金曜日, 9月 30, 2022
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秋元昭臣

船齢42年のクルーザーヨットを大修復 《夢実行人》7

【コラム・秋元昭臣】昨年春、船齢42年のSK-25 (船長25フィート)のクルーザーヨットを譲り受け、知り合い2人と私の3人で共同所有しています。旧船名「AURORA(オーロラ)」はそのまま引き継ぎました。レストア(修復)は大変でしたが、仲間の協力によって楽しみながらできました。 まずは霞ケ浦に浮かべた状態での作業。昨秋、出入港に使うエンジンを洗浄し、5ノットで機走(エンジンで走ること)できるようにしました(それまでは3ノット)。一部腐っていたチラー(かじの柄)は、新しいものに交換。また、車いすの人でも乗り移りできるようにと、専用の移乗板も造りました。 今年1月には、土浦港に上架(陸上げ)して船台に乗せ、本格的な作業入り。まずはクレーンで吊り上げた状態で高圧洗浄。10年浮かしっぱなしの間に付いた汚れを洗いました。それから、船底塗装、推進プロペラ・舵・キール(横流れ防止と転倒防止の鋳鉄製1トンの重り)、船体木部修復、木製ブルワーク(デッキ周囲の波除け・落水防止枠)更新―など。 スタンション(支柱)の腐った木台座も交換。風雨で傷んでいたウインチ(帆綱用)取付ボードも新調。キャビン(船室)入口屋根の「スライドドア」が割れて雨漏りするため、ドアの割れ目に細い木材を入れ、ウレタンニスで固めました。 3月12日に「レストア進水式」 このほか、キャビン屋根左右の手すりやキャビン周囲の飾りも修復。木部にワックスをかけたところ、見違えるように輝き出しました。デッキは、滑り止め「つや無し」の白が素晴らしい仕上がりに。深いグリーンに金色のラインが入っているハル(船体)は、2度ワックスをかけて磨いたところ、作業者の顔が映るまでに。

手こぎボート、モーターボート、ヨットとの出会い 《夢実行人》6

【コラム・秋元昭臣】小学生のころの話。春になると、土浦市内を流れる桜川には色とりどりのボートが浮かび、土手には舞台もできました。花見は土手に敷物を広げて弁当。ボートをこげない母は、弟に「いつかボートに乗りたいね」と話していました。 中学生のころの話。父や友人たちが入る土浦中学(現土浦一高)ボート部が、桜川畔の貸しボート屋「鈴木ボート」で、ヨット「早風号」を打つ(作る)ことなりました。私はボート屋の兄さんと顔見知りになり、小遣いをためてボートを貸してもらいました。桜川を下り、常磐線の鉄橋をくぐりると霞ケ浦が見え、波も風も大海のようでした。 高校(土浦一高)時代の話。創立間もないヨット部に入部。当時、事業用以外の小型モーターボートは免許がなくても運転できました。弟の高校入学祝いのときに小型を借り、霞ケ浦に出たのがモーターボートの初体験でした。 大学時代の話。ボートを借り、コウモリ傘を帆代わりにして遊びました。東京からの友人が浮き輪を持って来て、「これで大丈夫かな~」には笑いました。当時、ライフジャケットは貴重品。一高ヨット部で使っていたのは、霞ケ浦海軍航空隊予科練生が着用していたお古でした。 「ま~、ボートは木製だから、転覆しても浮いている。でも、オールだけは流さないで!」。これがボート屋のアドバイスでした。そこには下駄箱があり、靴を預けて乗ったものです。乗り逃げされないためだった? 船に乗ること=家に上がること? それが作法だったのかもしれません。

ボートで北浦・利根川をクルーズ 《夢実行人》5

【コラム・秋元昭臣】昨夏、モーターボートで北浦・利根川をクルーズしました。「水郷」潮来(茨城県)を出発。霞ケ浦の隣りの北浦と利根川を巡り、「小江戸」佐原(千葉県)にも寄って、最後は霞ケ浦畔の温泉で夕日を鑑賞。今回はこのクルーズ報告です。 潮来から、「道の駅潮来」を脇に見て鰐川(わにがわ)に出ると、水中ににそそり立つのは「鹿島神宮西の一之鳥居」(地図番号①)。拝礼し、ボートを左に変針し、神宮橋をくぐると、白く光る五連のアーチ「北浦大橋」(同②)が見えます。 左岸にある「潮来マリーナ」では、釣り堀が楽しめます。マリーナから車で10分の「天然水原温泉・簡保の宿潮来」では、入浴もできます。その近くの「ファーマーズビレッジ」では、キャンプやグランピングのほか、水陸両用バスにも乗れます。 北浦を北上すると、アーチ橋「鹿行大橋」(同③)が見えてきます。さらにボートを進め、左岸に係留。ここから、「北浦温泉北浦荘」まで歩いて5分。鹿島灘の「下律海水浴場」までは車で10分。北浦の北端に位置する鉾田市は、イチゴやメロンの産地ですが、北浦の先端部は水深が浅く、近づくと座礁の危険も。 そこでUターン。どんな御利益があるかは分かりませんが、お社(やしろ)のような「釜谷沖観測所」(同④)に手を合わせ、利根川に向かいます。

