害者権利条約はそれまで社会から抑圧されてきた障害者の権利を丁寧に規定し、世界中の障害者を勇気づけるものになった。 トランスジェンダーが社会から負わされる生きづらさを一番よく分かっているのはトランスジェンダー自身だ。偏見にさらされやすい今の社会で、人口の1%にも満たないトランスジェンダー当事者が声を上げるのは想像を絶する勇気がいることだろう。しかし、今現在も堂々と情報発信している当事者もいる。トランスジェンダーについて議論するのなら、当事者の声をじっくり聞くことから始めなければならないのではないか。 障害当事者の声を法律や政治に反映させるために長く運動してきた障害者団体の経験は、トランスジェンダー当事者にとっても役に立つだろう。障害者とトランスジェンダーが連携することで、互いに生きやすい社会に変えていく速度を上げられると私は確信している。(障害当事者)
高校時代の友人が気づかせてくれたこと 《電動車いすから見た景色》39
2023年2月17日
【コラム・川端舞】今月初め、生まれ故郷の群馬で、障害者権利条約の勉強会があり、2年ぶりに帰省した。会場で高校の同級生2人と再会し、写真を撮った。 国連が障害者権利条約を解説した「一般的意見」には、「(障害のある子とない子が同じ教室で学ぶ)インクルーシブ教育は、すべての生徒の基本的人権」と書いてある。5年ほど前、初めて読んだとき、その意味を理解するのに苦労した。「インクルーシブ教育は、障害のない生徒のためにもなるのか」と。 その考えが変わり始めたのは、数年前、ふとしたきっかけで、同級生たちと連絡を取るようになってからだ。高校当時、私は自分の障害への劣等感や、大学受験のプレッシャーで、息の詰まる学校生活を送った記憶しかなかった。しかし、友人と話しているうちに、当時の楽しかった記憶も思い出した。 周囲の同級生が障害のある自分をどう見ていたのかも聞くことができ、少し客観的に過去を振り返ることができた。「こんなに悩んでいるのは自分だけだ」と思っていたが、実は障害のない生徒も深い悩みを抱えていることがあり、悩みの原因の多くは、社会や学校が多様性に寛容でないためであると気付くこともできた。 一方、卒業後10年以上たってから、当時の自分の悩みを友人に聞いてもらうこともでき、「高校時代、川端がふさぎ込んでしまったのも無理ないよ」と言われ、気持ちが楽になった。 しんどいのは障害児だけではない 「しんどさを抱えながら、学校に通っているのは障害児だけではない。だから、どんな子でも過ごしやすい普通学校に変える必要があるのだ」。友人と話しながら、こんなことを思った。 勉強や運動が他の子どもと同じようにできなくても、違いを受け入れ、どのように環境を変えれば、障害児でも過ごしやすくなるのかを考えられる学校は、障害のない子どもにとっても過ごしやすい学校になるのかもしれない。それが、「インクルーシブ教育は、すべての生徒の基本的人権」ということなのだろう。 いろんな同級生と一緒に高校時代を過ごした記憶と、大人になってから果たせた同級生との再会が、私に「インクルーシブ教育とは何か」を改めて考え直させてくれるのだ。(障害当事者)
高校時代の友人が気づかせてくれたこと 《電動車いすから見た景色》39
2023年2月17日
【コラム・川端舞】今月初め、生まれ故郷の群馬で、障害者権利条約の勉強会があり、2年ぶりに帰省した。会場で高校の同級生2人と再会し、写真を撮った。 国連が障害者権利条約を解説した「一般的意見」には、「(障害のある子とない子が同じ教室で学ぶ)インクルーシブ教育は、すべての生徒の基本的人権」と書いてある。5年ほど前、初めて読んだとき、その意味を理解するのに苦労した。「インクルーシブ教育は、障害のない生徒のためにもなるのか」と。 その考えが変わり始めたのは、数年前、ふとしたきっかけで、同級生たちと連絡を取るようになってからだ。高校当時、私は自分の障害への劣等感や、大学受験のプレッシャーで、息の詰まる学校生活を送った記憶しかなかった。しかし、友人と話しているうちに、当時の楽しかった記憶も思い出した。 周囲の同級生が障害のある自分をどう見ていたのかも聞くことができ、少し客観的に過去を振り返ることができた。「こんなに悩んでいるのは自分だけだ」と思っていたが、実は障害のない生徒も深い悩みを抱えていることがあり、悩みの原因の多くは、社会や学校が多様性に寛容でないためであると気付くこともできた。 