月曜日, 6月 5, 2023
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高橋恵一

戦後77年の日本の8月《ひょうたんの眼》52

【コラム・高橋恵一】戦後77年の広島・長崎原爆忌、終戦記念日の8月が過ぎようとしている。ロシアのウクライナ侵攻や旧統一教会関連の安倍元首相銃撃など、さらに暑い夏であった。過去の日本の戦争の愚かさ、恐ろしさを改めて思い知るとともに、現在のプーチンのウクライナ侵攻が、旧日本軍の行動を再現しているように見えて仕方がない。 ウクライナ侵攻を受けて、日本の防衛力強化が主張されている。侵略戦争で逆に惨敗し、相手国だけでなく、自国の兵士や民間人も無駄に死なせてしまった国。いまだに自虐史観などと言って、侵略破滅戦争の責任も認められない日本は、軍事力を強化し、軍事同盟を強化したら、また加害者になる心配はないのか? 本来日本が果たすべき役割は、平和憲法を掲げた、核廃絶と戦争停止・廃止だ。東京裁判で有罪になるも、その後釈放された政府幹部や軍指導部の中には、無謀な侵略戦争に突入し、敗北が確実なのに多数の同胞を無残な死に追いやった無策の責任も認めず、ほとぼりが冷めたと、また旧大日本帝国復興を妄想するやからが健在だ。 自虐史観とか、教育勅語の容認、平和憲法の改悪などを公然と主張する勢力を組織化し、保守政治に植え付けた。それが岸元首相であり、それを受け継いで、解釈改憲で安保法制や特定秘密保護法を立法化し、武器輸出3原則の無効化やジェンダーフリーなどの人権擁護課題を妨害し、憲法9条あるいは憲法前文にまで手を付けようとしていたのが、安倍元首相である。 元首相と統一教会の不可思議な共鳴 一方、元々、日本の植民地支配への復讐を動機に、世界支配を進めるカルト集団、旧統一教会の日本での活動を立ち上げから支援したのが、岸元首相である。教会の関連組織の勝共連合や原理研究会などの反共活動に共感したとしても、岸元首相と統一教会の行動規範は相いれないと思うのだが、不可思議な共鳴だ。この旧統一教会と保守政治との協力関係を引き継いだのも安倍元首相である。

「マイナポイント」のこと 《ひょうたんの眼》51

【コラム・高橋恵一】マイナンバーカードを取得すると、2万円相当の「ポイント」が付与されるので、早く取得するようにと政府は躍起になっている。取得率の高い市町村には、地方交付税を増額するという。商品やサービスの販売促進のために、ポイント付与がまん延しているが、「おまけ商法」の色彩が濃くなってきているのではないか。 つまり、必要の無いものをおまけで釣って、売りつける商法であり、景品表示法で規制されている取引である。意地悪く言えば、価値のないもの、粗悪なサービスを、景品(ポイント)で目くらましをして、販売していることになる。 前にこのコラムで、高田保の「ブラリひょうたん」に出て来る「奈良の旅館・日吉館」の紹介をしたことがある。多くの古美術研究者が贔屓(ひいき)にしている旅館に、学生たちが「米」だけは背負って来たから安く泊めてくれと言ったら、宿の主人は「50円でよろしい。その代わり、他の客より1時間早起きをして、できるだけ沢山観て廻(まわ)りなさい」と応じたという話だ。 戦後の間もない時期だが、大赤字に違いない。古都の奈良美術を誇りとしている宿屋の気概が見えて、いかにも小気味よい。現代のポイント付与もこうあってほしい。 しょせん、IT関連業界の「もうけ」話? マイナポイントは、国の重点政策遂行のための手段だろうが、現金に代わる「おまけ」で釣り、市町村を叱咤(しった)してまで推進する「マイナンバーカード」の取得は、古都奈良の美術ほどに貴重な制度で、美術学生に役立つほどに国民生活が便利になるのだろうか?...