大好きな霞ケ浦あれこれ②《夢実行人》4

【コラム・秋元昭臣】大昔、霞ケ浦は東京湾の一部でしたが、江戸を水害から守るために、利根川の付け替えなどで海の部分が閉じられ、湖になりました。改修された利根川は、北の方からの年貢米輸送の航路ともなり、霞ケ浦は舟運で栄えました。 1959年から63年にかけて、常陸川河口に水門が造られ、塩害防止と水の資源化が行われました。これによって霞ケ浦は淡水化され、農業用水としては茨城と千葉で、水道用水としては茨城、千葉のほか、東京でも使われています。 この「霞ケ浦の水がめ化」によって、鹿島工業地帯、筑波研究学園都市が生まれました。霞ケ浦の水を飲みながら、「霞ケ浦の水はきたない」と言う人には、きれいになった湖でレジャーを楽しみながら、水質について考えて欲しいものです。 霞ケ浦には多数の河川が流れ込んでいますが、農業・畜産・養殖は湖岸に集中しており、その肥料や排せつ物は川を通って霞ケ浦に流れ込み、湖水の富栄養化の原因になっています。全体の25%を占める家庭排水の処理は進んでいるものの、まだ完全とはいきません。 一周サイクリング路「カスイチ」 霞ケ浦は水位の高い利根川の影響を受けています。さらに海の潮の影響もあり、霞ケ浦の水がいつも利根川に流れることはありません。水位を上げるには水門を閉めればOKですが、流すとなると引き潮や利根川の逆流を考えねばならず、台風の後など水位が下がらず、ラクスマリーナなどでは船が陸に上がってしまうこともあります。

大好きな霞ケ浦のあれこれ① 《夢実行人》3

【コラム・秋元昭臣】霞ケ浦は茨城県南東部に位置し、その先端が利根川に流れ込む、日本第2の面積の淡水湖です。西に土浦・高浜を持つ「西浦」、北に鉾田を持つ「北浦」、それに「常陸利根川」などを併せた総称ですが、一般的には「西浦」を霞ケ浦と呼んでいます。 その管理は、利根川の一部として「国交省関東地方整備局霞ケ浦河川事務所」が行っています。日本1の琵琶湖は国交大臣の委託を受けて滋賀県知事が管理しています。 昔は東京湾の一部で、「流れ海」と言われた時代もあります。海からの塩害防止の「河口堰(かこうぜき)」ができるまでは、汽水湖でした。銚子とは3時間遅れで潮の満ち干の影響があり、シジミや海の魚も獲れました。 そのころは水質もきれいで、湖岸には砂浜や13カ所の「湖水浴場」あり、学校の授業でも使われていました。小魚が泳ぐ姿を見て、子供ながら工夫して釣りを楽しんだものです。大きな黒いタンカイ(淡水域にすむ中型の貝)を足でほじくって遊びましたが、この貝が「貝ボタン」になっていたとは知りませんでした。 湖の干拓:霞ケ浦10%、八郎潟80% 昔、霞ケ浦の広さは2位ではなく3位でした。では、2位はどこだったのでしょう。秋田県の八郎潟です。しかし、1956年から1977年にかけ、その80%が干拓事業によって農地になり、現在は18位です。

