科学技術振興機構(JST、橋本和仁理事長)は16日、第12回「科学の甲子園ジュニア全国大会」で茨城県代表チームが優勝したと発表した。13日から15日まで、兵庫県姫路市の「アクリエひめじ」に各都道府県から選出された47チーム、282人の中学生が参加し開催されていた。県代表チームは並木中等教育学校(つくば市並木)と日立一高付属中(日立市若葉町)から選抜された混成チームで、並木中等の3人は全員が1年生(中学1年)だった。
「科学の甲子園」は高校生対象に2011年に始まり、中学生対象のジュニア大会は13年に創設された。全国の中学生が科学と実生活・実社会との関連に気付き、科学を学ぶことの意義や楽しさを実感できる場の提供を目的としている。
全国大会では、各都道府県から選出された6人が1チームとなり、理科や数学などの複数分野に関する知識とその活用能力を駆使してさまざまな課題に挑戦した。筆記競技、実技競技2種目の得点を合計した総合成績により、茨城県代表が優勝、2位に千葉県代表、3位に東京都代表が入った。県代表の優勝は、並木中等が単独参加した2014年の第2回大会以来10年ぶりだった。
今回のチームは並木中等の則包(のりかね)陽光さん(1年)、西端奏子さん(同)、村井秀次郎さん(同)と、日立一高付属中の古川美心さん(2年)、内藤美希さん(同)、桑原侑史さん(1年)とで編成。筆記試験は高校レベルの問題で、物理、化学、生物、地学、数学、情報の6分野に分かれるため、それぞれが得意科目を集中的に学んで大会に備えた。筆記競技の得点は明らかにされていないが、2位の成績だったという。
2課題で争われた実技競技では、食塩水と真水を入れた水槽に食紅を入れ、波立てて波長などを調べる第1課題で最高得点をたたき出し第1位を獲得。県代表はまた、女子3人以上を含むチームのうち、総合成績最上位のチームに与えられる女子生徒応援賞も獲得した。
チームを引率した並木中等の前田邦明教諭は「ここ数年並木中等は県代表にも入れないでいたが、いきなりの全国優勝。日立さんには何度かつくばに来てもらい事前対策を一緒にした。筆記試験の後、子供たちは自信満々になり手応えを感じていたようだ」と語る。
朗報に同校は沸き立っており、23日にも全校集会を開いて全国優勝を報告し、改めて表彰を受ける。(相澤冬樹)
10年ぶり「科学の甲子園」ジュニア大会で全国制覇 並木中等と日立一付属中チーム
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ドストエフスキーに魅せられて 清水正さんの軌跡《ふるほんや見聞記》5
【コラム・岡田富朗】元日本大学芸術学部教授の清水正(まさし)さんは、1949年に千葉県我孫子市に生まれました。清水さんが<批評>に目覚めたのは、小学生の頃と言えるかもしれません。時計の読み方を理解できなかったことがきっかけで、「<時間とは何か>を考えるようになった」そうです。
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怒りと悲しみを抱えて
かけがえのない人の死に立ち会いながら、怒りと悲しみを抱えて書き続けてきた清水さんが語った「書くことは祈りである」という言葉には、人生そのものを賭けて文学に向き合ってきた重みがにじみ出ています。
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清水さんは、大正4年(1915年)に我孫子に移り住んだ志賀直哉をはじめ、宮沢賢治、林芙美子などの批評も行っています。そのほか、「つげ義春を読む」「阿部定を読む」「世界文学の中のドラえもん」「今村昌平を読む」「宮崎駿を読む」「土方巽を読む」など、多岐にわたる著書を執筆されています。(ブックセンター・キャンパス店主)
卸業者がコメ2トンを土浦市に寄贈 子ども食堂や生活困窮者へ
コメの高騰が続く中、米穀卸売業の田島屋(土浦市上高津、田嶋光夫社長)が30日、2024年産の県産コシヒカリ2トンを土浦市に寄贈した。2キロ入りを1000袋用意し、同市社会福祉協議会を通じて市内の子ども食堂や生活困窮者に手渡される。
同社はコロナ禍の2021年と22年にも2キロ入り1000袋などのコメを同市に寄付し、コロナ禍で外出が難しい一人暮らしの高齢者や生活困窮者に配布された。
今回は創業170周年を迎えたことから、3回目の寄付となった。田嶋社長(75)は「40数年やってきて、これだけ値が高くなったのは初めて。今、備蓄米の話が出ていてどうなるかなと思っている。きちんとしたコメを皆さんに届けて、いろいろな場面でお使いいただけたら」と話す。