日本はプーチンのロシアになるのか 《ひょうたんの眼》50

【コラム・高橋恵一】プーチンのロシアの理不尽なウクライナ侵攻を見て、日本の危機と防衛力の強化が叫ばれている。よくメディアに登場する「専門家」は、防衛省関係者・自衛隊幹部OB、あるいは旧大日本帝国の残影が残る関係者が大半だ。 「専門家」の解決策は、ロシアを押し返して、妥協できるところで停戦するシナリオだろうが、それまでにどれだけのウクライナ人が死ななければならないのだろう。ロシアの兵士は何万人死ぬのだろうか。世界の穀倉地帯の混乱で飢餓に陥る人々は16億人を超すとも予測されている。 プーチン大統領は、核兵器使用もいとわないという、無茶ぶりだ。NATO欧州加盟国は、防衛費をGDPの2%に増額するという。長期戦略として効果的かどうかも疑わしいが、少なくとも今のウクライナには間に合わない。 現在の日本の防衛予算は世界第8位。取りざたされているGDPの2%になれば、米国、中国に次いで、世界3番目の軍事費大国になる。 プーチンの侵略行為が、先の大戦のナチスドイツや大日本帝国軍の行動によく似ていることを考えれば、日本の防衛力強化は軍国日本の復活ともとられ、世界や日本国民が受け入れるとは思えない。世界は、そう見るのだ。 当然、中国もロシアも北朝鮮も、対抗して防衛力を強化する。それどころか、日本を警戒する意味で、韓国、台湾、フィリピンなどとの緊張も高めてしまうかもしれない。米国も、軍事産業部門以外からは、歓迎されないのではないか。

幻の「筑後氏」から脱し、正しい「小田氏」に 《ひょうたんの眼》49

【コラム・高橋恵一】土浦市立博物館の特別展「八田知家と名門常陸小田氏」(3月19日~5月8日)では、小田氏の初代・八田知家(はった・ともいえ)が「八田氏」から「筑後(ちくご)氏」に名乗りを変え、「小田氏」を名乗るのは、4代目の時知(ときとも、1250年ごろ)からと説明されていました。 私は、八田氏の名乗り(今でいえば苗字)を「筑後」に変えたとする説明は誤りと思うから、訂正すべきだと、特別展前に博物館宛てに出した文書、それから本コラム47(4月20日掲載)で指摘しました。しかし、博物館の本サイトへの「お応え」寄稿(4月27日掲載)では誤りでないとの論拠が示されず、特別展のシンポジウム(5月1日)でも、参加者から質問があったのに、「筑後の件は置いておく」と、取り上げられませんでした。 博物館などが「八田知家」が「筑後」に名乗り(苗字)を変えたとする根拠は、歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」の中の記述で、知家の子供たちが「筑後太郎」「筑後六郎」などと名乗ったとしていることです。 吾妻鏡の人名表記は、名(苗)字に太郎とか七郎などの生まれ順ないし家における順序が示され、さらに実名からなるのが基本とされ、八田右衛門尉(うえもんのじょう)知家、北条小四郎義時(ほうじょう・こしろうよしとき)、結城七郎朝光(ゆうき・しちろうともみつ)などとされています。さらに、本人が五位以上の(朝廷が任ずる)官職に就くと、官職名だけとなり、相模守(さがみのかみ=北条義時)、筑後守(八田知家)などと表記されています。 その子息たちは、親の官職名の後に、名字を省略して、自分の官職や通称と実名が表記されています。北条泰時(やすとき、義時の嫡男)は相模(さがみ)太郎、八田知重(ともしげ、知家の嫡男)は筑後左衛門尉(さえもんのじょう)知重、結城朝廣(ゆうき・ともひろ、上野介朝光=こうずけのすけ・ともみつ=の嫡男)は上野七郎左衛門尉朝廣などと表記されています。 いずれも、吾妻鏡の編者が、多くの御家人の人名を記述するにあたって、家系や官位などを整理・判読できるように、ルールに従って記述したと考えられます。つまり、筑後左衛門尉知重、の「筑後」は「筑後守の子息の…」という意味であり、名字を表記しているわけではありません。「相模」太郎も「上野」七郎左衛門尉朝廣も同じ表記ルールです。

