月曜日, 6月 5, 2023
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トレンド Well-being《令和楽学ラボ》23

【コラム・川上美智子】私が勤務する「みらいのもり保育園」の母体は、関彰商事です。現在、「Well-being(ウエルビーイング)カンパニー」を目指し、社内でも地域でも取組みを進めています。例えば、高齢者のWell-being向上のため、筑波大学と連携して運動指導(機能訓練)とe-スポーツを併用する実証実験を行っています。社内においては、社員のWell-being調査やWell-beingプログラムが始まりました。 また、先日、日立製作所の東原敏昭会長の講演を拝聴する機会がありました。グローバル社会で活躍する企業として、SDGs(持続可能な開発目標)などの社会課題を解決し、人々の幸せや「Quality of life(クオリティー・オブ・ライフ、生活の質)」の向上を目指し、人間中心とWell-beingの2つを掲げ、イノベーションを通じて世界中の人々が望む良いこと、「good(グッド)」の実現に挑戦しているということでした。 いずれの企業も、事業と社会貢献の目標にWell-beingを掲げていて、私にとっては実に懐かしい言葉との出会いでした。今から四半世紀前(1998年)、茨城キリスト教大学が、まだ文学部のみの単科大学であったときの話になります。 高学歴化が進み、女子の進学先が短期大学から4年制大学へとシフトする時代を迎え、学内では短期大学を4年制大学に改組するプロジェクトを立ち上げました。新学部の母体となったのが大学のキリスト教学科と短期大学の生活文化学科で、新学部設置のため奔走する3年間となりました。 その結果、創設者ローガン・ファックスの意思を継ぎ、福祉、心理、食物の専門分野が軸となる「人間福祉学科」と「食物健康科学科」の2学科構成の「生活科学部」を文部科学省(当時、文部省)に設置申請することになりました。

異星人と犬 《短いおはなし》15

【ノベル・伊東葎花】若い女が、ベンチで水を飲んでいる。傍らには、やや大きめの犬がいる。「犬の散歩」という行為の途中で、のどを潤しているのだ。なかなかの美人だ。身なりもいい。服もシューズも高級品だ。彼女に決めるか。いやしかし、犬が気になる。動物は敏感だ。余計なことを感じ取ってしまうかもしれない。 私は、遠い星から来た。今はまだ体を持たない。水のような流体だ。ターゲットを探している。性別はどちらでもいいが、女の方に興味がある。すっと入り込み脳を支配して、地球人に成りすますのだ。そして我々の星にとって有益なデータを持ち帰ることが目的だ。誰でもいいわけではない。容姿は重要。生活水準も高い方がいい。あの女は、大企業に勤めている。申し分ない。犬さえいなければ。 私には時間がない。地球時間で5時間以内に入り込まないと、気体になって宇宙に戻ってしまうのだ。意を決して、女に近づいた。耳の穴から入り込む。一瞬で終わる。一気に飛び込もうとジャンプした私の前に、犬が突然現れて大きくほえた。 しまった。犬の中に入ってしまった。 「ジョン、急にほえてどうしたの?」女が、私の頭をなでている。どうしたものか。地球人については学習してきたが、犬についてはまったくの無知だ。逃げようと思ったが、首からひも状のものでつながれている。とりあえず、犬になりきって様子を見よう。そしてチャンスを狙って女の方に移るのだ。立ち上がって歩き出した私を見て、女が目を丸くした。「ジョン、2足歩行が出来るの? すごいわ。ちょっと待って、動画撮るから」しまった。犬は4本足だった。 それから私は「人間みたいな犬」として、ユーチューバー犬になった。ソファーでテレビを見たり、フォークを使って食事をするところをネットでさらされた。想定外だが、女と同じベッドで寝られることだけは、まあよかった。女は優しくて、いつも私をなでてくれた。「いい子ね」と褒めてくれた。女が眠っている間に、犬の体から女の体に移動することは易しい。しかし女の無防備な寝顔を見ると、なぜか躊躇(ちゅうちょ)してしまうのだ。

