早大政経・土屋ゼミ・インタビュー8
バブル時代の日銀
斉藤:外務省のあと、まだ現場が続いたのですか。
坂本:外務省のあと、キャップという取材グループの長として、また日銀を担当しました。ワシントンへ行く前、日銀では下端でしたが、2回目は一番上になったわけです。(笑)
最初のとき、取材グループは4人でした。ところが2回目のときは増えていて、7~8人体制でした。経済の中で金融の役割が高まっていたからです。キャップは2年半ぐらいやりましたか。
2度目の日銀はバブルが進行していたころです。昭和天皇が亡くなったのは、日銀を担当していたときでした。バブルが弾けたのは1990年代前半ですから、キャップ時代はその真っ直中。
皆ハッピーで、バブルなんて否定的な言い方はしませんでした。破裂してからバブルになるわけで、進行中の言い方は「資産効果による好景気」です。株は上がる、地価は上がる、給料は上がる。豊かな国になったものだと、盛り上がっていました。
日銀幹部も、日産の高級車「シーマ」が飛ぶように売れると、はしゃいでいました。経済は、いずれ米国を追い抜くかという勢い。
キャップの仕事は、銀行の頭取や幹部とゴルフに行くこと。週末、マンションには黒塗りの車が迎えに来て、名門クラブでゴルフ。接待攻勢に経済記者もバブルを満喫していたわけです。(笑)
公定歩合→市場金利
藤本:時代の空気は分かりました。当時の金融のテーマは。
坂本:そのころ日銀は、バブルの原因になった金融緩和に並行して、金利の自由化を進めていました。
自由化が進んだ今、金利はマーケットで決まっています。自由化前は、銀行が貸す金利、個人が借りる金利、預金の金利などは、日銀が根っこの金利―もう死語になりましたが、公定歩合と言いました―を決め、これを参考にいろいろな金利を決めなさいというシステムでした。
貸出金利も預金金利も、日銀がえいやっと根っこを変えると、それに連動して変わる。戦後ずっと、こういうやり方をしてきたわけです。
キャップのころ、日本も経済大国になったのだから、金利も市場で決めるべきだと、日銀は金利の自由化に動きます。私の関心事は、日銀は自由化をどう進めるのか、どういう金融操作をするのか―ということでした。プロフェッショナルなテーマです。
プロ好みの特ダネ
市場金利なんて一般の人は関心ありません。でも経済システムにとっては重要なことでした。日本は世界トップクラスの経済国になりつつある、だから金融システムも米国と同じにしないといけないと、日銀は考えていました。
自由化についての日銀や都銀の動きをウォッチする中で、特ダネも書きました。銀行が優良企業に貸す際の金利を「プライムレート」と言いますが、自由化時代のプライムの決め方―複数の市場金利を組み合わせて決める方程式―を抜いたのです。
専門性の高い記事だったこともあり、編集局長賞とかは出ませんでしたが、金融のプロ―日銀や民間銀行の幹部連―の時事に対する評価は高まりました。
最初に日銀を担当したとき、一番下で外為を担当したときの話の中で、キャップの仕事は政策金利操作だったと言いました。その政策金利とは公定歩合のことですが、私がキャップだったころから、その公定歩合の役割が消滅しました。
日銀はマーケットを操作、いろいろな金利が市場金利に連動して決められるようになったからです。昔、金融のキーワードだった公定歩合は、今、死語になりました。若い記者は知らないでしょうね。(笑)(続く)
(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)
【坂本栄NEWSつくば理事長】