一方、卒業後10年以上たってから、当時の自分の悩みを友人に聞いてもらうこともでき、「高校時代、川端がふさぎ込んでしまったのも無理ないよ」と言われ、気持ちが楽になった。 しんどいのは障害児だけではない 「しんどさを抱えながら、学校に通っているのは障害児だけではない。だから、どんな子でも過ごしやすい普通学校に変える必要があるのだ」。友人と話しながら、こんなことを思った。 勉強や運動が他の子どもと同じようにできなくても、違いを受け入れ、どのように環境を変えれば、障害児でも過ごしやすくなるのかを考えられる学校は、障害のない子どもにとっても過ごしやすい学校になるのかもしれない。それが、「インクルーシブ教育は、すべての生徒の基本的人権」ということなのだろう。 いろんな同級生と一緒に高校時代を過ごした記憶と、大人になってから果たせた同級生との再会が、私に「インクルーシブ教育とは何か」を改めて考え直させてくれるのだ。(障害当事者)
国連は誰のことも否定していないか 《電動車いすから見た景色》38
2023年1月18日
【コラム・川端舞】昨年9月、「国連が特別支援教育の中止を勧告した」と報道されたとき、特にインターネット上では様々な意見が聞かれた。特別支援学校を卒業した障害当事者や、今、特別支援学校で障害児ひとりひとりと向き合っている教員からすれば、自分の経験を否定されてしまったように感じたかもしれない。 しかし、改めて国連の勧告を読むと、「分離された特別支援教育を中止するために、国家政策などの中で障害児がインクル―シブ教育を受ける権利を認め、全ての障害児が、あらゆるレベルの教育において、必要な支援を受けられるように国家計画を採択すること」とある。 国連は今すぐに特別支援学校などを廃止することは求めておらず、どんな障害があってもインクルーシブ教育を受けられるようにするために、普通学校が障害児の入学を拒否できないようにするなど、普通学校のあり方を変えるように求めているのだ。 現在、特別支援学校でやられている障害児ひとりひとりに合わせた丁寧な指導を国連は否定しているわけではないと、私は思う。 特別支援学校の良さを教えて 私は特別支援学校に通った経験がないため、今の特別支援学校の良さを十分には理解できていないだろう。だから、特別支援学校の先生方や卒業生に、ぜひ特別支援学校の良さを教えてほしい。そして、今の普通学校をどう変えていけば、特別支援学校の良さを普通学校でも実現できるか、一緒に考えてほしい。これは、長年、特別支援学校を経験してきた障害当事者や先生方にしかできないことだ。 全く違う立場で経験してきたことを、お互いに共有し合うのは勇気のいることかもしれない。しかし、異なる経験や意見を持つ人同士がお互いを知っていくことで、どんな障害があっても、その子らしく居られる新しい普通学校の形が見えてくるのかもしれない。(障害当事者)
国連は誰のことも否定していないか 《電動車いすから見た景色》38
2023年1月18日
【コラム・川端舞】昨年9月、「国連が特別支援教育の中止を勧告した」と報道されたとき、特にインターネット上では様々な意見が聞かれた。特別支援学校を卒業した障害当事者や、今、特別支援学校で障害児ひとりひとりと向き合っている教員からすれば、自分の経験を否定されてしまったように感じたかもしれない。 しかし、改めて国連の勧告を読むと、「分離された特別支援教育を中止するために、国家政策などの中で障害児がインクル―シブ教育を受ける権利を認め、全ての障害児が、あらゆるレベルの教育において、必要な支援を受けられるように国家計画を採択すること」とある。 国連は今すぐに特別支援学校などを廃止することは求めておらず、どんな障害があってもインクルーシブ教育を受けられるようにするために、普通学校が障害児の入学を拒否できないようにするなど、普通学校のあり方を変えるように求めているのだ。 現在、特別支援学校でやられている障害児ひとりひとりに合わせた丁寧な指導を国連は否定しているわけではないと、私は思う。 特別支援学校の良さを教えて 私は特別支援学校に通った経験がないため、今の特別支援学校の良さを十分には理解できていないだろう。だから、特別支援学校の先生方や卒業生に、ぜひ特別支援学校の良さを教えてほしい。そして、今の普通学校をどう変えていけば、特別支援学校の良さを普通学校でも実現できるか、一緒に考えてほしい。これは、長年、特別支援学校を経験してきた障害当事者や先生方にしかできないことだ。 全く違う立場で経験してきたことを、お互いに共有し合うのは勇気のいることかもしれない。しかし、異なる経験や意見を持つ人同士がお互いを知っていくことで、どんな障害があっても、その子らしく居られる新しい普通学校の形が見えてくるのかもしれない。(障害当事者)