子どものころ 土浦の遊び ② 《夢実行人》2

【コラム・秋元昭臣】秋になれば、稲刈りやダダダーというエンジン音に誘われて脱穀作業を見たり、道に伸びた枝から柿を失敬したり。松林では、ハツタケ、アミタケ、たまにはマツタケも見つかり、キノコ取りに夢中になりました。 台風など大風の後には、松林に落ち葉、折れた枝を集めに行くことも子どもの仕事でした。学校に石炭ストーブが導入されると、「ストーブ当番」は火付け用に枝を持って行きました。家庭では、石油コンロが普及するまで、火付け材集めや風呂たきは子どもの仕事でした。 そのほかにも、犬、ニワトリ、ウサギのエサやりがありました。悲しいことに、ニワトリは卵を産まなくなると食卓に上がり、ウサギはウサギ屋に引き取られました。アンゴラウサギは毛を刈って加工してもらい、セーターにしたようです。今と違い、夜は犬を放してしまい、朝方に戻ってきました。 秋には模型飛行機大会があり、「A-1ライトプレーン」を飛ばし、みんなで滞空時間を競い合い、先生の作った大型のグライダーに夢をはせました。 運動会では、登校すると、校門の柱が杉の小枝で囲われ、きれいな緑色になっているのに感激しました。一番の呼び物は、小中高青年団が参加する「部落対抗リレー」で、部落総出の応援に盛り上がりました。なんといっても楽しかったのは、家族で食べる昼の弁当でした。 年の暮れには、父親の実家に親戚が集まり、餅をつき、いとこ同士の交流が楽しかったものです。正月用の桐のげたを履いて走り回り、割ってしまったことは悲しい思い出です。

子どものころ 土浦の遊び ① 《夢実行人》1

【コラム・秋元昭臣】下高津小学校への通学は、「あきおみちゃん、学校へイーきましょ」の声で始まりました。今のように親が出ることもなく、田んぼや畑の中を仲間同士で登下校するのは楽しいものでした。菜の花を摘んだり、チョウチョを追いかけたり。麦の穂を友だちの袖に奥に入れてしまうイタズラはしましたが、イジメではなく遊びでした。 このころ、大人はハーモニカを吹いてましたが、子供は麦笛を吹いていました。花見は親に連れられて桜川に行き、土手に座ってたくさんの貸しボートを眺め、お弁当を食べました。これがボートとの出会いです。 エビガニの穴を掘ったり、農作業する牛を見たり、散った桜の花びらで首飾りを作ったり。毒があると知らず、学校裏のお寺に青梅を盗みに行き見つかり、廊下に立たされたり。しかし、花祭りにはお寺さんに甘茶を振る舞ってもらい、秋はイチョウの大木から落ちた実を土に埋め、冬にたき火で焼いて食べました。 夏になると、田んぼにはホタルが飛び交い、捕まえて蚊帳の中に入れて楽しみました。大人と一緒に夜の田んぼに行き、カーバイトランプを灯した「ドジョウぶち」では、眠っているドジョウを串刺にし、カーバイトの匂いと、くねるドジョウに興奮しました。エビガニ、ドジョウ、釣った魚、食用ガエルが、たんぱく源として食された時代です。 泳ぎと言ってもプールなどなく、ガキ大将に連れられ、ため池「高津池」に行き、親にばれないようにパンツを脱いで水遊びをしました。雑木林の「ターザンごっこ」では、木から木へ渡り歩き、ロープにぶら下がって遊びました。転落やケガもありましたが、今と違い、「落ちたほうがドジ」の一言。問題にはならない時代でした。

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茨城ロボッツを応援しよう!《令和楽学ラボ》20

【コラム・川上美智子】スポーツには疎い方ですが、小学3年生の孫に誘われて「茨城ロボッツ」を応援するようになりました。保育園のころにサッカーでつまずいた孫が、小学生になってから茨城ロボッツのスクールに通うようになり、すっかりバスケットファンになってしまいました。 昨シーズンも、アダストリア水戸で行われたホーム試合は全て応援に行き、さらにYouTubeでそれぞれの試合を何度も何度も観戦して、試合運びを分析するほどの熱の入れようです。休みの日には、敷地内の小さな中庭のバスケットゴールで腕をみがいています。 そのような折、ロボッツから試合後の選手に提供するリカバリー弁当の話が舞い込みました。私がオープニングでプロデュースのお手伝いをした「レストランAOYAMA」(水戸市赤塚)のオーナーシェフ青山雅樹さんから、メニュー作成と監修の依頼がきたのです。そんな形でお役に立てればうれしい話と、早速、前職場の茨城キリスト教大学の教員に声をかけ、ロボッツの西村大介社長と詰めに入りました。 昨シーズンが始まり、ロボッツがなかなか勝てなかった時期の話で、昨年12月に6者協定の話がまとまり、年明けから「茨城ロボッツ・スポーツニュートリション 6者連携プロジェクト」がスタートしました。この取り組みが功を奏したのか、この後は、ロボッツが勝利する試合が多くなりました。 「食」の応援プロジェクトは3本柱 このプロジェクトの内容は、以下のようなものです。

