土曜日, 7月 2, 2022

川端舞

憎くて愛おしい言語障害 《電動車いすから見た景色》26

【コラム・川端舞】「もし自分の障害を、両手の麻痺(まひ)、両足の麻痺、言語障害に分けられて、この中の1つだけ神様が治してくれるなら、絶対、言語障害を選ぼう」。中学から大学にかけて、コミュニケーションの壁にぶつかるたびに私はそう思っていた。 足の麻痺はバリアフリーの場所で車いすに乗れば何の問題もなくなるし、手で文字が書けなくても、パソコンを使えば、人より時間はかかるけど文章を書くことができる。でも、言語障害はどんなに事前に伝えたいことを文章にしても、その場で思いついたことをすぐに周囲に伝えられない。 「言語障害さえなければ、もっとたくさんの人と関わることができるのに」と、大学のころまでずっと自分の言語障害を憎んでいた。 しかし大人になり、介助者と外出するようになると、自分の言ったことが相手に伝わらなくても、そばにいる介助者に通訳してもらえるため、事前に伝えたいことを書いていかなくても、気軽に外出先で話せるようになった。 当たり前だが、文字で伝えるより、声で伝えた方が早く伝わるし、そのとき思ったことを臨機応変に伝えられる。何より直接相手と話した方が、コミュニケーションは楽しい。 言語障害だからこそ伝えられること

誰も自分と同じ経験をしないために 《電動車いすから見た景色》25

【コラム・川端舞】今年は怒涛の1年だった。4月に本サイトで重度障害のあるライターとして取り上げられたのをきっかけに、他メディアからも取材を受けた。しかし私にとって一番大きかったのは、中学時代の出来事を複数のメディアに語ったことだ。 小中学校時代、介助員から支援を受けながら普通学校に通った私は、一時期、介助員との関係がうまくいかないことがあった。その時のことを公に話すと、当時の介助員を批判してしまうことになるため、ずっと話さないでいようと思っていた。 しかし、自分の経験を公表することで、現在、普通学校で介助員から支援を受けている障害児が自分と同じような経験をすることを防げるかもしれない。ずっと心の片隅でそう思っていた私は、今年、複数のメディアから中学時代の介助員との出来事を話す機会をいただき、自分の経験が普通学校で学ぶ障害児の役に立てばと願いながら、メディアで当時のことを話す決意をした。 私は中学時代の介助員を責めるつもりは全くない。当時、私が介助員との関係で悩んでいたといことは、介助員も同様に私との関係で悩んでいたということだろう。 関係がこじれた時、私と介助員双方の話を聞いてくれ、すれ違いを一緒に解決しようとしてくれる大人が近くにいれば、問題が複雑にならないうちに、関係を修復できたかもしれない。障害児の支援を介助員1人だけに任せ、他の教職員は支援に関与しないという状態では、何か問題が起きた時に過度に障害児や介助員を苦しめることになりかねない。 他の障害児者と出会う機会

私の隣にいるのは介助者です 《電動車いすから見た景色》24

【コラム・川端舞】先日、インフルエンザの予防接種を受けに病院に行った時、同行していた介助者を見て、受付の人が「ご家族の方ですか?」と聞いてきた。いつものことだったため、特に気にせず、「いいえ。介助者です」と答えたが。 介助者(ヘルパー)と一緒に外出する障害者なら、似たような経験をしている人も多いだろう。介助者と一緒に来ているのに、なぜか家族だと思われてしまう。同行している介助者が私と同年代なのに、「お母さんですか」と言われてしまい、あとで介助者が「私、そんな年齢に見えるのかな」とつぶやいた時は、おかしいような、気まずいような気持ちになる。 なぜ、障害者の外出に同行している人は家族だと思われてしまうのだろう。確かに、介助者と一緒に外出する障害者よりも、家族と外出する障害者の方が多いのは事実かもしれない。しかし、障害者の介助は家族がするのが当たり前だという考え方を多くの人が持っていて、本当は介助者と外出している障害者を見かけても、「きっとそばにいるのは家族なんだろう」と思われてしまうこともあるように感じる。 「介助者と外出するのが当たり前」の社会 障害のない人であれば、たいてい大人になったら、実家を離れて、1人暮らしをしたり、パートナーと一緒に暮らすだろう。親も子育てから卒業し、仕事や趣味に時間を使う。しかし障害者となると、大人になっても親が介助するのが当たり前だと思われてしまう。本来なら、障害者の親になっても、子育てが終わったら、子離れして、親自身の人生を楽しむ権利があるはずなのに。 もちろん、障害者の介助をずっと家族に任せてしまう背景には、介助者という職業の人手不足という問題もあるだろう。しかし、障害のある家族と外出するたびに「ご家族の方ですか?」と言われてしまうと、「やっぱり障害者は家族が介助しないといけないんだ」と思ってしまい、介助を家族以外の人に交代してもらうという選択肢を思いつかなくなってしまうこともあるかもしれない。