人権はすべての人の問題 《電動車いすから見た景色》37
2022年12月16日
【コラム・川端舞】12月は「人権月間」と呼ばれている。法務省のホームページには、「『誰か』のことじゃない」をテーマに、セクシュアルハラスメントやいじめ、感染症に起因する差別などを描いた短編動画が公開されている。「人権問題」というと、障害者や外国籍の人、LGBTQ当事者など特定の人たちの問題として扱われることも多いが、法務省の動画では、すべての人に関わる問題として描かれている。 「人権」は、この社会に生きるすべての人が平等に持っている、人が人らしく生きるためのものだ。「自分には人権がある」と分かってこそ、ハラスメントなど人権侵害を受けたとき、自分から周りに助けを求められ、自分で自分を守ることができる。 人権の主体になる 今年9月、障害者権利条約の対日審査の結果、国連から日本に「すべての障害者を他の者と同等に人権の主体と認める」ように、法律や政策を見直すことという勧告が出された。 国連は、日本ではいまだに父権主義的な考えが強いことを指摘している。父権主義とは、本人の意思に関係なく、本人の利益のためだとして、本人に代わって意思決定をすることだ。障害者を人権の主体と認める障害者権利条約とは相反する。 また、日本は、19年に「子どもの権利条約」の審査においても、国連から「子どもに関わるすべての事柄について自由に意見を表明する権利を保障し、子どもの意見が正当に重視されることを確保するよう」促されている。 日本は、障害者や子ども本人の意思を聞き、「人権の主体」として位置づけることが苦手なようだ。 「自分には他の人と同じように人らしく生活する権利があり、その権利が侵害された時は『おかしい』と主張していいのだ」と思えるのが「人権の主体」になることではないか。日本では自分の権利を主張すると、「わがままだ」と思われがちだが、自分の権利を侵害されていることに気づけない人が、他の人の権利を大切にできるはずがない。 障害者や子どもだけでなく、すべての人が「人権の主体」になれるように促すことが「人権啓発」なのかもしれない。(障害当事者)
人権はすべての人の問題 《電動車いすから見た景色》37
2022年12月16日
【コラム・川端舞】12月は「人権月間」と呼ばれている。法務省のホームページには、「『誰か』のことじゃない」をテーマに、セクシュアルハラスメントやいじめ、感染症に起因する差別などを描いた短編動画が公開されている。「人権問題」というと、障害者や外国籍の人、LGBTQ当事者など特定の人たちの問題として扱われることも多いが、法務省の動画では、すべての人に関わる問題として描かれている。 「人権」は、この社会に生きるすべての人が平等に持っている、人が人らしく生きるためのものだ。「自分には人権がある」と分かってこそ、ハラスメントなど人権侵害を受けたとき、自分から周りに助けを求められ、自分で自分を守ることができる。 人権の主体になる 今年9月、障害者権利条約の対日審査の結果、国連から日本に「すべての障害者を他の者と同等に人権の主体と認める」ように、法律や政策を見直すことという勧告が出された。 国連は、日本ではいまだに父権主義的な考えが強いことを指摘している。父権主義とは、本人の意思に関係なく、本人の利益のためだとして、本人に代わって意思決定をすることだ。障害者を人権の主体と認める障害者権利条約とは相反する。 また、日本は、19年に「子どもの権利条約」の審査においても、国連から「子どもに関わるすべての事柄について自由に意見を表明する権利を保障し、子どもの意見が正当に重視されることを確保するよう」促されている。 日本は、障害者や子ども本人の意思を聞き、「人権の主体」として位置づけることが苦手なようだ。 「自分には他の人と同じように人らしく生活する権利があり、その権利が侵害された時は『おかしい』と主張していいのだ」と思えるのが「人権の主体」になることではないか。日本では自分の権利を主張すると、「わがままだ」と思われがちだが、自分の権利を侵害されていることに気づけない人が、他の人の権利を大切にできるはずがない。 障害者や子どもだけでなく、すべての人が「人権の主体」になれるように促すことが「人権啓発」なのかもしれない。(障害当事者)