「鎌倉殿の13人」の1人・八田知家と小田氏 《ひょうたんの眼》48

【コラム・高橋恵一】土浦市立博物館の特別展「八田知家(はった・ともいえ)と名門常陸小田氏」は、知家や初期の小田氏に関する資料が少ない中で、幅広く情報収集を行い、展示資料もすべて翻刻版を用意するなど、展示の工夫がみられ、博物館の努力は称賛すべきものです。5月8日までの特別展も終盤になりましたので、前回コラム「常陸小田氏の土浦市展示に事実誤認あり」(4月20日掲載)で問題提起した私なりに、八田知家について、もう一度まとめておきたいと思います。 知家の父親は宇都宮座主(ざす)の八田宗綱(むねつな)で、領域南端の五行川と小貝川が合流する手前(筑西市)の「八田」に居館を置き、本拠地としていました。宗綱・友家親子は、保元(ほうげん)の乱で源義朝(みなもと・よしとも、源頼朝=よりとも=の父)に従軍し、知家は乱後も京で北面の武士を務め、小山政光の妻(寒河尼=さむかわのあま=知家の姉)は頼朝の乳母になっています。 宇都宮・八田(小田)一族と小山一族の結びつきは強く、1180年の頼朝の挙兵には、双方一族を挙げていち早く駆け付け、頼朝から信頼される御家人として、鎌倉時代を通して幕府を支えました。 頼朝は富士川の戦いに勝利すると、関東を抑えることを優先しました。当時、常陸国は平氏の知行国であり、大掾多気(だいじょうたけ)氏を本宗とする常陸平氏一族と那賀川以北を治める佐竹氏(源氏)は、頼朝追討の指示を受けており、反頼朝あるいは日和見の立場にありました。 頼朝は、常陸国の国府まで出向いて佐竹氏を降伏させ、鎌倉への帰途に「八田館」に立ち寄ります。吾妻鏡には「小栗重成(おぐり・しげなり)の小栗御厨(おぐりのみくりや)の八田の館」とありますが、御厨の荘官・小栗氏は自分の居館を持っているので、御厨エリアの中にある八田氏の舘を指していると考えます。源頼朝が立ち寄ったのは、より信頼できる八田氏の居館です。 頼朝は鎌倉に戻ると、八田氏領域の「茂木保」を知家に安堵(あんど)します。直前に佐竹氏から収公した領地を勲功者に配分していますが、隣接する八田・宇都宮領との境界の混乱を避ける意味があったのかもしれません。

常陸小田氏の土浦市展示に事実誤認あり 《ひょうたんの眼》47

【コラム・高橋恵一】今、土浦市立博物館で特別展「八田知家と名門常陸小田氏」が開催されている。5月8日まで。現つくば市内に城を構えた小田氏の祖・八田知家(はった・ともいえ)が大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の1人であることからも、注目されている。 八田知家の「筑後改姓」は誤り 特別展の説明では、「知家は、『八田』から『筑後』に名乗りを改め、その後、子孫は『小田』を名乗るようになります」とされている。これは、土浦市史(1975年刊)中の「八田知家が、『筑後守』任官を受けて苗字を『筑後』に改めた」という記述を受け継いでいるようだ。 土浦市史では改姓の論拠を、①吾妻鑑(あずまかかみ)に知家の子たちが「筑後六郎知尚」のように記されている、②知家が寄進したと伝わる梵鐘の銘に「筑後入道尊念」とある―などと書かれている。 鎌倉幕府が編纂した史書・吾妻鑑における人名の表記は、「苗字・官位(これがない場合は太郎などの通称)・実名」で記述され、高位の者は、苗字や通称を省略して官職で表記している(官職名で個人が特定できるからだ)。いずれも、筆者が人名表記のルールを踏まえて記述したものであり、本人が官職を苗字として名乗っていたわけではない。 鎌倉武士の本懐(ほんかい)は、本貫(ほんがん)の地を苗字として名乗ることであり、世襲でもない職名を苗字とすることはない。

