日曜日, 11月 27, 2022

川端舞

私が普通学校で過ごしてきた証し 《電動車いすから見た景色》31

【コラム・川端舞】今年3月、私の故郷、群馬県で活動する某団体のオンラインイベントに参加した。その団体の活動自体にも興味があったが、高校時代の友人がそこで活動していることをSNSで知り、頑張っている姿を見て、刺激をもらいたかった。 もともと、その団体の活動についてあまり詳しく知らなかったし、他の参加者は群馬県内から参加しているようだったので、おとなしくイベントを聞いているつもりだった。イベント後半、参加者同士の交流が始まり、参加者1人1人が自己紹介をしていく。しかし、その時、私のそばには介助者がいなく、障害のある参加者は私だけのようだったので、「私が話しても、誰も聞き取れないよな」と思い、オンラインイベントから退出しようとした。 その瞬間、「かわばっちも何か話してよ」と友人の声がした。学生時代のあだ名で久しぶりに呼ばれ、ドキッとする。「だって、今、介助者がいないから」と答えると、友人は「わかった」と一言。「これで話さなくて済むかな」と思ったのもつかの間、なんと友人が他の参加者に「川端さんは私の高校の同級生で、脳性麻痺という障害があります。言語障害もありますが、何回か繰り返し聞けば、聞き取れるので…」と私の紹介を始めてしまった。 私を紹介し終えると、「…ということで、かわばっちも何か話してよ」と再び私に話しかけてくる。「これは逃げられないな」と思い、ドキドキしながら、私は自分の声で話し始めた。友人は私の話に相づちを打ちながら、時々、他の参加者に私の話を通訳する。高校卒業後、10年以上会っていなかったことがうそのように、友人は私の話を聞き取った。 「普通学校にいてよかったんだよ」 専門知識はないのに、私の障害のことを他の人にスラスラ説明できること。言語障害を気にして話さない私に、余計な気を遣わずに「話してよ」と言ってしまえること。おそらく高校3年間を同じ教室で過ごしたからこそ、できることなのだろう。

例外だった私の子ども時代 《電動車いすから見た景色》30

【コラム・川端舞】学校教育法では特別支援学校の対象となる障害の程度が定められていて、それより重度の障害を持つ子どもは就学時に教育委員会から特別支援学校への入学を提案される。2007年から、障害児の就学先を決定する際は保護者の意見を聞かなければならないとされたが、それでも特別支援学校の就学基準に該当する障害児はそのまま特別支援学校に入学するのがほとんどだろう。 私も小学校入学時、特別支援学校への入学を提案されたが、両親の強い意向により、私は重度の障害を持ちながら、通常の小学校に入学した。 障害があるのに通常学級に通っている自分が例外的な存在であることは、小学校時代から薄々気づいていた。身体障害のある子どもは自分しか学校にいなかったし、数人いた知的障害のある同級生は、ほとんどの授業を別の教室で受けていた。 時々、道徳の授業で教材に出てくる障害者は、教室で学んでいる同級生とは異なる世界で生きている「特別な存在」だと言われている気がして、実は「障害者」に分類される人間が同じ教室にいることがばれないように、私は息を殺して授業を聞いていた。 「障害を持って通常学級に通う…」 大学で特別支援教育を学び、改めて法律上は、私は特別支援学校の就学基準に該当することを知った。特別支援学校での障害児支援に関する研究はたくさんあるのに、子ども時代の自分のように通常学校に通う重度障害児への支援に関する研究はほとんど見つからず、「そんな障害児はいない」と言われているようで、無性に悔しかった。当時の私の調べ方が足りなかったのかもしれないが、通常学校に通う障害児もいる。