ともに過ごすことを前提にする英断を 《電動車いすから見た景色》36
2022年11月17日
【コラム・川端舞】9月13日の記者会見で、永岡桂子文部科学大臣は「インクルーシブ教育システムの目的は、身体的、精神的能力を可能な限り発達させること」と述べた。では、学校で養うべき力とはなんだろうか? 前回紹介した、永岡大臣にお送りしたお手紙の後半では、私自身が考える、社会で生きていくために必要な力についてお伝えした。先月に引き続き、お手紙の要約を紹介したい。 障害者と健常者が一緒に生きていく力 この社会は、健常者が大多数だ。その社会で障害者が生きていくためには、健常者と関わっていくしかない。特別支援学校でずっと過ごし、障害のない同級生と日常的に関わった経験がない障害児が、社会に出たあと、健常者と対等な関係をつくっていけるだろうか。 私は言語障害があり、明瞭な発音で話せない。小学校時代は言語障害を軽減させるリハビリを受けていたが、効果はほとんどなかった。逆に言語障害への劣等感が強くなり、学校でも同級生とあまり話さなくなった。 一方、高校時代も普通高校に通っていたが、小中学校に比べ、学校の先生や同級生が私に直接話してかけくれるようになった。学校で「話す」という経験を積み重ねるうちに、私は「相手が自分の言葉を聞き取れなかったら、聞き返してもらえばいい」ということがわかってきた。 もし、高校時代、特別支援学校に通い、障害のない同級生と話す機会がなかったら、私は、今のように健常者と対等に話せるようにはならなかったかもしない。 特別支援教育→インクル―シブ教育 初対面の人は、たいてい、言語障害のある私に話しかけるのを躊躇(ちゅうちょ)する。しかし、高校の同級生は卒業後10年以上たった今でも、久しぶりに会うと何の遠慮もなく、私に話しかけてくる。高校3年間、同じ教室で過ごした経験が、障害のある私と障害のない同級生に、互いにコミュニケーションをとる力を身に付けさせたのだ。 もちろん、現状の普通学級に障害のある生徒を入れるだけでは、その生徒に十分な支援を提供できないかもしれない。1つの学級の児童生徒数を減らすなど、普通学級の構造自体を変え、普通学級の中で障害のある生徒が十分な支援を受けられる環境にしていく必要がある。そのような環境では、障害のない生徒も、困った時に教員に助けを求めやすくなるだろう。 障害のある子とない子が学ぶ場を分けることを前提とした現在の特別支援教育から、どんな障害のある子も普通学級で過ごすことを前提にしたインクル―シブ教育へ、舵(かじ)を切る英断を永岡大臣がなさることを期待している。(障害当事者)
ともに過ごすことを前提にする英断を 《電動車いすから見た景色》36
2022年11月17日
【コラム・川端舞】9月13日の記者会見で、永岡桂子文部科学大臣は「インクルーシブ教育システムの目的は、身体的、精神的能力を可能な限り発達させること」と述べた。では、学校で養うべき力とはなんだろうか? 前回紹介した、永岡大臣にお送りしたお手紙の後半では、私自身が考える、社会で生きていくために必要な力についてお伝えした。先月に引き続き、お手紙の要約を紹介したい。 障害者と健常者が一緒に生きていく力 この社会は、健常者が大多数だ。その社会で障害者が生きていくためには、健常者と関わっていくしかない。特別支援学校でずっと過ごし、障害のない同級生と日常的に関わった経験がない障害児が、社会に出たあと、健常者と対等な関係をつくっていけるだろうか。 私は言語障害があり、明瞭な発音で話せない。小学校時代は言語障害を軽減させるリハビリを受けていたが、効果はほとんどなかった。逆に言語障害への劣等感が強くなり、学校でも同級生とあまり話さなくなった。 一方、高校時代も普通高校に通っていたが、小中学校に比べ、学校の先生や同級生が私に直接話してかけくれるようになった。学校で「話す」という経験を積み重ねるうちに、私は「相手が自分の言葉を聞き取れなかったら、聞き返してもらえばいい」ということがわかってきた。 もし、高校時代、特別支援学校に通い、障害のない同級生と話す機会がなかったら、私は、今のように健常者と対等に話せるようにはならなかったかもしない。 