《邑から日本を見る》20 地域の歴史に学ぶ-常陸太田の偉人たち

飯野農夫也の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】今年は明治維新から150年。私は今75歳、その半分を生きていることになる。私が住んでいる東隣が常陸太田市。そこに郷土資料館(旧市役所)があり、22日まで「明治150年記念 明治期に活躍した常陸太田の偉人たち」という企画展が開かれた。明治期にこの地に生まれ、県内外で活躍した人たちを紹介している。私はこの企画に合わせ、「近代化を支えた常陸太田の偉人たち」という演題で講演した。

常陸太田(以下太田)といえば、水戸黄門(徳川光圀)が隠居した所。中世大名の佐竹発祥の地だ。江戸時代には、那珂湊と並ぶ商業の街で、分限者(長者)も多く出た。太田の奥地には葉タバコ、コンニャク、紙の原料である楮、ウルシなどの特産品があり、紅花も栽培されていた。太田はその集散地。地形で見れば、扇の要にあたる。

明治になって、国は殖産興業策を進め、太田の旦那衆は金融(銀行)、鉄道、電気に目を付け、投資した。電気では、のちに「茨城の電気王」といわれた前島平がいる。1905年に茨城電気を興し、翌々年に水戸市に火力発電所、次の年には里川の水を利用した水力発電所と、次々に発電所を建設。のちには県内の電力会社を吸収していった。

しかし、前島を支えた七人組の人たちは昭和大恐慌の波に呑まれてしまった。その後、銀行、鉄道、電気とも国家管理に置かれ、個人の才覚で商売することを許さなくなっていった。

函館の商業王 北海道の酪農王…

太田から出て、全国レベルで活躍した人も多い。その筆頭は佐藤進。ドイツに留学し、アジア人初の医学博士となった。東京湯島にある順天堂病院・同大学興隆の原動力になった人だ。東京の名医の筆頭に挙げられ、大隈重信や李鴻章などの手術をし、軍医の功績で男爵に列せられた。

「天賦の才をもって刻苦勉励し、一代にして巨万の富を築き、浄財を喜捨し、幾多の事業を援助した真の実業家」といわれた「函館の商業王」梅津福次郎も太田の出身だ。函館は新興の地。北洋漁業の最大の基地となり、1930年まで関東以北最大の都市だった。梅津の商圏は千島・樺太にまで伸びていった。教育・公共事業に多大の寄付をし、光圀の菩提寺である久昌寺、太田高等女学校、太田町役場、西山修養道場などは梅津の寄付による。

北海道に渡って名を成したもう一人が「北海道の酪農の父」黒澤酉蔵だ。黒澤は若い時に田中正造の教えを受け、北海道で牛飼いを始め、のちの「雪印乳業」を興し、酪農民が牛乳やバター・チーズの製造販売を行った。酪農学園大学も創始している。

このほか、「茨城の交通王」竹内権兵衛、日本海員組合の初代組合長・小泉秀吉などがいる。こうした人たちの志を今にどう活かすのか。よそから見ると、太田の街は沈滞している。若者、バカ者、ヨソ者、女性が活躍している所は活気がある。「モノを活かす、人が動く、心をつなぐ」。そんな街にしようではないか。私は太田だけではなく、どこにも共通する課題だと訴えた。(元瓜連町長)