受け取った小林勉副市長は「21年、22年にも1000袋をいただいた。歴史がある田島屋様からおコメをいただけたことは本当にありがたい。コメの話は高騰、不足、備蓄米等々あるが、2024年産の新米のコシヒカリを、生活困窮者等、工夫させていただきながら、市民に温かい気持ちをお伝えしたい」と述べた。
7月6日、ひとり親家庭フードパントリーで配布
今後は、市内12の子ども食堂や、食品を無料で配布するフードパントリーやフードバンクを運営する団体などに要望を聞きながら、配布先や配布量を決める予定。コメは田島屋の冷蔵倉庫に保管し、配布が決まったらその都度届ける。
手始めに、市社協とシングルマザーを応援する「ママのホップ・ステップ・ジャンププロジェクト」が共催し、7月6日、市総合福祉会館で開く「ひとり親家庭フードパントリー付き大相談会」での配布を予定している。
田島屋は江戸時代末期の1855年創業。米穀卸売、精米加工、炊飯業、倉庫業などを営む。全国から集めたコメを保管、精米し、関東一円の小売店や飲食店などに卸している。土浦市上高津とつくば市上広岡に精米設備、つくば市寺具に精米設備と倉庫がある。今回、小泉進次郎農相が小売店やネット事業者などに販売する2021年と22年産の備蓄米に関しては、大手のスーパーから同社に精米の依頼がきているという。(鈴木宏子)
◆「ひとり親家庭フードパントリー付き大相談会」は7月6日(日)午前10時~午後3時、同大和町9-2 ウララ2ビル 市総合福祉会館4階で開催。参加希望者は6月2日~20日に申込を受け付ける。詳しくは土浦市社会福祉協議会のホームページへ。
茨城リーグ選抜が準優勝 全日本選手権、奮闘ぶり強い印象
少年硬式野球 挑戦の軌跡振り返る
5月の爽やかな青空の下、牛久運動公園野球場でひときわ輝いていたのは、悔しさをにじませながらも胸を張る茨城リーグ選抜の少年たち14人の姿だった。
少年硬式野球の「JA共済杯第13回インターミディエット全日本リトルリーグ野球選手権大会」が10、11日に同運動公園野球場で行われた。茨城代表チームは選抜メンバーを編成して大会に臨み、堂々の準優勝。あと一歩で優勝を逃したものの、その奮闘ぶりは、多くの関係者に強い印象を残した。
大谷翔平も 世界目指す第一歩
リトルリーグは、国内にとどまらず世界を目指せる数少ない小中学生の硬式野球組織。メジャーリーガーの大谷翔平や鈴木誠也もこの舞台から世界に羽ばたいた。
インターミディエットのカテゴリーはリトルリーグの中でも、走者リードやけん制が導入され、より本格的な野球が展開される。対象年齢は小学5年から中学2年まで。全日本選手権優勝チームは6月に台湾で開催されるアジア・パシフィック大会に日本代表として出場。同大会に優勝すれば8月に米国で開催される世界大会の出場権を与えられる。
冬の戦いから始まった
全日本選手権に向けて茨城リーグは、県内6チーム(牛久、常陸太田、常陸大宮、竜ヶ崎、友部、小美玉)からの選抜編成で臨んだ。
2月、まずは4日間の総当たり戦で腕試し。最も勝ち星を挙げた牛久スラッガーズのスタッフ陣が、選抜チームの指揮を託された。
そして3月。中学1年(当時)の4月~8月生まれを中心に4度の合同練習を経て、3月30日、14人の茨城代表が決まった。顔ぶれは、中1が12人、小6が2人。各所属チームで主力を張る選手たちが集結し、新たなチームが動き出した。
茨城リーグ選抜メンバー1 眞壁 陽大 中1 牛久スラッガーズ2 飯塚龍一郎 中1 龍ケ崎スターズ3 中島直太郎 中1 牛久スラッガーズ4 後藤 桜雅 中1 常陸太田山吹5 長島 岳 小6 牛久スラッガーズ6 萩原 唯月 中1 牛久スラッガーズ7 鈴木 心明 中1 牛久スラッガーズ8 朝 隆晟 小6 牛久スラッガーズ9 小澤 優智 中1 友部ジャイアンツ10 瀧本 渚 中1 友部ジャイアンツ11 戸塚 大智 中1 小美玉ジャイアンツ12 御鳴佑太朗 中1 常陸大宮レッドスピリッツ13 瀧 龍信 中1 常陸大宮レッドスピリッツ14 阿部 俊太 中1 常陸太田山吹
千葉と前哨戦
4月中旬、千葉リーグ選抜との東関東連盟代表順位決定戦が行われた。全5試合で2勝3敗。あと1勝が届かず、茨城は東関東連盟第2代表として全国大会に臨むこととなった。
だがこの経験はチームにとって決して無駄ではなかった。対千葉で痛感した「個の力と総合力の差」を乗り越えるため、選手たちはその後の練習にさらに熱を入れた。
決勝まで快進撃
5月10日。予選リーグ初戦の相手は九州北部。先発を任された戸塚大智(小美玉)が粘りの投球で試合をつくると、阿部俊太(常陸太田)、瀧龍信(常陸大宮)へと継投し、4-2で勝利。大きな初戦白星を手にした。
