【コラム・浅井和幸】甲殻アレルギーを持つ孫娘に対して、「そんなの気の持ちようだから」と、内緒でエビか、カニかを分からないように料理に混ぜて食べさせた。結果、その女の子は発作が出て、病院に緊急搬送をされたという事故がありました。

この事故は、明らかにアレルギーに対する勘違いではありますが、私たちの生活の中には「そんなの気の持ちようだから気にすんな」というように、「気の持ちよう」は軽い物事の問題として使われる言葉です。

それで、「そうだよねぇ」と、気を取り直して別の行動が簡単に取れるのならばよいですが、そうとばかり事は進みません。根底には、自分自身は問題ないし、自分の知っている人も問題になっていないことを問題にすること自体が理解できないこと、自分と同じことは誰でもできるという感覚があります。

上記の事故ではなくとも、人前で話をすること、自動車の運転、人と集まり会食をすること、汚いと感じるものを触ること、仕事をすること…。多くの人が出来ていることが出来ないのは、気の持ちようだと捉えている人は多いでしょう。

心頭滅却すれば火もまた涼し?

しかも、気の持ちようは、簡単に変化させられるものだと考えている人の方が多数を占めるのではないでしょうか。しかし、多くの「気の持ちよう」は、変化させることがかなり難しい、固定観念であるというのも事実です。

言葉遊びをすれば、「気の持ちようは、簡単に変化させられるものだと考えている」のも気の持ちようだとすると、このような固定した考えはなかなか変えられないものと考えられます。

例えば、気の持ちようを変えて、簡単に多くの人の前で歌を歌うことが出来るようになるでしょうか? 簡単に気の持ちようを変え、芋虫や昆虫などゲテモノを食べられるようになるでしょうか?

感じ方や、物のとらえ方、習慣などは変えるのはとても難しいことが多く、適応的なものにしていくには、多くの練習を必要とします。その練習をする一つに、認知行動療法(行動療法とか認知療法とか)などの心理療法があります。その説明はまた後ほど。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」といいます。気持ちの持ち方さえ変えれば、何事も変わるということだと思います。気持ちの持ちようは大切だから、心を鍛えて、動じないように、毎日を過ごそうと締めるのが格好よい、との文章だとは思います。

しかし、涼しく感じたとしても体が焼けてしまう現実を真っすぐ見て、そこから逃げたほうがよいんじゃないかなぁ~~が、浅井流の締め方です。(精神保健福祉士)