【コラム・田口哲郎】
前略
腸炎の症状も収まり、体調が良くなってくると、腹が減る。しかし、数日は絶食を命じられているから、水か茶を飲むことができるだけである。常にリンゲルを点滴されているから、渇きを覚えることはないが、病室は暖房が効いていて乾燥しがちなので、喉がいがらっぽくなることがあり、また口さびしくもあるので自販機で天然水を買ってきては、ちびちびと飲んでいた。
病院の食事は時間どおりである。朝8時、昼12時、夕方6時と決まっている。私は絶食だが、同室の患者は食事が出る。膳が運ばれてくると良い匂いが漂ってくる。仕切りのカーテンで見えないが、入院以来ありついていない食べ物の匂いと咀嚼(そしゃく)音が食欲を刺激する。
私は意識を逸(そ)らすために、家人に持ってきてもらった『宮澤賢治全集』を読むことに集中した。「ポラーノの広場」の最初に主人公のレオーノ・キューストがヤギの乳にパンを浸して食べる描写があり、余計に腹が減る。それでも読み進めると、イーハトーヴォの寒々とした美しい景色の中、ポラーノの広場で宴会が催されていると書かれている。
悪漢のデストゥパーゴが酒をたらふく呑(の)んでいる。ビール、日本酒、ワインを飲みたいと雑念が湧くが、頭を振って読み進める。
バイタル・モニタが警報を…
すると看護師が飛んで来た。まさか私も実は食事を摂(と)れるのに、手違いかなにかで配膳されていなかったのかと一瞬思ったが、看護師は真剣に「大丈夫ですか?」と訊(き)いた。私はよく分からずに「はい」と言ったが、看護師はまた「胸が苦しくないですか?」と言うので、「いいえ」と答える。
「ちょっと見せて下さいね」と私の上着をまくりあげると、「ああ、これだ」とため息をついた。私の胸に貼られていた、心電図を測るためのセントラルモニタのセンサーの吸盤が腹の方に落ちていた。どうやら空腹に耐えかねて胸の辺りを掻(か)いた時に外れてしまったらしい。
「心電図が異常だから警報が鳴ったんですよ」と、看護師は新しい吸盤シールで貼りなおしてくれた。慣れない器具がついていると何気ない動作でこんなことが起こってしまうらしい。忙しい看護師を図らずも呼び出すことになってしまい、私は申し訳なくなり謝ったが、看護師は気にしないという風に笑顔を見せてステイションに帰っていった。
私は空腹を忘れて、申し訳なさとともに、看護師の優しさをありがたく思い、見守られている安心を感ずることを禁じ得なかったのである。ごきげんよう。
草々
(散歩好きの文明批評家)