自立生活とは自分らしい生活 《電動車いすから見た景色》23

【コラム・川端舞】普段、障害者運動に関わっていると、「自立生活」という言葉をよく使う。最近、改めて「自立生活」とは何かを考え直す機会があった。 障害者運動における「自立生活」とは、必ずしも食事やトイレなどを自分1人ですることではなく、自分の生活を誰にどのように手伝ってもらうか、どこで誰と住むかを自分で決めながら、自分らしく生活することだ。自分1人で決めるのが難しい場合は、周囲の人と一緒に考えながら決めることもあるだろう。大切なのは、どんな生活がその人らしいのかということだ。 一方、「自立生活」は、障害者が介助者など必要な公的支援を受けながら、一人暮らしをするという意味で使われることがほとんどだ。家族と生活していると、どうしても家族の生活に合わせる必要が出てきて、障害者自身が心地よいリズムで生活するのが難しくなることが多いからだろう。私も「自立生活=1暮らし」と今まで思っていた。しかし、最近、家族と生活していても自立生活はできるのではないかという意見を聞いた。 家族と暮らしても自立生活はできるのか 私は大学進学を機に1人暮らしを始めるまで、家族と一緒に暮らしていた。当時は介助者を使っておらず、家の中ではほとんど母親から介助を受けていたため、入浴するのも外出するのも母親の生活リズムに合わせる必要があった。冷蔵庫から飲み物を出すのも家族にやってもらう必要があるため、喉が渇いたら、家族の誰かが台所にいるタイミングを見計らって、「お茶を取って」と言う必要があった。 家族はリビングで座っているときでも、私が頼むとお茶を持ってきてくれるのだが、家族には1人1人自分の生活があるため、私が何か家族に頼むことで、家族自身の生活を中断させるのが申し訳なかった。実家にいる間、私は常に家族の顔色を見ながら生活していたのだ。

障害者の権利のために闘ったリーダー 《電動車いすから見た景色》22

【コラム・川端舞】今月、障害者団体「つくば自立生活センターほにゃら」がつくば市の中学校等に寄贈した「わたしが人間であるために—障害者の公民権運動を闘った『私たち』の物語」(現代書館)。アメリカの障害者リーダーであるジュディス・ヒューマンの自伝本だ。 アメリカは、障害児が最大限に可能な範囲で、障害のない子どもとともに教育を受けることを原則としている。しかし、ともに学ぶことを法律で規定するまでには、障害者たちの長い闘いがあった。 幼少期から車椅子で生活していたジュディスは、障害児だけが通う学校で学び、自分はアメリカの一般の教育制度から排除された存在であることを自覚していく。同じ学校に通う障害のある仲間たちと、なぜ自分たちは障害のない子どもたちと異なる扱いを受けているのか話し合うこともあった。 大学入学後は、階段がある校舎に入れないなど、障害のために不利益を被ることがあっても、同じ経験をする障害学生同士で話し合ことで、障害という問題の原因は自分たちにあるのではなく、自分たちを受け入れない社会にあるのだと考えるようになった。 障害者が他の人と同じように学校や社会に参加できないのは、社会の在り方に問題があるという考え方を「障害の社会モデル」という。私は障害者運動に関わる中でこの考え方を学んだが、その後も無意識に障害のある自分が悪いと思ってしまう癖が残っている。社会モデルの考え方を自分の経験から導き出したジュディスたちの聡明さを見習いたい。 悩みながら戦い続ける