遠くなった東京 《電動車いすから見た景色》29

【コラム・川端舞】今月末、どうしても東京に用事があり、どうやって行こうかしばらく悩んだ。感染予防を徹底して電車で行くべきか、お金はかかってもタクシーで行くべきか。結局、「東京まで運転できる」と言ってくれる介助者がいたので、福祉車両を借りて、介助者の運転で行くことにした。 思い返せば、コロナ前は講演会など様々な活動のために、月に1回は介助者と一緒に電車で東京に出かけていた。冬はインフルエンザの予防のため、こまめに消毒はしていたが、普通に駅のトイレを使い、何も考えずに、混雑したレストランで食事をしていた。今は外出時にどこのトイレに寄れば、比較的安全か考えてしまう。自分でもやりすぎではと思うくらい、潔癖症になってしまった。 コロナをそれほど恐れる必要はないという意見を聞くことも前より多くなった。私自身も、自分には内科的な基礎疾患はないから、かかっても重症化はしないだろうと思っている。 私がコロナになった場合、一番怖いのは、毎日家に来る介助者や、同じ介助者から介助を受けている他の障害者にうつしてしまうことだ。障害者の中には、基礎疾患を持つ人も多い。私の不用意な行動で、そのような仲間が重症化してしまったらと思うと、遠出をしたくても、無意識に躊躇(ちゅうちょ)してしまう。 障害者が街中に出ていく重要性 一方、本当に今の生活のままでいいのだろうかと思うこともある。昨年秋、感染者数が落ち着いていたころ、本当に久しぶりに都内に行くために電車に乗ったが、駅員がスロープを準備してくれるまでに、以前より手間取っているように感じた。

当たり前に介助を受けられる安心感 《電動車いすから見た景色》28

【コラム・川端舞】私は障害のため、口周りの筋肉をうまく使えず、食事を食べこぼしたり、よだれをたらしたりしてしまう。それが原因で、子どもの頃は周囲から怒られたり、からかわれたりしていた。きちんと唾液や食べ物を飲み込めるようにリハビリをし、親にも「毎回、意識して飲み込みなさい」と言われ続けた。 しかし、勉強や遊びに集中すると、いつの間にか、よだれで服を汚してしまう。親からは「よだれは努力次第で直せる」と言われたが、どんなに気を付けていても、少し気を抜くとよだれは出てしまい、再び親に注意されることの繰り返しだった。中学・高校時代は、よだれで制服を汚してしまったことを親に知られないように、毎日、親が仕事から帰ってくる前に、自分でハンカチを濡らし、制服の汚れを拭いていた。 大人になった今でも、食べこぼしたり、よだれをたらしたりしてしまったとき、どうすればいいのか分からなくなる。服を汚してしまったのを介助者に見られるのが恥ずかしい。 しかし、介助者は嫌な顔一つせず、当たり前のように、食べこぼしを拾ったり、ティッシュでよだれを拭いたりしてくれる。私が無意識に謝ると、「なぜ謝るの?」と逆に聞かれることもある。「介助者は舞さんの介助をするために、舞さんの家に来ているのだから」と。自分が悪いから出てしまうのだと思っていたよだれを、ただの生理現象と捉え、さりげなく片付けてくれる介助者を見ると、「今の自分のままでいい」と言われているようで安心する。 「当たり前」を絶やさないように 障害者に対し、「助けてもらって当たり前に思うな」と言われることがあるが、食事をする、服を着替える、買い物に行くなど、生活するために必要な介助を当たり前に受けられることが、「自分はここにいていいのだ」という安心感につながる。

権利を教えてくれた海老原宏美さん 《電動車いすから見た景色》27

【コラム・川端舞】昨年のクリスマスイブ、海老原宏美さんが天国に旅立った。何冊か本も出版し、NHKに何度も出演している。私にとっては「権利とは何か」を教えてくれ、子ども時代を肯定するきっかけをくれた人だ。 本人の著書によると、海老原さんは1977年に進行性の障害とともに生まれ、小学校から高校まで車いすで普通学校に通い、大学進学後、24時間介助を受けながら1人暮らしを始めた。 私が初めてお会いした2017年には、人工呼吸器をつけながら、自立生活センター東大和の理事長をしていた。初対面のとき、東京で普通学校に通う障害児を支援していると話す海老原さんに、私も障害児支援に関心はあるが、何をすればいいのか分からないと話した。 海老原さんとの出会いをきっかけに、彼女が代表を務める東京インクルーシブ教育プロジェクト(TIP)に関わるようになった。海老原さんはよく、「どんな障害児でも普通学校に通う権利がある」と言っていた。初めて聞いたとき、権利とは何なのか分からなかった。 しかし、海老原さんやTIPの仲間と国連障害者人権条約を読み込み、「権利とは他の人が当たり前にやっていることを、障害者も当たり前すること。障害のない子が当たり前に通う同じ学校に、障害児も当たり前に通うことなんだ」と理解した。 私の役割