不登校の子どもや保護者と支援者つなげたい 30団体がつくばで初の合同説明会

不登校など学校に悩みを抱える子どもや保護者と、支援者をつなぐイベント「不登校・多様な学び つながる“縁”日」が10月15日、つくば市流星台の桜総合体育館などで開催される。支援団体などでつくる「不登校・多様な学びネットワーク茨城つくばエリア」が主催する。支援団体による合同説明会と講演会などが催され、合同説明会は今回が初の試みとなる。 主催団体の石田佳織さん(43)は「支援につながれていない人が圧倒的に多い。複数の支援団体が協力し、より多くの人に支援を届けたい」と語る。 つくば市や近隣からフリースクールや親の会など約30団体が相談ブースを設置する。不登校の小中学生の居場所「つくし広場」を運営するつくば市教育相談センターもブースを設ける。ほかにフリースクールに通う子どもたちが企画ブースを設け来場者と交流を図る。発達心理学の専門家で恵泉女学園大学学長の大日向雅美さんによる講演会も予定されている。 支援者いると知ってほしい 「誰にも相談できずに苦しむ人は多い」。不登校の子どもの保護者を支援する「竹園学園”教室や学校に行きづらい子ども”の親の会」共同代表の中村規乃さん(47)が、当事者の声を代弁する。同団体は、同ネットワークに参加する団体の一つだ。 中村さん自身、不登校の子を持つ当事者。学校に行けない自身を責める子どもの気持ちを知り「学校に行って欲しいという思いと、学校に行かない子どもを認めたいという思いの間で苦しんだ」と当時を振り返る。

インターナショナルスクールを誘致 県、旧筑波小跡地に

秀峰筑波義務教育学校(つくば市北条)の開校に伴い2018年に廃校となった9小中学校の1つ、旧筑波小学校(同市国松)にインターナショナルスクールの誘致計画が浮上している。跡地利用についての意見交換会が9月に、2回にわたって同市沼田の働く婦人の家で開かれた。 開設を表明しているのは、東京都江戸川区で「グローバル・インディアン・インターナショナル・スクール(GIIS)」名で3つの学校を運営しているグローバル・スクールス・ファウンデーション(GSF、本部・シンガポール)。誘致しているのは、茨城県庁で国際渉外などを手がける営業戦略部。つくば市の経済部産業振興課を通じ学校跡地を貸借できないか打診してきた。 2回目の意見交換会は26日開催された。GSFの日本法人(株式会社組織)であるグローバル・インディアン・エデュケーション(GIE)から3人の関係者が説明に訪れ、県、つくば市の担当者らと、地域住民らの質問に答えた。約25人が参加した。 県によれば、つくば市周辺では半導体メーカーのTSMCジャパン3DIC研究開発センター(同市小野川)など世界的企業の進出が次々と決まり、外国人子弟の教育環境ニーズの高まりがあるとして支援する構えを見せている。「日本人生徒も数多く学ぶ学校で、地域への移住促進にもつながる」と誘致に動いた。 開設の意向を示したGSFに対し、県は市と調整し今春、校舎の耐震基準などを満たす市内3カ所の適地を紹介。夏までに旧筑波小跡地に絞り、今後の交渉を進めることになった。市は「地域に受け入れらなければ進められる問題ではない。今回の開催は説明会ではなく意見交換会。きっちり意見を聞いて、貸与について検討したい」との構えだ。 2018年に廃校となった旧筑波小

今、何をしているのですか? 前土浦市長の中川清さん【キーパーソン】

土浦市長を4期16年務め、現在は企業グループの「総帥」に復帰している中川清さん。市長を退いてから3年。新しい事業を考えているとの話が耳に入り、グループの会社が入る延増第三ビル(土浦市真鍋)を訪ね、いろいろと聞き出した。「経営者市長」は元の経営者に戻り、意欲的に経営戦略を練っている。 グループ主要社の社長と会長に復帰 中川グループ11社の主な会社は中川商事と中川ヒューム管工業。両社とも不動産管理会社・延増興産が所有するビルに本社を置く。年商は、商事が約230億円、ヒューム管が約100億円。今、中川さんは、商事の社長、ヒューム管の会長(社長はおいの喜久治氏=土浦商工会議所会頭)、興産の会長(社長は長男の弘一郎氏)に就いている。 グループの創業者は1922年に中川商店を起こした父の延四郎氏。先の大戦前、1部門として「鉄(筋)とセメントで造る」ヒューム管の事業を立ち上げ、戦後間もなく、中川商店を法人化して中川商事に改めた。今年は中川商店スタートから100周年になる。 農業、太陽光発電、ドローンに挑戦