障害者の私だからできること 《電動車いすから見た景色》21

【コラム・川端舞】私は時間管理が下手である。自分の体力を過信し、いろんな予定を入れてしまう。よくよく考えれば、私は話すのにもパソコンを打つのにも他の人より倍の時間がかかるのだから、他の人と同じ感覚で予定を入れたら、パンクするのは当たり前なのだが…。でも、やりたいことはどんどん出てきてしまう。 最近、そんな時は自分がやろうとしていることが「障害者でもできること」なのか「障害者だからできること」なのかを考えるようにしている。「障害者でもできること」のほとんどは、他の人でもできること。障害のない人に任せた方が、短時間で効率的にできることがほとんどだ。もちろん、あえて障害者が時間をかけてやることで、独特の味わいが出てくることも多々あるが。 しかし、障害があってもなくても、1日は24時間。時間は平等に過ぎていく。せっかく時間をかけて何かをするなら、「障害者だからできること」を追求したい。 例えば、このコラムを通して、障害者の私が考えていることを多くの人に発信すること。もちろん、私は障害者の代表ではないし、大した考えを持っているわけでもないが、私の日常を描き続けることで、「障害者も悩みながら生きている、普通の人間なのだ」と多くの人に思ってもらえれば、それは「障害者だからできること」になるのではないか。 何より、電動車いすに乗っている私が街中に出かけ、多くの人の目に入ることで、障害者が街中にいることが当たり前になる。それは障害者を含め、誰もが生きやすい社会につながる。 そんな堅苦しいことをいつも考えているわけではないが、「障害者だからできること」は思ったよりたくさんある。「障害者でもできること」を追及するあまり、「障害者だからできること」をおざなりにするのはもったいない気がする。

学校に通えない子どもがいる日本 《電動車いすから見た景色》20

【コラム・川端舞】人工呼吸器など医療的ケアの必要な子どもとその家族に対する支援法が先の国会で成立した(6月11日)。これにより、小中学校や特別支援学校の設置者は、在籍する医療的ケア児に対し、適切な支援を行う責務を有することになった。 このような流れの中、各メディアで医療的ケア児の現状が取り上げられるようになった。普段、(障害のある者と障害のない者が共に学ぶ)インクルーシブ教育について考えることも多い私だが、恥ずかしながら、今回、一連の報道を見る中で、特別支援学校にも通えない医療的ケア児が少なくない現状を初めて知った。 学校に通えない障害児に対しては、特別支援学校の教員が障害児の家庭などに訪問し、週3回、1回2時間を標準とした訪問教育が行われる。大学時代に特別支援教育について学んだ私は、日本の教育の中に訪問教育が存在することはわかっていたが、なぜ学校に通えず、週3回しか授業を受けられない障害児がいるのか、深く考えもしなかった。 お𠮟りを受けるだろうが、大学時代の私は「特別支援学校にも通えないほど、障害の重い子どももいるのだな」くらいの浅はかな考えしか浮かばなかった。 しかし今回の報道で、特別支援学校の通学バスに看護師が同乗しないために、バスに乗れず、保護者が送迎しないと特別支援学校に通えない場合もあること、単に学校に通う手段がないから、家で訪問教育を受けている障害児がいることを知った。 身近に当事者がいるかどうか

日本の学校では当たり前の一斉授業 《電動車いすから見た景色》19

【コラム・川端舞】前回のコラムで、障害児が普通学校に通うのは権利だと書いたが、今の日本の普通学校が何も変わらないまま、全ての障害児が通えるとは全く思っていない。 私は子どものころ、学校の授業についていけなくなったら、学校に通えなくなると思っていた。それは私に障害があったからでもあるが、障害のない子どもでも同じようなことを感じるときはないだろうか。学校に通えなくなるまでは思わなくても、授業についていけなくて面白くないと感じたことがある人は多いだろう。 学校の授業をつまらないと多くの人が感じる理由は、日本の学校が一斉授業を基本にしていることが大きいだろう。1クラス30人以上の生徒がいて、ひとりひとり、得意科目も苦手科目も違う中で、全員が同じ教材を同じスピードで理解しようとする。 障害の有無に関わらず、その科目が苦手な子どもは、授業の内容が分からず、面白くないかもしれないし、反対にその科目がとても得意で、どんどん先に進みたい子どもにとっては、授業の内容が簡単すぎて、退屈かもしれない。一斉授業の場合、平均的な学力の子どもにしか面白くない授業になってしまう可能性がある。 子どものひとりひとりに合った教材 障害のある子どものほとんどが普通学校に通うカナダでは、授業でプリント学習をする際、教員が4種類ほど内容の異なるプリントを用意し、子どもたちが自分のやりたいプリントを選んで学習するのだと、ある新聞記事に書いてあった。多民族国家であるカナダでは、英語が苦手な子どもがいることに配慮し、英文の難易度が異なる教科書を3種類準備。表紙は同じで、どの教科書を使っても同じ内容を学べるという。