土浦市立博物館が郷土史論争を拒絶!《吾妻カガミ》158

【コラム・坂本栄】土浦市立博物館と市内の郷土史研究者の間で論争が起きています。争点は筑波山系にある市北部(旧新治村の一角)が中世どう呼ばれていたかなどですが、博物館は自説を曲げない相手の主張に閉口し、この研究者に論争拒絶を通告しました。アカデミックディスピュート(学術論争)を挑む市民をクレーマー(苦情を言う人)と混同するかのような対応ではないでしょうか。 「山の荘」の呼称はいつから? 博物館(糸賀茂男館長)と論争しているのは、藤沢(旧新治村)に住む本堂清さん(元土浦市職員)。社会教育センターの所長などを務め、退職後は市文化財審議委員、茨城県郷土文化振興財団理事も歴任した歴史通です。「山の荘物語」(私家版)、「土浦町内ものがたり」(常陽新聞社)、「にいはり物語」(にいはりの昔を知り今に活かす会)などの著作もあります。 争点はいくつかありますが、主なものは現在東城寺や日枝神社がある地域の呼び方についてです。本堂さんは、同地域は古くから「山の荘」と呼ばれていたと主張。博物館は、同地域は「方穂荘(かたほのしょう=現つくば市玉取・大曽根辺りが中心部)」に含まれ、中世室町時代以前の古文書に「山の荘」の記載はないと主張。この論争が2020年12月から続いています。 博物館によると、この間、本堂さんは博物館を11回も訪れ、館長や学芸員に自分の主張を展開したそうです。そして、文書による回答を要求されたため、博物館は「これ以上の説明は同じことの繰り返しになる」と判断。これまでの見解をA4判3枚の回答書(2023年1月30日付)にまとめ、最後のパラグラフで論争の打ち切りを伝えました。 その末尾には「以上の内容をもちまして、博物館としての最終的な回答とさせていただきます。本件に関して、これ以上のご質問はご容赦ください。本件につきまして、今後は口頭・文書などのいかなる形式においても、博物館は一切回答致しませんので予めご承知おきください」と書かれています。博物館は市民との論争に疲れ果てたようです。

「リニア中央新幹線」論の不思議 《文京町便り》16

【コラム・原田博夫】リニア中央新幹線の工事をめぐる静岡県とJR東海の協議が、膠着(こうちゃく)しています。そもそもリニア中央新幹線とは、品川駅から名古屋駅までの286キロを所要時間40分で結ぶ21世紀の「夢の超特急」です。2027年開通に向けて、国は2014年10月、品川~名古屋間の工事の実施計画をJR東海に認可しています ここに至るまでには、1962年、東京―大阪間(約500キロ)を1時間で結ぶ目標に対して、レールとの摩擦がない超電導による浮上方式の提案がありました(つまり、リニア新幹線の技術的提案です)。 1974年、運輸大臣は国鉄に、甲府・名古屋付近の山岳トンネル部の地形・地質調査を指示し、1990年11月には、山梨リニア実験線の建設に着手しています(要するに、新幹線ルートの工事に関わる課題の抽出・解決策の実効性チェックです)。 併せて、1979年の9都府県による「中央新幹線建設促進期成同盟会」、1988年の「リニア中央エクスプレス建設促進期成同盟会」、2009年の「リニア新幹線建設促進期成同盟会」(地元経済界や当該自治体からの要請=我田引鉄)などを踏まえた、JR東海への工事認可です。 つまり、長期の調査を経て着工したにもかかわらず、肝心の工事が一部区間(現在は田代ダム<静岡市>の取水抑制問題)でストップしています。 現時点での静岡県の主張は、「南アルプストンネル工事に伴う湧水を、JR東海は全量、大井川に戻すべし」のようです。この発言は、川勝平太知事(初当選は2009年7月で現在は4期目)が、3期当選後の2017年10月の記者会見冒頭で、ありました。それからは、複数の関係自治体、東京電力も巻き込んで、議論は二転三転しています。