特別支援教育→インクル―シブ教育 初対面の人は、たいてい、言語障害のある私に話しかけるのを躊躇(ちゅうちょ)する。しかし、高校の同級生は卒業後10年以上たった今でも、久しぶりに会うと何の遠慮もなく、私に話しかけてくる。高校3年間、同じ教室で過ごした経験が、障害のある私と障害のない同級生に、互いにコミュニケーションをとる力を身に付けさせたのだ。 もちろん、現状の普通学級に障害のある生徒を入れるだけでは、その生徒に十分な支援を提供できないかもしれない。1つの学級の児童生徒数を減らすなど、普通学級の構造自体を変え、普通学級の中で障害のある生徒が十分な支援を受けられる環境にしていく必要がある。そのような環境では、障害のない生徒も、困った時に教員に助けを求めやすくなるだろう。 障害のある子とない子が学ぶ場を分けることを前提とした現在の特別支援教育から、どんな障害のある子も普通学級で過ごすことを前提にしたインクル―シブ教育へ、舵(かじ)を切る英断を永岡大臣がなさることを期待している。(障害当事者)
文部科学大臣へ送った手紙 《電動車いすから見た景色》35
2022年10月20日
【コラム・川端舞】9月9日、国連が日本政府に分離教育の中止を勧告したのを受けて、永岡桂子文部科学大臣が13日の記者会見で、「障害のある子供と障害のない子供が可能な限り共に過ごす条件整備と、一人ひとりの教育的ニーズに応じた学びの場の整備を両輪として取り組む」などとし、「多様な学びの場における特別支援教育の中止は考えていない」と発言した。 これに対し、どうしても永岡大臣に直接お伝えしたいことがあり、お手紙をお送りした。その手紙を要約したものを、2回に分けて紹介する。 「共に過ごす」と「多様な学びの場」は両立しない 私は障害がありながら、小学校から高校まで普通学校の普通学級に通った。小中学校の頃、私はずっと普通学級で過ごしていたが、同じ学校には特別支援学級があり、知的障害のある同級生は学校にいるほとんどの時間を他の同級生とは違う教室で過ごしていた。その様子を見て、当時の私は「自分は勉強ができるから、支援学級にいるあの子たちとは違うのだ」と自分にも障害があるくせに、知的障害のある同級生を見下していた。 学校行事の時は、支援学級の生徒も他の同級生と一緒に参加していたが、いつもほとんど同じ教室にいない同級生を「仲間」だと思えるはずがない。支援学級の生徒とどう話したらいいのかさえ、私を含めた普通学級の生徒は分からず、お客様扱いするしかなかった。 私も支援学級の生徒とほとんど接点はなかったと思っていた。しかし、大人になってから小学校の卒業アルバムを見返すと、修学旅行でその同級生と一緒に班行動をしている写真を見つけ、「同じクラスで、修学旅行の班も一緒だったのか」と驚くとともに、その同級生と話した記憶が一切ない自分にショックを受けた。 障害のある子どもとない子どもが共に過ごすための条件整備と、特別支援学校、特別支援学級などの「多様な学びの場」は両立しない。もし、小中学校時代、支援学級がなく、知的障害のある生徒も、本人が「静かな部屋で休憩したり、自分のペースで勉強したい」と思った時以外は、普通学級で過ごすのが当たり前の環境だったら、他の同級生も彼らを仲間として受け入れることができただろう。 国連も、特定の機能障害に対応するために設計された別の環境で、障害のない生徒から切り離されて行われる教育は「分離」だとして、「インクルージョン」(※編集部注)とは明確に区別している。日本の特別支援学校や特別支援学級は明らかに「分離教育」であり、現在の分離教育を前提とした特別支援教育は見直すべきである。(障害当事者) 【※編集部注】インクルージョン(inclusion) 一般的な日本語訳では「包括、包含」。対語は「エクスクルージョン(exclusion)」で「排除、隔離」といった意味になる。インクルージョンは日本において「インクルーシブ教育」という名で広く知られる。人間の多様性を尊重し、障害のある子どもたちが通常学級で健常児と共に机を並べて学ぶ教育をいう。障害児が一般社会から排除されずに個人の状態に合った合理的配慮の提供を受けられるといった仕組みの整備が求められている。
文部科学大臣へ送った手紙 《電動車いすから見た景色》35
2022年10月20日
