【コラム・玉置晋】平成7年夏、高校2年の僕は勝田駅のホームで茨城交通湊線(現ひたちなか海浜鉄道)への乗り換え待ちをしていました。宇宙好きは今も昔も変わらないけど、当時の僕は悩んでいました。将来は宇宙物理の研究者にでもなろうかと気軽に考えて、進学校に入ったはいいが、成績は低空飛行。特に物理はひどいもので、中間試験で脅威の7点/100点満点をたたき出し、こりゃ、宇宙物理学者になるには少々頭が足りないのかもしれないと悲観しておりました。

平磯宇宙環境センター」

いや、今振り返ると、高校の勉強などは限定的な要領の問題であって、研究の能力とは全く異なることを教えてやりたいですが、高校生の視野などそんな程度です。そんな僕は、自分を慰めたかったのか、宇宙の研究者とお話をして自分の窮状を訴えるために、平磯へと向かいます。

平磯には、通信総合研究所(現情報通信研究機構)平磯宇宙環境センターがありました。1915年に逓信省電気試験場として発足、戦後は郵政省電波研究所の平磯電波観測所となり、89年に平磯宇宙環境センターとなりました。太陽フレアが発生すると地球の電離層が乱され、短波通信が途絶することがあり、これを監視する拠点が平磯センターでした。茨城は宇宙天気の故郷なのです。

その日は平磯宇宙環境センターの年に1度の一般公開。湊線はサツマイモ畑の中を走り、最寄りの磯崎駅に降り立つ。ぎらつく夏の太陽を背に海沿いを30分ほど歩く。幼いころに父と何度も来た平磯海岸。ここは白亜紀の地層が露出した珍しい地域で、なぜだか分かりませんが、僕はこの白亜紀層はひっかかるところがあり、父に連れていくようせがんだものです。

きっと、太古の記憶がそうさせているのでしょう。そんな思い出深い地に平磯宇宙環境センターはありました。研究者の方に進路相談をした後、一般公開の来場者のために置かれたノートに「いつか、ここで働きたいので、それまで継続してください」と書いたのは僕です。

間に合わなかった

その後、僕は大学、大学院で宇宙を学びましたが、平磯の地に立つことはありませんでした。頭の片隅で平磯の宇宙天気のお仕事に関われたらと思っていましたが、平磯宇宙環境センターは老築化と研究拠点の集約のために2009年に無人化、15年に開設100年目の節目で役目を終えました。間に合わなかった。

2019年より、僕は宇宙天気防災の勉強を本格的に始めるつもり。いつか平磯の地に立ち、宇宙天気防災に関わる活動ができないかと夢を描いています。(宇宙天気防災研究者)