憎くて愛おしい言語障害 《電動車いすから見た景色》26

【コラム・川端舞】「もし自分の障害を、両手の麻痺(まひ)、両足の麻痺、言語障害に分けられて、この中の1つだけ神様が治してくれるなら、絶対、言語障害を選ぼう」。中学から大学にかけて、コミュニケーションの壁にぶつかるたびに私はそう思っていた。 足の麻痺はバリアフリーの場所で車いすに乗れば何の問題もなくなるし、手で文字が書けなくても、パソコンを使えば、人より時間はかかるけど文章を書くことができる。でも、言語障害はどんなに事前に伝えたいことを文章にしても、その場で思いついたことをすぐに周囲に伝えられない。 「言語障害さえなければ、もっとたくさんの人と関わることができるのに」と、大学のころまでずっと自分の言語障害を憎んでいた。 しかし大人になり、介助者と外出するようになると、自分の言ったことが相手に伝わらなくても、そばにいる介助者に通訳してもらえるため、事前に伝えたいことを書いていかなくても、気軽に外出先で話せるようになった。 当たり前だが、文字で伝えるより、声で伝えた方が早く伝わるし、そのとき思ったことを臨機応変に伝えられる。何より直接相手と話した方が、コミュニケーションは楽しい。 言語障害だからこそ伝えられること

誰も自分と同じ経験をしないために 《電動車いすから見た景色》25

【コラム・川端舞】今年は怒涛の1年だった。4月に本サイトで重度障害のあるライターとして取り上げられたのをきっかけに、他メディアからも取材を受けた。しかし私にとって一番大きかったのは、中学時代の出来事を複数のメディアに語ったことだ。 小中学校時代、介助員から支援を受けながら普通学校に通った私は、一時期、介助員との関係がうまくいかないことがあった。その時のことを公に話すと、当時の介助員を批判してしまうことになるため、ずっと話さないでいようと思っていた。 しかし、自分の経験を公表することで、現在、普通学校で介助員から支援を受けている障害児が自分と同じような経験をすることを防げるかもしれない。ずっと心の片隅でそう思っていた私は、今年、複数のメディアから中学時代の介助員との出来事を話す機会をいただき、自分の経験が普通学校で学ぶ障害児の役に立てばと願いながら、メディアで当時のことを話す決意をした。 私は中学時代の介助員を責めるつもりは全くない。当時、私が介助員との関係で悩んでいたといことは、介助員も同様に私との関係で悩んでいたということだろう。 関係がこじれた時、私と介助員双方の話を聞いてくれ、すれ違いを一緒に解決しようとしてくれる大人が近くにいれば、問題が複雑にならないうちに、関係を修復できたかもしれない。障害児の支援を介助員1人だけに任せ、他の教職員は支援に関与しないという状態では、何か問題が起きた時に過度に障害児や介助員を苦しめることになりかねない。 他の障害児者と出会う機会

私の隣にいるのは介助者です 《電動車いすから見た景色》24

【コラム・川端舞】先日、インフルエンザの予防接種を受けに病院に行った時、同行していた介助者を見て、受付の人が「ご家族の方ですか?」と聞いてきた。いつものことだったため、特に気にせず、「いいえ。介助者です」と答えたが。 介助者(ヘルパー)と一緒に外出する障害者なら、似たような経験をしている人も多いだろう。介助者と一緒に来ているのに、なぜか家族だと思われてしまう。同行している介助者が私と同年代なのに、「お母さんですか」と言われてしまい、あとで介助者が「私、そんな年齢に見えるのかな」とつぶやいた時は、おかしいような、気まずいような気持ちになる。 なぜ、障害者の外出に同行している人は家族だと思われてしまうのだろう。確かに、介助者と一緒に外出する障害者よりも、家族と外出する障害者の方が多いのは事実かもしれない。しかし、障害者の介助は家族がするのが当たり前だという考え方を多くの人が持っていて、本当は介助者と外出している障害者を見かけても、「きっとそばにいるのは家族なんだろう」と思われてしまうこともあるように感じる。 「介助者と外出するのが当たり前」の社会 障害のない人であれば、たいてい大人になったら、実家を離れて、1人暮らしをしたり、パートナーと一緒に暮らすだろう。親も子育てから卒業し、仕事や趣味に時間を使う。しかし障害者となると、大人になっても親が介助するのが当たり前だと思われてしまう。本来なら、障害者の親になっても、子育てが終わったら、子離れして、親自身の人生を楽しむ権利があるはずなのに。 もちろん、障害者の介助をずっと家族に任せてしまう背景には、介助者という職業の人手不足という問題もあるだろう。しかし、障害のある家族と外出するたびに「ご家族の方ですか?」と言われてしまうと、「やっぱり障害者は家族が介助しないといけないんだ」と思ってしまい、介助を家族以外の人に交代してもらうという選択肢を思いつかなくなってしまうこともあるかもしれない。