人権は「やさしさ」なのか 《電動車いすから見た景色》18

【コラム・川端舞】子どものころ、自分が普通学校に通い続けるためには、常に良い成績をとり、教員のご機嫌をとる必要があると思っていた。そんなことをしなくても、自分にも普通学校に通う権利がもともとあるとは考えもしなかった。 日本の学校教育では、「人権」と「思いやり」「やさしさ」は同じものとして教えられることが多い。私の小学校時代も、毎年12月の人権週間では「友だちにやさしくしよう」のようなスローガンが掲げられていた。もちろん人間にとって「思いやり」「やさしさ」が大切なのは言うまでもない。 しかし、例えば「障害者にやさしくする」と言った場合、「やさしくしよう」と決めるのは障害者の周りにいる人である。周りの人の気持ち次第で、「昨日は時間に余裕があってやさしくできたけど、今日は忙しいから難しい」と言ってしまうこともできる。 障害児が普通学校に通うのは権利 障害のない子どもは、原則、少なくとも中学校までは家の近くの学校に行ける。少子化による学校の統廃合はあるが、子どもの数が多いという理由で、特定の子どもを他の学校に転校させることはせず、教員や教室の数を調整するだろう。それは学校側が「やさしい」からではなく、子どもには、家の近くの学校に通う権利があるからだ。 しかし、障害児の場合、支援の手が足りないなどの理由で、家の近くの普通学校ではなく、市町村に数ヵ所しかない特別支援学校に通うことを簡単に提案されてしまう。障害児が普通学校に通うのは、障害のない子どもと同等の権利のはずなのに、「障害があるけど、普通学校に通わせてあげる」という「やさしさ」にされてしまい、学校側に「やさしくする」余裕がなければ、当然のように特別支援学校への転校を提案されてしまう。

私の嫌いな言葉「頑張る」《電動車いすから見た景色》17

【コラム・川端舞】「頑張る」という言葉が好きではない。幼い頃から周囲に「頑張り屋さんだね」と言われるたびに、「自分は頑張らないと見捨てられるのだ」と無意識に思ってしまい、苦しかった。 もちろん、自分がやりたいことのために頑張ることは否定しない。それで夢をかなえることができたら素敵なことだ。しかし、私が純粋に自分の好きなことのために努力し始めたのは大学に入学してからだ。 「自分は障害があるから、勉強は誰よりもできないと、見捨てられる」。少なくとも中学時代までは、何も疑うことなく、本気でそう思っていた。だから頑張った。でも、どんなにいい点数を取っても、「これでまだ学校に通える」と一瞬安心できるだけで、また次のテストのために頑張ることしか頭になかった。自信が付いたり、自分をほめてあげることはできなかった。 どんなにいい点数を取っても、自分の障害はなくならないのだから、当然だ。当時の私は、自分の障害を学力で補おうとしたが、そもそも障害は勉強や個人の努力で補うものではない。校舎をバリアフリーにしたり、できない部分は周りが手伝ったりすることで解決できるものだ。環境を変えることで解決するべき問題を、私の努力だけに押し付ける言葉として「頑張り屋さん」が使われた。 もちろん、当時、そのような意図を持って、この言葉を私に投げかけた人は少なかっただろうが、幼かった私は「頑張り屋さん」という言葉にプレッシャーを感じてしまったのだろう。今でも「頑張る」という言葉にアレルギーがあるようだ。 休み方がわからない

