早大政経・土屋ゼミ・インタビュー4
経済でもよかった
藤本:雑用係のあと、取材の現場に出たのですか。
坂本:デスク補助という名の雑用係のあと、入社2年目に、大蔵省のクラブ「財政研究会」に配属されました。ここでは、主計局の防衛主計官を担当、防衛関係予算や中期防衛計画を取材しました。個人的な専門分野だったから楽しかった。政治部でなく、経済部でもよかったと。(笑)
5人クラブの一番下端で1年半やって、次は自動車クラブに回りました。トヨタとか日産とかホンダなど、自動車メーカーが取材対象です。
藤本:自動車クラブというものがあるのですか。
坂本:そう。そこに2年ぐらいいました。そのときは、自動車業界のほか、航空機・軍需産業も取材対象に含めてもらいました。三菱重工、川崎重工、石川島播磨重工、富士重工などです。それぞれ分野は違いますが、これらメーカーは飛行機、タンク、艦艇などをつくっていました。
戦闘機工場や潜水艦造船所の取材もあって、ここも楽しかった。富士重の場合は自動車も飛行機もつくっていましたから、新宿駅前の本社にはよく通いました。
そのあと運輸省クラブに2年ぐらい。今、建設省と合併して国交省になりましたが、当時は別々でした。タンカー建造ブームのころで、私はここで造船と海運を担当しました。大型タンカー建造ドック―当時は100万㌧ドックと言っていました―取材のため、北海道から九州まで造船各社の大型ドックを見て回りました。
一番下は外国為替
そのあと日銀クラブに回され、2年いました。入社8年間で、大蔵省、自動車・兵器、造船・海運、日銀の4分野を担当したことになります。それぞれ2年ぐらいのローテーションですね。あとで話しますが、日銀の次はワシントンに行ってくれと。
斎藤:日銀といういと何か難しそうですが、どんな取材をしたのですか。
坂本:日銀では国際金融、外国為替問題を担当しました。外為というのは変動相場制ですよね。毎日、1ドルいくらとレートが変わる。私が担当したとき、相場が物凄く動いて、円高方向に大きく振れました。1ドル200円台だったものが、180円ぐらいまで。その後200円台に戻りましたけれど、円高に円高にと動いたころです。
当時は、自動車、船舶、家電といった輸出産業が日本の基幹産業で、これらが日本経済を支えていました。円高は輸出にとっては採算上好ましくない。利益を確保するためには、輸出先市場で値段を上げなくてはなりませんから。そうすると競争力が落ちる。輸出企業にとっては大変なことで、経済界は大騒ぎでした。
メディアの方も「大変だ、大変だ」と、毎日のように、外為記事が紙面では大きなスペースを占めました。
市場介入で特ダネ
当時、時事の日銀クラブは4人でした。私はここでも一番下、割り当てられた分野は為替市場と国際金融でした。日銀で一番大事なのは金融政策の取材です。これは一番上のベテラン記者、キャップがやる。都銀など民間銀行を担当するのが二番手、三番目手の先輩たち。
そのころ国際金融は経済ではマイナーでしたから、一番下は為替を中心に国際金融をやれと。ところが、円高、円高で外為が大きなテーマになり、下っ端の私が特ダネを出す大チャンスに恵まれました。
日銀のあと、ワシントンに行かされますが、社は「あいつは国際金融が得意そうだから米国に出そう」と思ったようです。あのとき日銀にいなければ、ワシントンに行く機会はあったとしても、もっと後だったでしょう。
その特ダネ―日米通貨当局が市場介入協定を締結―の後追い記事が日経や読売の一面に載り、社長賞を貰いました。軍事を勉強するために「New York Times」とか「News Week」を読んでいましたから、読む方の英語はあまり問題ありませんでした。話したり聞いたりはダメでしたが。(笑)(続く)
(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区、早稲田大学早稲田キャンパス)
【坂本栄NEWSつくば理事長】