《ひょうたんの眼》8 祖父はニコライで死んだ

命の代償 忠勇碑㊧と刻まれた碑文

【コラム・高橋惠一】子どものころ、祖父の墓碑の前で、母から「自分の父親は、ニコライでソ連に殺された。残虐な殺され方だったそうだ」と聞いた。幼少時から義父と仲が悪く、ずっと貧乏と縁が切れなかったのも、全て「ニコライ」から始まったように聞こえた。子ども心に「ソ連は恐ろしい悪い奴だ」というイメージが焼き付いた。

後に、それは第1次世界大戦のあとのシベリア出兵時の尼港(ニコラエフスク)事件のことだとわかったが、中高生の歴史では、日中戦争でも太平洋戦争でもなく、日清・日ロから第2次大戦の流れの中に埋没した「出来事」だった。

第1次大戦終戦の間際、ロシア革命が起こり、ソ連邦内に取り残されたチェコ軍を救出するために、当時の列強各国が派兵し、日本も出兵した。日本軍はチェコ軍脱出後もシベリア駐留を続け、黒竜江河口のニコラエフスクに置いた守備隊は約10倍の革命軍パルチザンに包囲されてしまった。

祖母が妊娠中に出征した祖父は、その守備隊にいた。一時休戦が成立したが、日本側から攻撃を仕掛けて敗れ、捕虜にされた。氷結の冬季が終り、日本の本隊が救出に来るのを知って、革命軍は、逃げる際、守備隊と在留邦人約700人、ロシア人の富裕層も虐殺した。尼港事件である。

祖父は自転車で、出産のため実家に帰っていた祖母に会いに行ったが、時間が足りず行き着かなかったそうで、妻と別れの会話も出来ず、生まれてくる子が男か女かも判らないまま出征した。貧乏農家の跡取りは、世界情勢を理解しているわけでもなく、戦闘に巻き込まれ、捕虜になった。孤立無援の捕虜たちには、一兵士の生後間もない赤ん坊の情報もなく、母が一歳の誕生日を迎えたころ、恐怖の中で虐殺された。

当時の日本政府は、先に撤収した欧米からの批判の眼にさらされながら、便乗して他国を占領し続けたうえ、日本人居留民も兵士の命も守れなかった。この事件は、その後の反ソ宣伝、国威発揚に利用された。

私の父方のいとこは、インパール作戦で死んだ。やさしい鉄道マンだったそうだ。愚かな作戦で、名誉な戦死などではなく、酷暑と飢えの過酷な環境での病没である。日米戦は、もともと無謀な戦いと言われたが、マリアナからの本土空襲が可能になったヤルタ会談後の戦争継続は愚か過ぎた。

あの時、負けを認めれば、硫黄島も、東京大空襲も、続く各都市空襲も無かった。沖縄も、広島も、長崎も、ソ連の満州侵攻も無かった。日本人死者310万人の半分以上が死なずに済んだ。誰が、責任を取ったのか。

占領軍による東京裁判を否定する意見がある。戦勝者の報復裁判だという。日本国憲法に対する批判も、その延長にある。それならば、国民の多くを無駄に死なせた政府の責任者、戦争遂行者の責任を問う裁判を行うべきだ。私の祖父は、私のいとこは、なぜ、あのような殺され方をされたのか。(元オークラフロンティアホテルつくば社長)