【コラム・川端舞】9月9日、国連が日本政府に分離教育の中止を勧告したのを受けて、永岡桂子文部科学大臣が13日の記者会見で、「障害のある子供と障害のない子供が可能な限り共に過ごす条件整備と、一人ひとりの教育的ニーズに応じた学びの場の整備を両輪として取り組む」などとし、「多様な学びの場における特別支援教育の中止は考えていない」と発言した。 これに対し、どうしても永岡大臣に直接お伝えしたいことがあり、お手紙をお送りした。その手紙を要約したものを、2回に分けて紹介する。 「共に過ごす」と「多様な学びの場」は両立しない 私は障害がありながら、小学校から高校まで普通学校の普通学級に通った。小中学校の頃、私はずっと普通学級で過ごしていたが、同じ学校には特別支援学級があり、知的障害のある同級生は学校にいるほとんどの時間を他の同級生とは違う教室で過ごしていた。その様子を見て、当時の私は「自分は勉強ができるから、支援学級にいるあの子たちとは違うのだ」と自分にも障害があるくせに、知的障害のある同級生を見下していた。 学校行事の時は、支援学級の生徒も他の同級生と一緒に参加していたが、いつもほとんど同じ教室にいない同級生を「仲間」だと思えるはずがない。支援学級の生徒とどう話したらいいのかさえ、私を含めた普通学級の生徒は分からず、お客様扱いするしかなかった。 私も支援学級の生徒とほとんど接点はなかったと思っていた。しかし、大人になってから小学校の卒業アルバムを見返すと、修学旅行でその同級生と一緒に班行動をしている写真を見つけ、「同じクラスで、修学旅行の班も一緒だったのか」と驚くとともに、その同級生と話した記憶が一切ない自分にショックを受けた。 障害のある子どもとない子どもが共に過ごすための条件整備と、特別支援学校、特別支援学級などの「多様な学びの場」は両立しない。もし、小中学校時代、支援学級がなく、知的障害のある生徒も、本人が「静かな部屋で休憩したり、自分のペースで勉強したい」と思った時以外は、普通学級で過ごすのが当たり前の環境だったら、他の同級生も彼らを仲間として受け入れることができただろう。 国連も、特定の機能障害に対応するために設計された別の環境で、障害のない生徒から切り離されて行われる教育は「分離」だとして、「インクルージョン」(※編集部注)とは明確に区別している。日本の特別支援学校や特別支援学級は明らかに「分離教育」であり、現在の分離教育を前提とした特別支援教育は見直すべきである。(障害当事者) 【※編集部注】インクルージョン(inclusion)一般的な日本語訳では「包括、包含」。対語は「エクスクルージョン(exclusion)」で「排除、隔離」といった意味になる。教育分野では「インクルーシブ教育」という言葉で使われ、特に、障害のある子どもたちが通常学級で健常児と共に学ぶ状態をいう。国連の公式文書によると、インクルーシブ教育には、すべての生徒に最適な学習環境を提供するために、通常学級の教育内容や組織体制を変更する過程が含まれる。
日本政府の恥ずかしい認識《電動車いすから見た景色》34
2022年9月16日
【コラム・川端舞】8月22~23日、障害者権利条約に対する日本の実施状況を審査する会合が国連ジュネーブ本部でおこなわれ、日本から障害者や家族、支援者など約100人が現地に向かった。審査自体は審査を担う国連の障害者権利委員会と日本政府との対話形式で進められるが、審査に先立ち、国連の委員と日本の障害者団体などが対話する時間が設けられたほか、審査の合い間に会場の外で、障害者たちが日本の現状を委員に直接訴えた。 私も、自分の子ども時代の普通学校での経験を書いたカードを委員に手渡し、障害児が日本の普通学校で学ぶ上で直面する困難を伝えた。私が差し出すカードを笑顔で受け取り、「インクルーシブ教育は日本にとって大きな課題だと思っている」と言ってくれた委員もいた。 実際の審査で「特別支援学校を廃止するために、予算措置を特別支援学校から通常の学校へ移行する予定はあるのか」「通常の学校が障害児を拒否することを禁止する法令を策定する予定があるのか」など、国連からの厳しい質問に、日本政府が回答した内容は、聞いているこちらが恥ずかしくなるようなものだった。 「特に知的障害児は中学・高校と学年が上がるにつれ、障害のない生徒と同じ内容を学ぶのが難しくなり、特別支援学校を選ぶことが多くなる。