早大政経・土屋ゼミ・インタビュー9
自己資本ルール
斉藤:バブルと関係がある案件はなかったですか。
坂本:実はもう一つ、プロフェッショナルなテーマがありました。銀行には自己資本規制というものがあります。体力に応じた貸し出しをするように、貸出額を分母に、自己資本を分子に置き、その割合を一定以下に抑えるというものです。これを 8%とかに決め、たくさん融資したければ自己資本を増やしなさい、無理なら貸し出しを抑えなさい―と。
なぜこのような規制があるかというと、体力=自己資本を無視して貸し出しに走ると、銀行の経営が不健全になるからです。いざというときカネがないではアウトです。バブルのときに体力不相応の融資をし、バブル崩壊後、返してもらえなくなり、銀行は体力が弱い順に潰れました。
保有株式の含み
日銀を担当していたとき、BIS(国際決済銀行)がグローバルな自己資本ルールをつくりました。いわゆるBIS規制です。簡単に言うと、国際業務をやる銀行は自己資本比率を8%以上にしなければならないというものです。
問題は自己資本の定義です。日本の銀行は融資先企業の株をたくさん持っていましたから、その含み益を自己資本として計上させようと画策しました。そうすれば分子が増え、分母=融資を増やすことが可能になり、業務を拡大ができるからです。
ところが、米銀は企業の株をあまり持っていませんから、日本の主張に反対し、株の含みは自己資本として認められないと主張しました。日本の言い分を認めると、日本の銀行の貸し出しが増え、米銀が負けてしまうからです。結局、この交渉は間を取り、確か、含みの45%は分子として認めることで決着しました。
よく考えてみると、これはバブルの一因になったと思います。当時、株価はカネ余りでドンドン上がっていましたから、45%でも分子はドンドン増える。結果として、日本の銀行は分母に余力ができ、貸し出しを増やせたわけです。
BIS規制が米の要求通り「株の含みはダメ」となっていたら、日本のバブルは小ぶりになったと思います。8%をキープするため、貸し出しを抑えなければなりませんから。
そのころ、ある銀行頭取に「株が上がる時はよいけれども、下がる時は貸し出しがしにくくなくなる。半面しか見ていないのではないか」と言ったことがあります。私は株の下落を心配したのですが、ドンドン上昇したので貸し出しに走り、結果、不良債権の山を築きました。
BIS規制では要求の約半分が通り、銀行はハッピーでしたが、あとで考えると、「うまくいった」ことがバブルの一因になったのです。
成功体験に潜む罠
日米当局は1985年、外為を円高ドル安の方向に誘導することで合意しました。いわゆるプラザ合意です。日銀は、円高によるマイナス―輸出減による経済停滞―を和らげようと、超が付くぐらいに金融を緩めたわけですが、やり過ぎがバブルの原因になりました。
「よかれ」と思い、金融を思い切り緩和、銀行、企業、資産家が「ハッピー、ハッピー」と踊っているうちに、風船が膨らみ過ぎ、破裂しました。BIS規制も超金融緩和も、「うまく行った」「よかれ」と思っていたことが、悪い結果の遠因になりました。
話は違いますが、日露戦争の勝利体験が、先の大戦敗北の遠因になりました。高級軍人の奢りですね。学生のとき、どうして戦争に負けたのか、政略、戦略、戦術などをいろいろ調べましたが、成功体験を踏まえた戦争計画にあったことが分かりました。経済も戦争もはしゃぎ過ぎは怖いですね。(続く)
(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)
【坂本栄NEWSつくば理事長】