ウクライナ危機と日本の戦略 《ひょうたんの眼》46

【コラム・高橋恵一】プーチン大統領のロシア軍が、ウクライナへの理不尽な侵攻をしてから1カ月が過ぎてしまった。ヨーロッパ各国をはじめ、ほぼ全世界が非難する中で、プーチン大統領は、核兵器使用や第3次世界大戦も厭(いと)わないという、無茶(むちゃ)ぶりだ。ウクライナの市民と動員されたロシア側兵士の生命がどれだけ失われるのだろうか? 日本は、この事態にどう対処すればよいのだろうか。当面は、経済的負担、支援をしながら、欧米に歩調を合わせて行くしかないのだろう。今後は、安易に、防衛力の一層の強化が叫ばれるのだろうか? しかし、今回のプーチン大統領の侵略行為が、先の戦争における日本の行動によく似ていることを考えれば、日本の軍事力強化策は、世界や日本国民が受け入れるとは思えない。また、兵器は限りなく進化(?)高度化(?)するので、絶対安全な軍備などはありえないことも明らかになった。中国で「矛盾」という言葉ができたのは何千年前なのだろう? 絶望的な2度にわたる世界大戦の反省から、戦後の世界秩序を構築したのは、国連であり、戦勝国の武力を抑止力とした。しかし、武力の裏付けは経済力競争になり、結局、人類に平和をもたらしていない。ウクライナ以外にも、危険な地域はたくさんある。 一方、先の大戦の反省から生じた考え方、行動規範に、ユネスコ憲章があり、日本国憲法がある。日本国憲法は、平和の実現のために武力を使わないという日本の姿勢を、「国際社会における名誉ある地位」とし、ユネスコ憲章では、国家間の平和を維持するためには「政府間の政治的、経済的取り決めではなく、国民間の相互理解・尊重と連帯が必要」としている。 現在の、国際紛争の要因として、経済力の成長競争があり、所得格差の拡大がある。裏返して、軍拡競争にもなっているが、人間生活の真の豊かさ、安心を考えたとき、基準を考え直して、地球規模で持続可能な社会構築に目標を置くよう提案されている。

世代間不公平という肩車型の脅し 《ひょうたんの眼》45

【コラム・高橋恵一】少子高齢化を語るとき、1人の高齢者を働き盛りの年齢層が何人で支えるかを解りやすく表現するのに、イラストなどを用い、騎馬戦型(3人で1人)や肩車型(1人で1人)と呼んだりする。昔は4人で1人だったのに、今は2人弱で1人、将来は1人で1人を担ぐ肩車型になってしまい、世代間の不公平が進むなど、社会保障費の抑制を求める理由とされたりしている。特に、テレビや新聞などのメディアが安易にこの理論に乗ってしまっている。 元々、「年齢3区分別人口割合」は、国連が各国の人口構成をまとめたもので、開発途上国の現状や世界規模での高齢化を予測した統計である。生産年齢人口を15~64歳としたのも、途上国の現状を踏まえたものだ。65歳以上人口の割合が7%以上を高齢化社会、14%以上を高齢社会、21%以上を超高齢社会という。 しかし、この人口区分が現実と符合しないことは、お分かりだろう。日本の15~18歳は、大枠で就労人口に組入れられるだろうか。女性の就労率や、再雇用賃金の面から64歳まで生産年齢人口に換算できるのか。65歳以降の就労など、年齢人口区分の生産年齢人口と、就労・所得の人口割合とは、性格が異なるのだ。 さらに、生産年齢人口に対して、年少人口と高齢人口を合わせたものを従属人口と言う。つまり、騎馬戦の3人は、高齢者1人と年少人口3人を乗せていたのだ。肩車型では、高齢者1人と年少人口1人しか乗せないのだ。世代間負担の理屈は、年少人口の激減を考えなければ、それこそ不公平なのだ。 必要配分と応能負担の原則 高齢人口割合の上昇は、平均寿命の延びと年少人口割合の減少によるもので、日本の場合は、急激な出生人口の減少である。平均寿命の延びは、食糧事情の改善や生活環境の改善、医療水準の飛躍的発展、社会福祉サービスの向上などがあり、世界的にいえば、戦争や治安の悪化により理不尽に命が奪われることのないことだろう。