特別支援学校では知的障害のある生徒もリーダーシップを発揮できる」などの日本政府の回答を聞いていて、「特別支援学校を廃止する方略を聞かれているのに、特別支援学校の意義を主張してどうするのか」とツッコミを入れたくなった。 学習が苦手な生徒を支援する教員を1人多く教室に配置したり、生徒本人が「静かな部屋で集中して学習したい」「少し休憩したい」と思ったときだけ、他の教室で過ごしたり、知的障害のある生徒もどうやったら他の生徒とできるだけ一緒に学べるかを考える過程こそが、権利条約のいうインクルーシブ教育の過程なのに、日本政府の回答はその過程を放棄している。権利条約のいうインクルーシブ教育を全く理解していない。 「分離教育」中止を要請 8月の審査を受け、今月9日に国連が公表した報告書では、障害児を分離する現在の特別支援教育は止めるよう、日本政府に強く要請している。日本の障害者たちが自分と仲間の権利のためにジュネーブまで行った結果だ。現在、通常の学校に通っている障害のあるお子さんとご家族もジュネーブに行き、国連の委員に直接、日本の教育の現状を訴えたのも大きいだろう。 国連の要請にどう答えるのか。政府の反応に注目だ。(障害当事者)
日本政府の恥ずかしい認識《電動車いすから見た景色》34
2022年9月16日
【コラム・川端舞】8月22~23日、障害者権利条約に対する日本の実施状況を審査する会合が国連ジュネーブ本部でおこなわれ、日本から障害者や家族、支援者など約100人が現地に向かった。審査自体は審査を担う国連の障害者権利委員会と日本政府との対話形式で進められるが、審査に先立ち、国連の委員と日本の障害者団体などが対話する時間が設けられたほか、審査の合い間に会場の外で、障害者たちが日本の現状を委員に直接訴えた。 私も、自分の子ども時代の普通学校での経験を書いたカードを委員に手渡し、障害児が日本の普通学校で学ぶ上で直面する困難を伝えた。私が差し出すカードを笑顔で受け取り、「インクルーシブ教育は日本にとって大きな課題だと思っている」と言ってくれた委員もいた。 実際の審査で「特別支援学校を廃止するために、予算措置を特別支援学校から通常の学校へ移行する予定はあるのか」「通常の学校が障害児を拒否することを禁止する法令を策定する予定があるのか」など、国連からの厳しい質問に、日本政府が回答した内容は、聞いているこちらが恥ずかしくなるようなものだった。 「特に知的障害児は中学・高校と学年が上がるにつれ、障害のない生徒と同じ内容を学ぶのが難しくなり、特別支援学校を選ぶことが多くなる。特別支援学校では知的障害のある生徒もリーダーシップを発揮できる」などの日本政府の回答を聞いていて、「特別支援学校を廃止する方略を聞かれているのに、特別支援学校の意義を主張してどうするのか」とツッコミを入れたくなった。 学習が苦手な生徒を支援する教員を1人多く教室に配置したり、生徒本人が「静かな部屋で集中して学習したい」「少し休憩したい」と思ったときだけ、他の教室で過ごしたり、知的障害のある生徒もどうやったら他の生徒とできるだけ一緒に学べるかを考える過程こそが、権利条約のいうインクルーシブ教育の過程なのに、日本政府の回答はその過程を放棄している。権利条約のいうインクルーシブ教育を全く理解していない。 「分離教育」中止を要請 8月の審査を受け、今月9日に国連が公表した報告書では、障害児を分離する現在の特別支援教育は止めるよう、日本政府に強く要請している。日本の障害者たちが自分と仲間の権利のためにジュネーブまで行った結果だ。現在、通常の学校に通っている障害のあるお子さんとご家族もジュネーブに行き、国連の委員に直接、日本の教育の現状を訴えたのも大きいだろう。 国連の要請にどう答えるのか。政府の反応に注目だ。(障害当事者)
いよいよジュネーブの国連審査へ《電動車いすから見た景色》33
2022年8月19日