上高津貝塚 数千年の「歴史」が目の前に《宍塚の里山》101

【コラム・阿部きよ子】里山は人間の暮らしと関わって育まれてきた環境です。過去から学び、この里山を未来に受け継ごうと、私たちは「宍塚の自然と歴史の会」の名で活動してきました。 土浦市宍塚と上高津にまたがる「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」は数千年の歴史を体感できる貴重な場所です。特に、史跡公園南東部のドーム型建物の中は見逃せません。ここには、A地点貝塚の1991年調査区(1メートル×3.75メートル)の壁面が展示されているのです。 ヤマトシジミを主とする貝殻の層が、土器片、骨などをはさみながら斜面にそって堆積し、貝層下部に土器片がまとまる部分があり、その下に土の層が続いています。下の層から縄文時代中期の4500年前頃、貝層最上部で3000年前頃の土器片が出土しました。貝層下部にまとまる土器片は4000年前頃のものです。 長い縄文時代の中の1500年間、貝の廃棄開始からでも数100年以上の、この地での暮らしの痕跡が目の前にあるのです。 私はこの調査に、協力員として参加することができました。調査員が狭い発掘区に入り、上から少しずつ水平に掘り進め、5センチの深さごとに、土、貝、遺物全てを回収しました。長方形の穴の深さが1.5メートルぐらいに達したとき、目を見張る事態が起こりました。底に、切断された鹿の頭骨、鹿角、優美な模様の土器片などが敷き詰めたかのように出現したのです。 調査団長の慶応大学鈴木公雄教授が「この下には貝はないだろう」とおっしゃいました。その言葉通り、その下では、多少の土器片は出土しても貝は出ませんでした。

遠方の震度3情報は必要か? 《ひょうたんの眼》57

【コラム・高橋恵一】地震国日本とはいえ、相変わらず各地で地震が起こり、最近でも能登半島、房総半島、新島・神津島などでの地震が世間を不安がらせている。緊急地震速報が派手な警告音とともに流れると、我々の日常生活は中断されてしまう。警告報道には、工夫が必要ではないだろうか。 地震学の専門家は、なるべく分かりやすく説明しようとするのだが、規模が大きすぎて、よく分からない。茨城県南西部は、千葉県北西部とともに「地震の巣」などと言われており、震源地となる頻度の多い地域だが、この地域は、北米プレートとフィリピン海プレート、太平洋プレートが混在していて、ユーラシアプレートも影響しているという、地球全体の中でもまれな地域なのだそうだ。 大ざっぱに言えば、我々は、土と岩でできた厚さが100キロ程度ののし餅状の板(プレート)の表面で生活しているわけで、関東地方から東北日本は、北米プレートの上にある。その南から、フィリピン海プレートが年間数センチの速さで押し寄せ、伊豆半島や丹沢山地の辺りから北米プレートの下に潜り込んで、茨城県南西部では、60~80キロの深部に達している。 さらに太平洋プレートが、ハワイよりも東から押し寄せ、日本海溝から北米プレートとフィリピン海プレート、日本列島東北部の下に年間5~10センチの速さで潜り込んでいるという構成らしい。茨城県の地下では、80~100キロの深さに達しているのだろう。 地下深くに複雑な重なりを持つプレート上に住む我々は、体感的な経験値として、地震と自覚するのが震度3、少々強いと感じて、棚から物が落ちたりしていないかを確認したりするのが震度4、何かにつかまらなくては立っていられないのが震度5弱だが、震度5弱ではテーブル上のコップは倒れない。茨城南西部での感覚は、2週間に1回くらいの頻度で震度3の地震があり、たまに震度4に見舞われる程度だろう。 茨城南西部の東日本大震災のときは、震度6弱であった。大正時代の関東大震災や平安時代の貞観地震は、震度5強くらいだったから、数千年単位の地震だったといえる。