高田保の「ブラリひょうたん」 《ひょうたんの眼》44

【コラム・高橋恵一】高田保は、土浦出身の劇作家、映画監督、舞台演出家、随筆家である。旧土浦町の旧家に生まれ、子供のころから気遣いができて話も面白く、同級の者以外とも交流するなど、人望が厚かったそうだ。 旧制土浦中学(現在の土浦一高)を経て早稲田大学の英文科に進み、頻繁に銀座に現れるなど生活を謳歌(おうか)したという。中学の入学試験はトップだったが、2位には阿見町出身の下村千秋がおり、その後、2人とも文筆の道に進んだ。 保は、大学在学中から新劇運動に参加。戯曲に取り組んだり、劇団の脚色、演出、小説の執筆など、幅広い分野で活動。人柄もあって幅広い付き合いがあった。 東京日日新聞(現・毎日新聞)の学芸部長だった阿部真之助から、菊池寛を顧問とした学芸部社友に、大宅壮一、横光利一,吉屋信子らとともに招かれ、活躍。彼らの文章を評して、「マクラの阿部真之助、サワリの大宅壮一、オチの高田保」と言われたこともあるという。 戦時中から体調を壊し、大磯(神奈川)に住まいを移し、晩年は、同じ大磯の志賀直哉の旧居に住んだ。 戦後、1951年の12月から、東京日日に、1日1文「あとさき雑話」を書き始め、新年からは表題を「ブラリひょうたん」に改めた。なぜ、ブラリなのか? なぜ、ひょうたんなのか?...

吾妻鑑に見る常陸守護、八田知家 《ひょうたんの眼》43

【コラム・高橋恵一】都道府県魅力度最下位・茨城県の地元ひいきの立場からすると、鎌倉時代から戦国末期まで、筑波地方を支配した小田氏の祖、八田知家(はった・ともいえ)の知名度を上げる必要があると思う。 知家の茨城での評価は、出自不明で旧来の支配者、大掾多気(だいじょうたけ)氏をだまして領地を奪ったなどとする評価がつきまとっている。知家の親は、宇都宮座主(ざす)の八田宗綱(むねつな)で、領域南端の五行川と小貝川が合流する手前(旧下館市)の「八田」に居館(きょかん)を置き本拠の地としていた。 源義朝(みなもとのよしとも)が下野守(しもつけのかみ)であったこともあり、八田宗綱や小山政光(おやま・まさみつ)と源義朝とのつながりは深く、小山政光の妻(寒河尼=さむかわのあま=八田知家の姉)は、頼朝の乳母になっており、知家は、保元の乱で源義朝に従って少年武者として戦闘に参加している。頼朝(よりとも)の挙兵に、小山一族や宇都宮一族がいち早く駆け付け、頼朝から信頼される御家人となった。宇都宮・八田氏一族と小山氏一族は連携して、鎌倉幕府を支える強力な勢力を保った。 頼朝は、富士川の戦いに勝利すると、まず、関東を抑えることを優先した。当時、常陸国は平氏の知行国であり、大掾多気氏を本宗(ほんそう)とする常陸平氏一族と那珂川以北を治める佐竹氏は、平家の家人として頼朝追討の指示を受けており、反頼朝あるいは日和見の立場にあった。 頼朝は、常陸国の国府まで出向いて、佐竹氏を降伏させ、鎌倉への帰途に「八田館」に立ち寄った。吾妻鑑(あずまかがみ)には、「小栗重成(おぐり・しげなり)の小栗御厨(おぐりのみくりや)の八田の館」とあるが、御厨の荘官が小栗氏であり、御厨エリアの中にある八田氏の舘を指していると読むのではないか。小栗氏は小栗に館を持っており、極めて近い八田に別の舘を持たないであろう。源頼朝が立ち寄ったのは信頼度の高い八田氏の居館とするのが自然だろう。 奥州攻めの東海道大将軍に

