筆者の山口絹記さん

【コラム・山口絹記】こんな夢を見た。

むせ返るほどの緑の匂いに目を開くと、どこまでも続く野原が月明かりに照らされ、やさしい風にそよいでいる。遠くから聞こえる雷と、ピアノの旋律。

月に冷やされた大気がきらめきながら降りそそぎ、地表すれすれで音もなく消えていく。 ピアノの音が静かに消えていくのにあわせて、地平線から日がのぼった。夜空の黒。恒星の赤。草原の緑。全てがあわさる地平線は見たこともない青色に染まって、少しずつ世界を明らかにしていく。

朝日を背にした人影が、丘を静かにおりてきた。その歩みに若草が波紋を立てる。降り始めた霧雨が、やがて勢いを増しても、わたしはただ濡れるだけで、身動きひとつできずに人影を見つめていた。

あなたは、わたしの手をとって歩き出した。降り注ぐ雨など気にしていないかのように。雨を、楽しんでいるかのように。顔の部分だけが、もやがかかったようによく見えない。

足下から衝撃波のように広がった青白い光が通った後には、雪のような白い花が咲き誇る。歓声に振り返ると、どこから現れたのか、数え切れないみこしがきらきら光る装飾を揺らしながら押し寄せて、祭ばやしが鳴り響いた。嵐のように過ぎ去ったみこしの後には出店が並び、浴衣を着た人の波の中に自分がいることに気づく。

あなたはわたしの手を引いて、ためらわずに人混みをかき分けていく。突然振り返ったあなたはわたしの顔をじっと見つめた。懐かしさがこみ上げて、泣きたいような気持ちになる。地面から飛び出したニシンの大群が宙を舞い、わたしたちの周りをらせんを描きながら空の彼方に消えていった。

ひしめく鉄塔、夕暮れの神社、夜の商店街、誰もいない公園、団地の駐車場。周囲の景色が、少しずつ回転速度を上げる壊れたリール映写機の映像のように切り替わっていく。万華鏡の中を走るように世界がぐるぐると変わる。やがてその景色も極彩色の流線型となって視界の隅に散っていった。

「もっと、見たことないものが見たい」。

そう言って、きびすを返し歩き出す背中を追いかけようとして、足が一歩も動かないことに気がつき、目が覚めた。

伝えたい気持ち

脳内に想起されたものは、ことばにすることができる。しかし、それがそのまま他者に通じることは、きっとない。幾万幾億のことばを尽くし、積み重ねても、真に共有することは、恐らくできない。それでも、わたしたちがことばを尽くすのは、伝えたいという気持ちであり、願いそのものでもあるのかもしれない。

ことばとは、なんだろうか。わたしにはわからない。だから、生きている限りは考えてみようと思う。今よりも、少しはましなことばで表現できるように。脳出血により、一度ことばをなくしてしまったわたしは、折に触れてこんなことを考える。(言語研究者)

【やまぐち・まさのり】1988年神奈川県生まれ東京都育ち。つくば市在住。脳動静脈奇形(AVM)による脳出血、失語、失行を経験する。リハビリと育児と仕事の傍ら、放送大学にて言語学と心理学を中心に学ぶ日々をおくる。