ヒューマンスケールに合った街 《遊民通信》65

【コラム・田口哲郎】 前略 仙台に住んでいたことがあります。郊外の新興住宅地でのんびり生活していました。当時高校生でしたので、仙台という街がどんな街だとかそんなことはあまり深く考えていませんでした。ただ、住んでいるところから都心にある学校まで市営バスで30分ほどかかり、不便だなあと思っていたことは覚えています。大学入学と同時に上京して、今は茨城県民というわけです。 さて、コロナ前の2019年に仙台に遊びに行ったことがあります。牛タンを食べたり、青葉山に登ったりと楽しかったのです。仙台という街を離れてから見てみると、印象が違いました。住んでいた当時は、刺激のあまりない小さな地方都市くらいにしか思ってなかったのです。 しかし、首都圏という特殊な大都市に少々疲れた目で見ると、仙台は都市と自然が近いので、住人にとって良い街なのだとわかったのです。都心から少し歩けば広瀬川があり、利根川のように川幅が広くなく、曲がりくねって市内を流れて豊かな景色を見せています。けやき並木がコンクリートをやさしく緑に包んでいました。 かつて住んでいた住宅地から都心まで車で移動したのですが、わずか15分でした。そういえば、よく家から藤崎デパートまで車で行っていたことを思い出しました。地図を見てみると、仙台の都市圏は仙台駅を中心に半径15キロに収まります。

「平熱日記 in 千曲」後記その2 《続・平熱日記》134

【コラム・斉藤裕之】個展最終日の朝5時。心躍らせながら長野から白馬方面に向かう。30分も走ると朝日に映える巨大な雪山が目の前に現れた。秋にはまた信州の山をテーマにしたグループ展に参加することになっていることもあって、とにかく今回こそ信州に来たからには、北アルプスを間近で見たかった。 そして、ついに白馬に到着。しばし雪山を仰ぎ見る。それから、木崎湖を過ぎた辺りのコンビニで撮った山の画像を早速SNSにアップした。確か、この辺りの山の麓には東京芸大の山小屋「黒沢ヒュッテ」があって、私も何度か訪れた思い出があるのだが。 すると、すぐに「爺ヶ岳と鹿島槍ですね」とのコメントが。芸大で学生のときから長くお世話になった佐藤一郎先生だ。画像を見ただけで山の名前を即答とは、さすが山岳部OB。その直後には、これまた大学の先輩で確か山の専門誌にも寄稿をされていた画家の河村正之さんから「何度見てもいい山だ」とのコメント。私にはどれも同じに見える雪山も、見る人が見ると違いがわかるらしい。 大満足で千曲に戻り、その後、古い小学校の校舎があるというので見に行った。というのも、数年前から建物を紙粘土で作ったものを絵に描いていて、それをかおりさんが面白がってくれたので、この際シリーズ化してみるのもいいかもなんて話していたところに、地元の方が紹介してくれたのが千曲市の屋代小学校の旧校舎だったのだ。 それは洋式のしゃれた木造2階建て。屋根瓦こそ和瓦だが、薄い水色に塗られた鎧(よろい)張りの壁とわずかに上部がアーチ状の縦長の洋窓。それから、校長先生のスピーチ姿が想像できる2階に張り出したバルコニーが実にキュート。どちらかというと、アーリーアメリカンな印象の校舎は昭和50年前半まで使われていたとか。 あの貞本義行からのメール

ハウスメーカーよりも低い原発の耐震基準 《邑から日本を見る》136

【コラム・先﨑千尋】「被告は大飯発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない。ひとたび深刻な事故が起きれば、多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、…安全性と高度の信頼性が求められて然るべき」 2014年5月の福井地裁大飯原発運転差止め訴訟の判決の冒頭の文だ。判決文を書いた樋口英明さんは、その後積極的に講演に歩いている。また、「原発を止めた裁判長-そして原発を止める農家たち」という映画にもなり、昨年9月から公開されている。 「三井ホームは5115ガル、住友林業は3406ガル。それに対して原発は620から1209ガル。原発の耐震基準は一般住宅よりも低い。とてつもなく危ない」。これでは、怖くて原発を動かせないではないか。私は5月13日に東京で開かれた「脱原発をめざす首長会議」の総会に合わせて開かれた講演会で樋口さんの話を聞いて、背筋が寒くなった。 樋口さんが原発の再稼働を止めるべきだとしている根拠の最も大事なことは、日本は地震大国であるのに原発の耐震性が極めて低いことだという。東京電力福島第1原発事故の時の震度は6強、800ガルだった。ガルは原発の耐震設計基準(基準地震動)に用いられる単位であり、地震観測でも震度以上に重要な単位とされている。 樋口さんの集めたデータでは、2000年以降でも1000ガル以上の地震は17回起きており、被害が大きかった熊本地震は1740ガルだった。私たちの近くにある東海第2原発は現在1009ガルに設定されている。 「原発は自国に向けられた核兵器」