身近なところから地球温暖化対策 《ひょうたんの眼》42

【コラム・高橋恵一】昔、石岡市のフラワーパーク近くの集落にあった祖父の屋敷には、水車があったそうだ。隣接の小幡集落では、スギの葉を水車で粉にして線香を作っている。木曽路の馬籠宿では、街道沿いの水路に観光用の水車がたくさん見られるが、休憩所の直径3メートルほどの水車で発電していて、馬籠宿の常夜灯の電力を賄っているそうだ。 以前、筑波山麓には細い渓流を利用した水車が無数にあった。筑波でも馬籠宿でも、細い水路から少し水を曳き、水車を回して、水は元の流れに戻すから、水量も水質もそのままで、下流に何ら影響を与えないのだ。山林の多い日本では、改めて、水車あるいは小水路をエネルギー源として活用したらよいと思う。 山麓の水田や池の周りで、雨上がりに蛍が舞う地域では、農薬や除草剤の使用を控えているようだ。蛍の里の米や野菜、果樹は、健康に安全で付加価値も高くなる。山林の手入れをし、集めた下枝や落ち葉はたい肥にしたり、害虫防止のために燃やしたりすることで、有機農業の推進や昔からの環境汚染防止をしていることになる。街の中でも、桜や街路樹の落ち葉だきは、毛虫などの害虫防止に役立つようだ。 しっかりと管理された状態での野焼きやたき火の効果を見直すべきではないか。研究者の報告では、住宅の植栽や街路樹のみどりは、その地域の気温を平均1℃低下させるそうだ。地域の水と緑を大切にすることで、少しでも地球温暖化を抑える身近な取り組みができるのだ。 人類の生き残りのために防止努力を 日本の国土の7割は山林で、その大部分は樹木で覆われている。森林には、保水機能や土砂崩れを防ぐ機能もある。自然ダムと言われるゆえんだ。温暖化の影響で引き起こされる、急な豪雨や出水を自然の力で緩和することが可能なはずだ。

コロナの次は格差解消だ 《ひょうたんの眼》41

【コラム・高橋恵一】9月15日現在の65歳以上の高齢者人口の推計値が発表され、総人口に占める割合は、29.1%とされた。2位のイタリア(23.6%)、3位のポルトガル(23.1%)を大きく引き離して「金メダル」だ。人類の悲願である長寿のおかげなのだが、どうも世間の雰囲気はマイナーなイメージで捉えているようだ。 首相の引退や総選挙を控えて、コロナ対策からこれからの日本のあり方が議論されている。コロナ禍は、世界中に経済社会の課題を突き付けたが、単にコロナ感染流行の前に戻ればよいというわけではなかろう。コロナ禍で露呈した課題は、感染症対策のお粗末さだけでなく、社会生活のあり方、会社・職場でのあり方、学校生活のあり方、病院や施設のあり方も問われた。 しかも、それぞれの分野での雇用・賃金の格差、休業や休暇制度の格差、非正規雇用など、社会の弱い分野に顕著に現れた。しかも、面倒なことに、地球温暖化やプラスチックごみよる膨大な海洋汚染、国際社会が求めるSDGs、巨大地震や豪雨洪水への備えなど、後回しにできない課題が山積みなのだ。 人間は、どうしても未来に希望を持ちたいので、足元のコロナ禍の見通しも対策も不十分なまま、コロナ後の施策がにぎやかである。 超々高齢社会の社会保障費割合の縮減、デジタル化の推進による経済活力の拡大、規制改革の推進など、華々しく経済再生復興策が提唱されるのだろう。マイナンバーカードの100%保有、キャシュレス決済の推進、ワクチン接種証明のスマホ利用などなど、IT技術を最大限に取り込んだ諸改革が進められようとしているのだ。 日本経済の最弱点は個人消費の弱さ