自立生活とは自分らしい生活 《電動車いすから見た景色》23

【コラム・川端舞】普段、障害者運動に関わっていると、「自立生活」という言葉をよく使う。最近、改めて「自立生活」とは何かを考え直す機会があった。 障害者運動における「自立生活」とは、必ずしも食事やトイレなどを自分1人ですることではなく、自分の生活を誰にどのように手伝ってもらうか、どこで誰と住むかを自分で決めながら、自分らしく生活することだ。自分1人で決めるのが難しい場合は、周囲の人と一緒に考えながら決めることもあるだろう。大切なのは、どんな生活がその人らしいのかということだ。 一方、「自立生活」は、障害者が介助者など必要な公的支援を受けながら、一人暮らしをするという意味で使われることがほとんどだ。家族と生活していると、どうしても家族の生活に合わせる必要が出てきて、障害者自身が心地よいリズムで生活するのが難しくなることが多いからだろう。私も「自立生活=1暮らし」と今まで思っていた。しかし、最近、家族と生活していても自立生活はできるのではないかという意見を聞いた。 家族と暮らしても自立生活はできるのか 私は大学進学を機に1人暮らしを始めるまで、家族と一緒に暮らしていた。当時は介助者を使っておらず、家の中ではほとんど母親から介助を受けていたため、入浴するのも外出するのも母親の生活リズムに合わせる必要があった。冷蔵庫から飲み物を出すのも家族にやってもらう必要があるため、喉が渇いたら、家族の誰かが台所にいるタイミングを見計らって、「お茶を取って」と言う必要があった。 家族はリビングで座っているときでも、私が頼むとお茶を持ってきてくれるのだが、家族には1人1人自分の生活があるため、私が何か家族に頼むことで、家族自身の生活を中断させるのが申し訳なかった。実家にいる間、私は常に家族の顔色を見ながら生活していたのだ。

障害者の権利のために闘ったリーダー 《電動車いすから見た景色》22

【コラム・川端舞】今月、障害者団体「つくば自立生活センターほにゃら」がつくば市の中学校等に寄贈した「わたしが人間であるために—障害者の公民権運動を闘った『私たち』の物語」(現代書館)。アメリカの障害者リーダーであるジュディス・ヒューマンの自伝本だ。 アメリカは、障害児が最大限に可能な範囲で、障害のない子どもとともに教育を受けることを原則としている。しかし、ともに学ぶことを法律で規定するまでには、障害者たちの長い闘いがあった。 幼少期から車椅子で生活していたジュディスは、障害児だけが通う学校で学び、自分はアメリカの一般の教育制度から排除された存在であることを自覚していく。同じ学校に通う障害のある仲間たちと、なぜ自分たちは障害のない子どもたちと異なる扱いを受けているのか話し合うこともあった。 大学入学後は、階段がある校舎に入れないなど、障害のために不利益を被ることがあっても、同じ経験をする障害学生同士で話し合ことで、障害という問題の原因は自分たちにあるのではなく、自分たちを受け入れない社会にあるのだと考えるようになった。 障害者が他の人と同じように学校や社会に参加できないのは、社会の在り方に問題があるという考え方を「障害の社会モデル」という。私は障害者運動に関わる中でこの考え方を学んだが、その後も無意識に障害のある自分が悪いと思ってしまう癖が残っている。社会モデルの考え方を自分の経験から導き出したジュディスたちの聡明さを見習いたい。 悩みながら戦い続ける

障害者の私だからできること 《電動車いすから見た景色》21

【コラム・川端舞】私は時間管理が下手である。自分の体力を過信し、いろんな予定を入れてしまう。よくよく考えれば、私は話すのにもパソコンを打つのにも他の人より倍の時間がかかるのだから、他の人と同じ感覚で予定を入れたら、パンクするのは当たり前なのだが…。でも、やりたいことはどんどん出てきてしまう。 最近、そんな時は自分がやろうとしていることが「障害者でもできること」なのか「障害者だからできること」なのかを考えるようにしている。「障害者でもできること」のほとんどは、他の人でもできること。障害のない人に任せた方が、短時間で効率的にできることがほとんどだ。もちろん、あえて障害者が時間をかけてやることで、独特の味わいが出てくることも多々あるが。 しかし、障害があってもなくても、1日は24時間。時間は平等に過ぎていく。せっかく時間をかけて何かをするなら、「障害者だからできること」を追求したい。 例えば、このコラムを通して、障害者の私が考えていることを多くの人に発信すること。もちろん、私は障害者の代表ではないし、大した考えを持っているわけでもないが、私の日常を描き続けることで、「障害者も悩みながら生きている、普通の人間なのだ」と多くの人に思ってもらえれば、それは「障害者だからできること」になるのではないか。 何より、電動車いすに乗っている私が街中に出かけ、多くの人の目に入ることで、障害者が街中にいることが当たり前になる。それは障害者を含め、誰もが生きやすい社会につながる。 そんな堅苦しいことをいつも考えているわけではないが、「障害者だからできること」は思ったよりたくさんある。「障害者でもできること」を追及するあまり、「障害者だからできること」をおざなりにするのはもったいない気がする。