東北花火紀行2023春/大曲~陸前高田 《見上げてごらん!》14

【コラム・小泉裕司】 大曲の花火~春の章~4.29 大会プログラムの一つ、45歳以下20人の花火師による「新作花火コレクション」に出品した山﨑煙火製造所(つくば市)の佐々木恵(けい)さんは、10号玉芯入割物の部で見事初優勝(大会結果)。作品名は「昇曲導付三重芯菊先銀点滅」(筆者撮影)。 筒から打ち出された花火は、「曲」と呼ばれる小さな花を開きながら上昇し、最高点で星が尾を引きながら4つの同心円(外側の円は芯に数えない)を描く菊型花火。消え際に銀色の煌(きら)めきを発する。 山﨑煙火は、昨年の土浦10号玉の部「五重芯銀点滅」で優勝、本年、創業120周年の節目を迎える老舗中の老舗。今や名実ともに不動の地位を確立した現会長の山﨑芳男氏の十八番(おはこ)は、脈々と弟子達に受け継がれ、「多重芯の山﨑」「銀点滅の山﨑」と言われるほど。 その完成度の高さ・安定度では、国内、野村花火工業(水戸市)と双璧をなす。本日、11月4日に土浦全国花火競技大会開催決定との報。茨城勢は今シーズンも盤石の予感。

人のせいにすると言う生き方《続・気軽にSOS》133

【コラム・浅井和幸】私たちは、出来事や物の一つ一つに対して「良い」「悪い」とラベル張りをする癖があります。そして、「悪い」ものがあるから悪いことが起こると勘違いして生きています。 例えば、塩や油は「悪い」、ゴマや発酵食品は「良い」と決めつけて生活しています。そして、それら「悪い」物を食べたら不健康になり、「良い」物を食べたら健康になると思い込んで生きている。 ここまで読めば、食べ物と健康の良し悪しは、そう単純ではないと考えられる人がほとんどではないかと思います。それでも振り返ると、誰もが(と言ってよいでしょう)、このように決めつけて過ごしていることに気づくでしょう。 なので、「人に優しくすることは良いことですよね?」「直観に頼ることは良いことですよね?」とか、「ゲームは良くないですよね?」とかと質問されても、「良いこともあるし悪いこともある。目的と程度問題と思いますよ」と答える浅井は、「優柔不断で、つまんない奴」と思われがちなのです。 特に人は、自分が認められていない、褒められていない状況が続くと、不安が大きくなり、「あなたは悪くない」と言ってくれる人を探し、確認を繰り返します。その段階では、現実問題の改善ではなく、心理的な落ち着きのためにカウンセラーや周りの人の共感が必要なのは事実です。 共感と同感は別物で、同感や是認を繰り返しすぎると、強迫性障害などへの悪影響がありますが、それはまた別の話です。