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博物館の歴史論争拒否、土浦市法務が助言 《吾妻カガミ》159

【コラム・坂本栄】今回は158「土浦市立博物館が郷土史論争を拒絶!」(5月29日掲載)の続きになります。市立博物館と本堂清氏の郷土史論争。博物館の論争拒否に対し、本堂氏は「(博物館がそう出るなら同施設を管轄する)市教育長に検討申請書を提出する」と反発しており、エスカレートしそうな雲行きです。 また取材の過程で、本堂氏を門前払いするようアドバイスしたのが市の法務部署であったと聞き、土浦市の博物館マネジメントにも唖然(あぜん)としました。論争を挑む本堂氏をクレーマー(苦情を言う人)並みに扱うよう指導したわけですから。 郷土史をめぐる主な論争は3点 私は中世史に疎いこともあり、市立博物館(糸賀茂男館長)の学芸員にこの論争の要点を整理してもらいました。 いつから山の荘と呼ばれたか ▼本堂氏:『新編常陸国史』(国学者中山信名=1787~1836=が著した常陸国の総合史誌)の記述からも明らかなように、「山の荘」(土浦市北部の筑波山系地域)の名称は古代からあったのに、博物館は同歴史書の記述を無視して同名称を古代史から抹消した。

阿見町の予科練平和記念館 《日本一の湖のほとりにある街の話》12

【コラム・若田部哲】終戦直前の1945年6月10日。この日は、阿見・土浦にとって決して忘れてはならない一日となりました。当時、阿見は霞ヶ浦海軍航空隊を有する軍事上の一大重要拠点でした。そのため、B29による大規模爆撃を受けることとなったのです。当時の様子は、阿見町は予科練平和記念館の展示「窮迫(きゅうはく)」にて、関係者の方々の証言と、再現映像で見ることができます。今回はこの「阿見大空襲」について、同館学芸員の山下さんにお話を伺いました。 折悪くその日は日曜日であったため面会人も多く、賑わいを見せていたそうです。そして午前8時頃。グアム及びテニアン島から、推計約360トンに及ぶ250キロ爆弾を搭載した、空が暗くなるほどのB29の大編隊が飛来し、広大な基地は赤く燃え上がったと言います。付近の防空壕(ごう)に退避した予科練生も、爆発により壕ごと生き埋めとなりました。 負傷者・死亡者は、家の戸板を担架代わりに、土浦市の土浦海軍航空隊適性部(現在の土浦第三高等学校の場所)へと運ばれました。4人組で1人の負傷者を運んだそうですが、ともに修練に明け暮れた仲間を戸板で運ぶ少年たちの胸中はいかばかりだったかと思うと、言葉もありません。負傷者のあまりの多さに、近隣の家々の戸板はほとんど無くなってしまったほどだそうです。 展示での証言は酸鼻を極めます。当時予科練生だった男性は「友人が吹き飛ばされ、ヘルメットが脱げているように見えたが、それは飛び出てしまった脳だった。こぼれてしまった脳を戻してあげたら、何とかなるんじゃないか。そう思って唯々その脳を手で拾い上げ頭蓋に戻した」と語ります。また土浦海軍航空隊で看護婦をしていた女性は「尻が無くなった人。足がもげた人。頭だけの遺体。頭の無くなった遺体。そんな惨状が広がっていた」と話します。 累々たる屍と無数の慟哭 この空襲により、予科練生等281人と民間人を合わせて300名以上の方々が命を落とされました。遺体は適性部と、その隣の法泉寺で荼毘(だび)に付されましたが、その数の多さから弔い終わるまで数日間を要したそうです。