学校に通えない子どもがいる日本 《電動車いすから見た景色》20

【コラム・川端舞】人工呼吸器など医療的ケアの必要な子どもとその家族に対する支援法が先の国会で成立した(6月11日)。これにより、小中学校や特別支援学校の設置者は、在籍する医療的ケア児に対し、適切な支援を行う責務を有することになった。 このような流れの中、各メディアで医療的ケア児の現状が取り上げられるようになった。普段、(障害のある者と障害のない者が共に学ぶ)インクルーシブ教育について考えることも多い私だが、恥ずかしながら、今回、一連の報道を見る中で、特別支援学校にも通えない医療的ケア児が少なくない現状を初めて知った。 学校に通えない障害児に対しては、特別支援学校の教員が障害児の家庭などに訪問し、週3回、1回2時間を標準とした訪問教育が行われる。大学時代に特別支援教育について学んだ私は、日本の教育の中に訪問教育が存在することはわかっていたが、なぜ学校に通えず、週3回しか授業を受けられない障害児がいるのか、深く考えもしなかった。 お𠮟りを受けるだろうが、大学時代の私は「特別支援学校にも通えないほど、障害の重い子どももいるのだな」くらいの浅はかな考えしか浮かばなかった。 しかし今回の報道で、特別支援学校の通学バスに看護師が同乗しないために、バスに乗れず、保護者が送迎しないと特別支援学校に通えない場合もあること、単に学校に通う手段がないから、家で訪問教育を受けている障害児がいることを知った。 身近に当事者がいるかどうか

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ふるさと納税の顛末記 ① 《文京町便り》10

【コラム・原田博夫】年末になると、ふるさと納税でソワソワするお宅もあるかも知れない。魅力的な返礼品をめぐる話題である。しかし、これは、制度導入の経緯からすると、妙な話である。今回は、その顛末(てんまつ)を取り上げたい。 そもそも、高校まで地方圏で教育を受けた若者の相当数が、大学入学や会社就職で都会に出て、その後の社会人生活や結婚後もそこで過ごすのは、20世紀後半の日本社会では(都市部と農村地域の間で教育や就業のチャンスに濃淡がある以上)当然だった。 この若者には財政の観点からは、高校卒業までは地元自治体の教育支出が投入されていた。勤務先の企業は、法人税(国税)および法人住民税を(企業の所在地へ)納めている。会社員としては、給与・報酬から所得税(国税)と個人住民税を(居住地の県・市町村へ)納めている。この会社員も企業も、当該年度に関しては立派な納税者である。 しかし、この会社員を高校時代まで成育させた出身地では、この財政収支の流れはやや釈然としない。少なくとも、地方出身者の高校卒業までに投じた財政資金のある部分は、出身の市町村・県に戻してもらいたい。とりわけ、都市部に出た地方出身者が地元に残った同世代よりも高所得者になっている場合には、そうした矛盾を感じる。 故郷へ還元できる制度はないか? 地方交付税制度は、こうした気分を一部解消する制度でもある。主要な国税5税(所得税・法人税・酒税・消費税・地方法人税)の一部(3割強)を地方の固有財源とみなして、全国の地方自治体を対象に、一定の意基準に従って(地方自治体ごとに基準財政需要額と基準財政収入額を算定し、前者が後者を上回っている場合はその差額を財源不足とみて)財源保障のために一般財源として配分する、という制度である(うち、94%は普通交付税、6%は特別交付税)。