本当は楽しかった高校時代 《電動車いすから見た景色》16

【コラム・川端舞】私は小学校から高校まで、普通学校に通い、体に障害があるのは自分一人だけという環境で育った。高校の卒業式の夜、「友達がほしかった。養護学校に行きたかった」と、母の前で大泣きした。でも、それは勘違いだったと、11年の歳月が経った今思う。 高校時代、本当は私には友達がいたし、楽しい思い出もたくさんあった。卒業時にそれを思い出せなかったのは、嫌なことだらけだった中学時代の記憶が強すぎて、人間不信になっていたせいだろう。高校3年生の1年間は受験勉強で必死になり過ぎていたのかもしれない。でも、高校3年間は大変なこともあったけれど、楽しかったことも同じくらいあった。 中学時代まで、私が学校にいるときは常に介助員がそばに付いていて、必要なサポートは全て介助員にやってもらうように言われていた。教科書を開いてもらうなど、簡単なことでも近くの友達に頼むと、「介助員にやってもらいなさい」と言われた。 高校に入学すると、介助員は付かなかった。その代わり、「困ったことは友達に手伝ってもらいなさい」と、それまでとは正反対のことを言われた。最初は同級生にどう頼んだらいいか分からなかった。特に教室から体育館に行く廊下に段差があり、数人に車いすを持ち上げてもらわないと体育館に入れなかった。入学したばかりの頃は、誰にも声を掛けられず、置いていかれてしまうこともあった。しかし、だんだんスムーズに声を掛けられるようになり、同級生からも「一緒に行こう」と声を掛けてもらえるようになった。 私も参加できるルール 体育の授業でバドミントンやバレーボールをするとき、私も一緒にできるような特別ルールを教員が考えてくれ、私も他の生徒と対戦する機会をつくってくれた。それを参考に、どうやったら私も学校行事である球技大会に参加できるか、クラスメートと話し合い、休み時間に体育館で練習をした。

《電動車いすから見た景色》15 私の中にある無意識の差別

【コラム・川端舞】「自分はどんな人も差別しない」。そう断言できる人はどのくらいいるだろうか。私にはそんな自信はないし、「もしかしたら無意識に誰かを差別しているかもしれない」と自分を省みることができる人間でいたいと思う。 障害者差別をなくすために、障害者と健常者の関係はどうあればいいのか。健常者の立場から差別について考える研修会が、2月上旬、障害者支援団体「つくば自立生活センターほにゃら」の内部職員向けに開催された(2月16日付)。 研修会では、部落差別を中心とした差別問題を研究する、筑波大名誉教授の千本秀樹さん(71)により、部落差別の基本命題が紹介された。これは、かつて、部落差別をなくすことを目指す運動団体「部落解放同盟」が提唱したものだ。 基本命題の1つは、「社会意識としての差別観念」だ。意識的に差別している自覚のない人であっても、部落差別が蔓延(はびこ)っている社会の中で暮らしていると、無意識のうちに「自分は被差別部落出身でなくてよかった」という差別的考えを持たされてしまう。そして、この考え方がさらに被差別部落と一般大衆の距離を広げる。 車椅子利用者を排除するアパート 身近な例で考えてみる。以前、私が別のアパートに引っ越そうと思い、物件探しをしたとき、ほとんどのアパートは外観を見ただけで候補から外れた。不思議なくらい、どのアパートの玄関にも段差がある。アパートを建てた人は、障害者差別をしているつもりは全くないのだろうが、結果として入居者から車いすユーザーを排除してしまっている。

Most Read

「キーパーソン」 《続・気軽にSOS》112

【コラム・浅井和幸】「キーパーソン」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。病院への入院や介護施設に入所するときの手続きや連絡先などの協力をする人を指すことがあります。家族などが担うことが多いですが、身寄りがない方の場合は弁護士や施設の職員などが担うこともあるようです。 それ以外に、地域福祉でも支援時に課題解決のカギを握っている人という意味で使われることがあります。例えば、コミュニケーションの取れないひきこもりの方への支援としてのキーパーソンとして、接する機会が多い家族や友人、すでに支援をしているワーカーなどが挙げられるでしょう。 「悪いのは自分ではない、社会の方だ」という信念から、支援者とは会いたくない、何をされるのか分からずに怖いと感じている方は多いものです。支援を受けるなんて迷惑をおかけして申し訳ないと考えて、かたくなに支援を拒む方もいます。 良い悪いではなく人は支え合い、その多様性の中で生きていくものです。生活上で何か支障があれば、頼れるところを頼ることは大切なことです。 しかし、頼ることに慣れていない人が、そうそう簡単に支援者を利用することを選択できないことは当たり前のことです。心身にある程度の余裕がなければ、新しいことを始めることがさらなるストレスになり、避けたくなるのは不思議なことではありません。 そのようなときに、新しいことを取り入れることができる、周りの少しでも余裕のある方に関わってもらうことは、事態を変化させることにポジティブな影響を与えます。いろいろな関わり方のできる人が周りにいることは、複数の選択肢を得ることになります。