【コラム・川端舞】国連の障害者権利条約は、入所施設ではなく地域で生活する権利や、普通学校に通う権利など、障害者が他の人と平等に生活するための権利を規定している。その中でも、より重要だったり、誤解されやすいものについては、「一般的意見」という別の文章でより詳しく説明されている。 例えば、いわゆるバリアフリーを説明した「一般的意見第2号」では、バリアの撤廃が必要な事柄として、「建物、道路、輸送機関その他の屋内外の施設」「その他の屋内外施設には、とりわけ、法執行機関、裁判所及び刑務所、社会機関、社会的交流、娯楽、文化的、宗教的、政治的活動及びスポーツ活動の場と、買い物施設が含まれる」などと書かれている。 一見、とても細かい部分まで書かれているようだが、改めて考えれば、娯楽やスポーツ活動など、人生においてはどれも欠かせないものである。障害者が自分たちの権利を議論してつくった条約だからこそ、「どんな些細(ささい)なことでも、障害のない人が当たり前にやっていることは、障害者も当たり前にできるのが権利なのだ」と、はっきり意思表示できたのだと思う。 日本政府の矛盾点を指摘 そんな障害者権利条約を締約国が守っているか、定期的に国連が審査する。条約締結後、初の日本への審査が今月22~23日、ジュネーブでおこなわれる。 日本政府が国連に事前に提出した報告書では、例えば教育分野では「(障害児には)適切な指導及び必要な支援を行う特別支援教育が実施されており、…特別支援学級、特別支援学校といった、連続性のある『多様な学びの場』が整備され」ていると書かれている。 これに対し、全国的な障害者団体や家族等支援団体などで構成する日本障害フォーラムが提出した報告では、「現行の就学先の決定の仕組みは、地域の通常学校・学級に通うことが原則になっていない」など、障害児が障害のない子どもとともに育つ権利を謳(うた)う障害者権利条約と、日本政府の報告との乖離(かいり)を指摘している。 他の分野に関しても、日本障害フォーラムは政府報告の矛盾点を指摘しており、今回、ジュネーブで国連の審査委員と日本政府が直接対話するとき、これらの矛盾点がどのように話し合われるのか注目だ。 今後の日本の障害者施策が変わる、分岐点になるだろう場に立ち会えることに感謝し、将来、日本の障害者施策をよりよいものにするために働きかけられる、障害者リーダーに私もなりたい。(障害当事者)
いよいよジュネーブの国連審査へ《電動車いすから見た景色》33
2022年8月19日
【コラム・川端舞】国連の障害者権利条約は、入所施設ではなく地域で生活する権利や、普通学校に通う権利など、障害者が他の人と平等に生活するための権利を規定している。その中でも、より重要だったり、誤解されやすいものについては、「一般的意見」という別の文章でより詳しく説明されている。 例えば、いわゆるバリアフリーを説明した「一般的意見第2号」では、バリアの撤廃が必要な事柄として、「建物、道路、輸送機関その他の屋内外の施設」「その他の屋内外施設には、とりわけ、法執行機関、裁判所及び刑務所、社会機関、社会的交流、娯楽、文化的、宗教的、政治的活動及びスポーツ活動の場と、買い物施設が含まれる」などと書かれている。 一見、とても細かい部分まで書かれているようだが、改めて考えれば、娯楽やスポーツ活動など、人生においてはどれも欠かせないものである。障害者が自分たちの権利を議論してつくった条約だからこそ、「どんな些細(ささい)なことでも、障害のない人が当たり前にやっていることは、障害者も当たり前にできるのが権利なのだ」と、はっきり意思表示できたのだと思う。 日本政府の矛盾点を指摘 そんな障害者権利条約を締約国が守っているか、定期的に国連が審査する。条約締結後、初の日本への審査が今月22~23日、ジュネーブでおこなわれる。 日本政府が国連に事前に提出した報告書では、例えば教育分野では「(障害児には)適切な指導及び必要な支援を行う特別支援教育が実施されており、…特別支援学級、特別支援学校といった、連続性のある『多様な学びの場』が整備され」ていると書かれている。 これに対し、全国的な障害者団体や家族等支援団体などで構成する日本障害フォーラムが提出した報告では、「現行の就学先の決定の仕組みは、地域の通常学校・学級に通うことが原則になっていない」など、障害児が障害のない子どもとともに育つ権利を謳(うた)う障害者権利条約と、日本政府の報告との乖離(かいり)を指摘している。 他の分野に関しても、日本障害フォーラムは政府報告の矛盾点を指摘しており、今回、ジュネーブで国連の審査委員と日本政府が直接対話するとき、これらの矛盾点がどのように話し合われるのか注目だ。 今後の日本の障害者施策が変わる、分岐点になるだろう場に立ち会えることに感謝し、将来、日本の障害者施策をよりよいものにするために働きかけられる、障害者リーダーに私もなりたい。(障害当事者)
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