友よ、一緒に社会を変えていこう 《電動車いすから見た景色》42

【コラム・川端舞】前回のコラムで書いたように、先日、故郷の群馬で開催されたプレゼンテーション大会で、重度身体障害がありながら、障害のない同級生と同じ学校に通った経験を話した。「ぜひ群馬で川端の経験を話してほしい」と、その大会に私を推薦してくれたのは高校時代の友人。友人は、生まれたときに割り当てられた性別は女性だが、今は男性として生きているトランスジェンダー当事者だ。 多くの建物の入り口には段差があり、車いすで入れない。言語障害のある者が話すと、多くの人は困った顔をし、本人と直接話すことを諦める。今の社会は障害者にとって生きづらい。しかし、それは障害者が悪いわけではなく、障害者の存在を前提につくられていない社会の問題だ。この考え方を「障害の社会モデル」と言い、国連の障害者権利条約もこの考え方を取り入れている。 一方、友人と話すうちに、就職面接など、人生において重要な場面ほど、性別を聞かれ、制服やトイレなど、あらゆるものが男女別に分けられる社会はトランスジェンダーにとっても過ごしづらい環境なのだと気づいた。それはトランスジェンダーが悪いわけではなく、トランスジェンダーがいることを前提に社会がつくられていないのが問題だ。 もちろん、男女別の制服や施設が心地よい人もいるだろう。その人たちの意見は決して否定しない。だから、トランスジェンダー当事者にとって、心地よい制服や施設のあり方はどのようなものかも直接聞いてほしい。それぞれが心地よくいられる、全く新しい制服や施設のあり方が見つかるかもしれない。そうすることで、多様な人が過ごしやすい社会に変えていける。 高校3年分の絆 1年ほど前から、頻繁に友人と連絡を取るようになり、互いの子ども時代のことも聞き合った。その過程で、「障害者もトランスジェンダーも生きづらいのは社会の問題である」という共通認識を持て、いつしか「一緒に社会を変えていこう」と話すようになった。全く初対面の障害者とトランスジェンダーが、ここまで仲間意識を持つのは難しいかもしれない。

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博物館の歴史論争拒否、土浦市法務が助言 《吾妻カガミ》159

【コラム・坂本栄】今回は158「土浦市立博物館が郷土史論争を拒絶!」(5月29日掲載)の続きになります。市立博物館と本堂清氏の郷土史論争。博物館の論争拒否に対し、本堂氏は「(博物館がそう出るなら同施設を管轄する)市教育長に検討申請書を提出する」と反発しており、エスカレートしそうな雲行きです。 また取材の過程で、本堂氏を門前払いするようアドバイスしたのが市の法務部署であったと聞き、土浦市の博物館マネジメントにも唖然(あぜん)としました。論争を挑む本堂氏をクレーマー(苦情を言う人)並みに扱うよう指導したわけですから。 郷土史をめぐる主な論争は3点 私は中世史に疎いこともあり、市立博物館(糸賀茂男館長)の学芸員にこの論争の要点を整理してもらいました。 いつから山の荘と呼ばれたか ▼本堂氏:『新編常陸国史』(国学者中山信名=1787~1836=が著した常陸国の総合史誌)の記述からも明らかなように、「山の荘」(土浦市北部の筑波山系地域)の名称は古代からあったのに、博物館は同歴史書の記述を無視して同名称を古代史から抹消した。

阿見町の予科練平和記念館 《日本一の湖のほとりにある街の話》12

【コラム・若田部哲】終戦直前の1945年6月10日。この日は、阿見・土浦にとって決して忘れてはならない一日となりました。当時、阿見は霞ヶ浦海軍航空隊を有する軍事上の一大重要拠点でした。そのため、B29による大規模爆撃を受けることとなったのです。当時の様子は、阿見町は予科練平和記念館の展示「窮迫(きゅうはく)」にて、関係者の方々の証言と、再現映像で見ることができます。今回はこの「阿見大空襲」について、同館学芸員の山下さんにお話を伺いました。 折悪くその日は日曜日であったため面会人も多く、賑わいを見せていたそうです。そして午前8時頃。グアム及びテニアン島から、推計約360トンに及ぶ250キロ爆弾を搭載した、空が暗くなるほどのB29の大編隊が飛来し、広大な基地は赤く燃え上がったと言います。付近の防空壕(ごう)に退避した予科練生も、爆発により壕ごと生き埋めとなりました。 負傷者・死亡者は、家の戸板を担架代わりに、土浦市の土浦海軍航空隊適性部(現在の土浦第三高等学校の場所)へと運ばれました。4人組で1人の負傷者を運んだそうですが、ともに修練に明け暮れた仲間を戸板で運ぶ少年たちの胸中はいかばかりだったかと思うと、言葉もありません。負傷者のあまりの多さに、近隣の家々の戸板はほとんど無くなってしまったほどだそうです。 展示での証言は酸鼻を極めます。当時予科練生だった男性は「友人が吹き飛ばされ、ヘルメットが脱げているように見えたが、それは飛び出てしまった脳だった。こぼれてしまった脳を戻してあげたら、何とかなるんじゃないか。そう思って唯々その脳を手で拾い上げ頭蓋に戻した」と語ります。また土浦海軍航空隊で看護婦をしていた女性は「尻が無くなった人。足がもげた人。頭だけの遺体。頭の無くなった遺体。そんな惨状が広がっていた」と話します。 累々たる屍と無数の慟哭 この空襲により、予科練生等281人と民間人を合わせて300名以上の方々が命を落とされました。遺体は適性部と、その隣の法泉寺で荼毘(だび)に付されましたが、その数の多さから弔い終わるまで数日間を要したそうです。