あまり話さない息子と、あまり話さない私《ことばのおはなし》47

【コラム・山口絹記】あなたは、生まれてはじめて自分が発したことばを覚えているだろうか。 まぁ、覚えていないだろう。でも、親であれば自分のこどもが初めて発した意味のある(と思われる)ことばは覚えているのではないだろうか。我が家の上の娘も、最初は「まんまんま」とか「わんわん」とか、おそらく統計的にもよくあることばから話し始めていた。 しかし、下の1歳になる息子があまり話さない。 今年から保育園に通い始めたのだが、ついに保育園の先生に「あまり話さない」ということで心配されてしまっていた。普通はそろそろ「ママ」とか「わんわん」とかいうんですけど、ということらしい。かわいそうに、2人目のこどもということで、だいぶ適当に育てられている彼。母子手帳に書かれているような発育具合のチェックも適当になっていて気が付かなかった。 とはいえ、特に心配していなかったのには一応理由があった。保育園の先生にはなんとなく言えなかったのだが、すでにいろいろボキャブラリーがあったのだ。 一つは「でてって?(出ていけの意)」。何か気に食わないことが起きたり、私の帰宅時に飛び出すひとこと。これは姉のマネである。

日本はプーチンのロシアになるのか 《ひょうたんの眼》50

【コラム・高橋恵一】プーチンのロシアの理不尽なウクライナ侵攻を見て、日本の危機と防衛力の強化が叫ばれている。よくメディアに登場する「専門家」は、防衛省関係者・自衛隊幹部OB、あるいは旧大日本帝国の残影が残る関係者が大半だ。 「専門家」の解決策は、ロシアを押し返して、妥協できるところで停戦するシナリオだろうが、それまでにどれだけのウクライナ人が死ななければならないのだろう。ロシアの兵士は何万人死ぬのだろうか。世界の穀倉地帯の混乱で飢餓に陥る人々は16億人を超すとも予測されている。 プーチン大統領は、核兵器使用もいとわないという、無茶ぶりだ。NATO欧州加盟国は、防衛費をGDPの2%に増額するという。長期戦略として効果的かどうかも疑わしいが、少なくとも今のウクライナには間に合わない。 現在の日本の防衛予算は世界第8位。取りざたされているGDPの2%になれば、米国、中国に次いで、世界3番目の軍事費大国になる。 プーチンの侵略行為が、先の大戦のナチスドイツや大日本帝国軍の行動によく似ていることを考えれば、日本の防衛力強化は軍国日本の復活ともとられ、世界や日本国民が受け入れるとは思えない。世界は、そう見るのだ。 当然、中国もロシアも北朝鮮も、対抗して防衛力を強化する。それどころか、日本を警戒する意味で、韓国、台湾、フィリピンなどとの緊張も高めてしまうかもしれない。米国も、軍事産業部門以外からは、歓迎されないのではないか。

安売りカメラ店 《写真だいすき》9

【コラム・オダギ秀】また昔の話で、ゴメン。でも、店への愛を込めて書きたいのだ。とても若いころ、写真家仲間が頼りにしていた安売りカメラ店のことだ。 新宿の裏通りのその店は、間口が2、3間ほどだったろうか、住宅のような、お店とは思えないようなところだった。ガラスの引き戸を開けて入るとカウンターがあり、商品は並んでいない、カメラや写真の材料を売る店だった。近所にかつて浄水場があったので、その名前が付けてあった。 カウンターで「トライ、長巻き、2缶」のように言うと、無口な細っこいアンチャンが奥の棚から品物を持って来てくれた。貧しいカメラマンたちには、ありがたい安売り店だった。品物は並んでいないから、何というどんな商品か、価格はいくらならいいのか、わかる者だけが出入りする店だった。プロ機材ならまず手に入ったし、価格に不満なこともなかった。安かったのだ。 1年ぐらいしてからか、天井に穴を開け、2階の倉庫から品物をひもで吊り下げるようになって、品ぞろえとスピードが少し増し、店員も2人から5人くらいに増えたと思う。 昔、写真は、フィルムという感光シートか、それを細く巻いたロールで撮影していた。フィルムはパトローネという小さな金属ケースに巻き込まれていて、パトローネには36枚撮影分のフィルム入り、というのが普通だった。 プロやそのタマゴたちはパトローネ入りではなく、ずっと長くてコスパのいい100フィート入りの缶を買い、適当な長さにフィルムを切って、使用済みのパトローネに詰め、フィルム代を安くあげるようにしていた。