ウクライナ避難民支援募金を大使館に寄付 日本つくば国際語学院

学校法人つくば文化学院(東郷治久理事長)が運営する日本語学校「日本つくば国際語学院」(同市松代)が、4月からつくば市内で呼び掛けていたウクライナ避難民支援募金(4月13日付)が9月末までに計24万5000円集まり、10月26日、東京都港区の駐日ウクライナ大使館に寄付した。 募金箱はグループ企業のサンスイグループ(東郷理事長)が運営する市内計8カ所に設置した。当初6月末までの予定だったが延長し、9月末まで寄付を募った。 8カ所は同校のほか、つくばグランドホテル(同市筑波)▽つくばわんわんランド(同市沼田)▽つくば国際ペット専門学校(同市沼田)▽つくば山水亭(同市松代)▽つくば山水亭別亭(同市吾妻、ホテル日航つくば2階)▽KEY’S CAFE(キーズカフェ)ララガーデンつくば店(同市小野崎、10月16日閉店)▽ミスタードーナッツ イーアスつくばショップ(同市研究学園)。特にKEY’S CAFEとつくば国際ペット専門学校に設置した募金箱には多くの寄付が集まったという。 今回の募金活動は「ウクライナ避難民の支援はまず日本語学校から手を挙げてやるべきではないか」という東郷理事長の言葉がきっかけとなった。寄付金を受け取ったウクライナ大使館の担当者からは感謝の言葉が述べられたという。 同校の森山英熙本部長は「みなさんに関心を持って寄付をしていただき、本当に感謝しています。寄付金が避難民の方々のお役に少しでも立てれば」と話し、「これからもウクライナ避難民で日本語を学びたいという人がいたら積極的に受け入れていきたい」と語る。

百年亭再生プロジェクトが進行中 《宍塚の里山》95

【コラム・佐々木哲美】宍塚の自然と歴史の会では、2019年7月に里山に隣接した築100年以上の住宅を購入し、「百年亭」と名付け、修復作業に取り組んでいます。その資金集めに、クラウドファンディング(CF)を使いました。期間は9月5日~10月21日、目標額は300万円としました。 建物の完成には800万円程度が必要ですが、CFに並行して、助成金申込みや様々な手法で、宍塚の里山の重要性を伝えながら資金を集めます。 CFの結果、223名の方から317万5000円の寄付をいただき、目標を達成することができました。どんな方から寄付があったかまとめたところ、会員から27%、非会員から73%と、非会員の寄付が多くを占めました。居住地別では、つくば市32%、土浦市15%など、県内で62%を占めました。 県外では東京都が14%と多く、関東全体では28%を占め、関東以外は9%でした。宍塚から離れると人数は減少しますが、県外からの寄付者が全体の37%にもなり、宍塚の里山保全への支持が全国に広がったことを示しています。 寄付額は1万円が119名(59%)と最も多く、次いで5000円が65名(29%)と続きます。10万円という高額寄付者が4名もいました。今回の成功のカギは、もちろん、寄付していただいた方、知人・友人に働きかけていただいた方、プロジェクトメンバーの努力ですが、ホームページ(HP)の役割も少なくありません。仲介業者READYFORの方々の親身なサポートもありました。 百年亭の創建年と大工名が判明

空気汚染の健康被害を知ってほしい 市民科学者、故 津谷裕子さんの著書を公開

有害化学物質による空気汚染の被害者で、2021年2月に92歳で死去した土浦市の市民科学者、津谷裕子さんが、化学物質による健康被害について知ってほしいと09年に執筆した著書「絵でとく健康への環境対策ープラスチックからの新しいVOC空気汚染」(A5判、98ページ、社会評論社)が、「忘れるな 杉並病・寝屋川病~プラスチックリサイクルで生活を奪われないために」と題したウェブサイト内でこのほど全面公開された。 公開したのは東京都千代田区の市民団体「化学物質による環境汚染を考える会」代表の森上展安さんだ。森上さんは1990年代後半、当時住んでいた東京都杉並区で津谷さんと共に、プラスチックなどの不燃ごみ圧縮・詰め替え施設で健康被害を受けた周辺住民の実態調査や原因究明に取り組んだ。「杉並病」と呼ばれた健康被害だ。 公開された著書は、アレルギーやアトピーなどの患者が増える中、身の回りのさまざまなところから、これまで無かった、ごく微量の揮発性有機化合物(VOC)が発生し、新たな空気汚染が広がっている実態を知ってほしいと執筆された。 東京都杉並区の施設周辺住民の健康被害の調査結果や、プラスチックごみの圧縮や詰め替えで揮発性化学物質がなぜ発生するかをまとめている。その上で「プラスチックは不完全な加熱や機械的処理では、多種類で多様のVOCが発生し、毒性がごく強いものに変質することもある」などと指摘し、今日推進されているプラスチックのリサイクルについても疑問を投げ掛けている。 予防、救済、解明へ