牛久沼近くで谷田川越水 つくば市森の里北

台風2号と前線の活発化に伴う2日からの降雨で、つくば市を流れる谷田川は3日昼前、左岸の同市森の里の北側で越水し、隣接の住宅団地、森の里団地内の道路2カ所が冠水した。住宅への床上浸水の被害はないが、床下浸水については調査中という。 つくば市消防本部南消防署によると、3日午前11時42分に消防に通報があり、南消防署と茎崎分署の消防署員約25人と消防団員約35人の計約60人が、堤防脇の浸水した水田の道路脇に約100メートルにわたって土のうを積み、水をせき止めた。一方、越水した水が、隣接の森の里団地に流れ込み、道路2カ所が冠水して通行できなくなった。同日午後5時時点で消防署員による排水作業が続いている。 越水した谷田川の水が流れ込み、冠水した道路から水を排水する消防署員=3日午後4時45分ごろ、つくば市森の里 市は3日午後0時30分、茎崎中とふれあいプラザの2カ所に避難所を開設。計22人が一時避難したが、午後4時以降は全員が帰宅したという。 2日から3日午前10時までに、牛久沼に流入する谷田川の茎崎橋付近で累計251ミリの雨量があり、午前11時に水位が2.50メートルに上昇、午後2時に2.54メートルまで上昇し、その後、水位の上昇は止まっている。 南消防署と茎崎分署は3日午後5時以降も、水位に対する警戒と冠水した道路の排水作業を続けている。

論文もパネルで「CONNECT展」 筑波大芸術系学生らの受賞作集める

筑波大学(つくば市天王台)で芸術を学んだ学生らの作品を展示する「CONNECT(コネクト)展Ⅶ(セブン)」が3日、つくば市二の宮のスタジオ’Sで始まった。2022年度の卒業・修了研究の中から特に優れた作品と論文を展示するもので、今年で7回目の開催。18日まで、筑波大賞と茗渓会賞を受賞した6人の6作品と2人の論文のほか、19人の研究をタペストリー展示で紹介する。 展示の6作品は、芸術賞を受賞した寺田開さんの版画「Viewpoints(ビューポインツ)」、粘辰遠さんの工芸「イージーチェア」、茗渓会賞授賞の夏陸嘉さんの漫画「日曜日食日」など。いずれも筑波大のアートコレクションに新しく収蔵される。芸術賞を受賞した今泉優子さんの修了研究「樹木葬墓地の多角的評価に基づく埋葬空間の可能性に関する研究」は製本された論文とパネル、茗渓会賞を受賞した永井春雅くららさんの卒業研究「生命の種」はパネルのみで展示されている。 スタジオ’S担当コーディネーターの浅野恵さんは「今年は論文のパネル展示が2作品あり見ごたえ、読みごたえがある。版画作品2作品の受賞、漫画の受賞も珍しい。楽しんでいただけるのでは」と来場を呼び掛ける。 筑波大学芸術賞は芸術専門学群の卒業研究と大学院博士前期課程芸術専攻と芸術学学位プログラムの修了研究の中から、特に優れた作品と論文に授与される。また同窓会「茗渓会」が茗渓会賞を授与している。 展覧会は関彰商事と筑波大学芸術系が主催。両者は2016年から連携し「CONNECT- 関(かかわる)・ 繋(つながる)・ 波(はきゅうする)」というコンセプトを掲げ、芸術活動を支援する協働プロジェクトを企画運営している。 (田中めぐみ)