牛久沼近くで谷田川越水 つくば市森の里北

台風2号と前線の活発化に伴う2日からの降雨で、つくば市を流れる谷田川は3日昼前、左岸の同市森の里の北側で越水し、隣接の住宅団地、森の里団地内の道路2カ所が冠水した。住宅への床上浸水の被害はないが、床下浸水については調査中という。 つくば市消防本部南消防署によると、3日午前11時42分に消防に通報があり、南消防署と茎崎分署の消防署員約25人と消防団員約35人の計約60人が、堤防脇の浸水した水田の道路脇に約100メートルにわたって土のうを積み、水をせき止めた。一方、越水した水が、隣接の森の里団地に流れ込み、道路2カ所が冠水して通行できなくなった。同日午後5時時点で消防署員による排水作業が続いている。 越水した谷田川の水が流れ込み、冠水した道路から水を排水する消防署員=3日午後4時45分ごろ、つくば市森の里 市は3日午後0時30分、茎崎中とふれあいプラザの2カ所に避難所を開設。計22人が一時避難したが、午後4時以降は全員が帰宅したという。 2日から3日午前10時までに、牛久沼に流入する谷田川の茎崎橋付近で累計251ミリの雨量があり、午前11時に水位が2.50メートルに上昇、午後2時に2.54メートルまで上昇し、その後、水位の上昇は止まっている。 南消防署と茎崎分署は3日午後5時以降も、水位に対する警戒と冠水した道路の排水作業を続けている。

論文もパネルで「CONNECT展」 筑波大芸術系学生らの受賞作集める

筑波大学(つくば市天王台)で芸術を学んだ学生らの作品を展示する「CONNECT(コネクト)展Ⅶ(セブン)」が3日、つくば市二の宮のスタジオ’Sで始まった。2022年度の卒業・修了研究の中から特に優れた作品と論文を展示するもので、今年で7回目の開催。18日まで、筑波大賞と茗渓会賞を受賞した6人の6作品と2人の論文のほか、19人の研究をタペストリー展示で紹介する。 展示の6作品は、芸術賞を受賞した寺田開さんの版画「Viewpoints(ビューポインツ)」、粘辰遠さんの工芸「イージーチェア」、茗渓会賞授賞の夏陸嘉さんの漫画「日曜日食日」など。いずれも筑波大のアートコレクションに新しく収蔵される。芸術賞を受賞した今泉優子さんの修了研究「樹木葬墓地の多角的評価に基づく埋葬空間の可能性に関する研究」は製本された論文とパネル、茗渓会賞を受賞した永井春雅くららさんの卒業研究「生命の種」はパネルのみで展示されている。 スタジオ’S担当コーディネーターの浅野恵さんは「今年は論文のパネル展示が2作品あり見ごたえ、読みごたえがある。版画作品2作品の受賞、漫画の受賞も珍しい。楽しんでいただけるのでは」と来場を呼び掛ける。 筑波大学芸術賞は芸術専門学群の卒業研究と大学院博士前期課程芸術専攻と芸術学学位プログラムの修了研究の中から、特に優れた作品と論文に授与される。また同窓会「茗渓会」が茗渓会賞を授与している。 展覧会は関彰商事と筑波大学芸術系が主催。両者は2016年から連携し「CONNECT- 関(かかわる)・ 繋(つながる)・ 波(はきゅうする)」というコンセプトを掲げ、芸術活動を支援する協働プロジェクトを企画運営している。 (田中めぐみ)