続く第2戦、相手は関西の強豪・兵庫。ここで主将の萩原唯月(牛久)が覚醒する。3安打3打点の大活躍で6-3と突き放した。投げては眞壁陽大、瀧本渚(友部)が“翌日も登板可能な20球までのリレーで3回まで2失点と試合を作った。4回から7回までは中島直太郎(牛久)がロングリリーフで試合を締め、予選リーグを2勝で通過した。
そして11日、晴天スタジアム美浦で行われた準決勝では、ワイルドカードで勝ち上がった兵庫と再び激突。御鳴佑太朗(常陸大宮)の2ランなど、打線が奮起し11-1の5回コールド勝ちで決勝へと駒を進めた。
決勝は再び千葉
午後、決勝戦の舞台は牛久運動公園野球場に戻る。相手は、前哨戦で惜敗した千葉選抜。投手陣総動員で挑んだが、千葉の強力打線を前に苦戦を強いられた。
結果は4-13の敗戦。準優勝という結果は、輝かしい戦績であると同時に、“あと一歩”の悔しさがにじむものでもあった。
監督の吉田明宏(牛久)は試合後「千葉の投手力は折り紙付き。どう打ち崩すかを考え、練習してきた。差を見せつけられた形になってしまったことが残念」と語った。主将の萩原も「一緒に台湾に行きたかった」と言葉を詰まらせながらも、「もうちょっとできたかなという思いがある」とチームメートを見つめた。
今回の全国大会では、14人すべてが打順に組み込まれる全員連続オーダー制での戦いが求められ、限られた打席とチャンスの中で結果を出す難しさと向き合った。
茨城の底力見せつけた
準優勝は、悔しい結果に違いはない。しかし茨城リーグ選抜は、結成からわずか1カ月半という短期間でここまでチーム力を高め、強豪千葉に真っ向勝負を挑んだ。その軌跡は、彼らの努力と結束、そして“茨城”の底力を見せつけるものだった。
敗れても、夢は終わらない。この舞台を踏んだ14人が、再び“世界”を目指す日が、きっとやってくる。
おさがり《短いおはなし》39
【ノベル・伊東葎花】
お気に入りの金魚の浴衣を畳みながら「来年は着られないね」とママが言った。私が着られなくなった服は、近所に住む従妹(いとこ)の物になる。従妹の楓は2つ下の6歳で、楓のお母さんの幸子おばさんは、ママの妹だ。楓は男の子みたいに乱暴で、私が大切に着ていた服をすぐに汚す。フリルがついたワンピースも、チェックのスカートも、全部泥だらけ。あまりにひどいので「もう楓ちゃんに服をあげないで」とママに言った。
「まあ、どうして?」
「だって、楓ちゃんすぐ汚すもん。それに、全然似合わないよ」「そんなことないわよ」
「そうだ。ネットで売れば? ねえママ、そうしよう」
「唯、そんな悲しいこと言わないで」
「じゃあ妹が欲しい。ママ、妹を産んで。私の服は妹のために取っておく」
「いい加減にしなさい」
ママが、珍しく大きな声で怒った。その夜、ひとりで泣いているママを見て、私はすごく反省した。その後、楓は叔父さんの転勤で遠くの町に行くことになった。
「お姉さん、唯ちゃん、今までありがとう」
幸子おばさんが楓を連れて最後の挨拶に来た。
「おばちゃん、バイバイ」
楓はママの胸に顔をうずめて泣いた。
「あらあら、甘えん坊ね」
幸子おばさんはママから楓を引き離すと、「じゃあ行くね」と背を向けた。
「唯が着られなくなった服、送るね」
ママが声をかけると、幸子おばさんは立ち止まった。
「お姉さん、おさがりはもういいわ。楓には、自分の好きな服を選ばせるわ」
何だか冷たい言い方だった。ママは「そうね」とうつむいた。
その日、ママはやっぱりひとりで泣いていた。ママの涙の理由を知ったのは、法事で親戚が集まった6月のこと。久しぶりに楓と会った。楓は1年生になっていた。大人たちの会話に飽きた私たちは、別の部屋でゲームをしていた。奥の部屋からボソボソと話し声が聞こえた。話好きの本家の大おばさんたちだ。
「楓ちゃんはすっかり幸子の子供だね」
楓の名前が聞こえて、思わず襖に耳を近づけた。
「それにしてもねえ、いくら妹に子供が出来ないからって、自分の娘を養女に出す? 犬や猫の子じゃあるまいし」
「よほどの事情があったんだろうね」
「そうだとしても、あたしは嫌だね。お腹痛めて産んだ子を養女に出すなんて」
「そうね。よく平気だね」衝撃的な内容に、私の心臓はバクバク動いて、気づいたら襖を開けていた。
「あ、あら、唯ちゃん、いたの?」
「しまった」と顔を見合わせる大人たちに、私は言った。
「平気じゃないよ。ママ、泣いてたよ。楓ちゃんの引っ越しの日、泣いてたよ」
言いながらぽろぽろ泣いた。大人たちはバツが悪そうに早足で部屋を出て行った。「養女って、なに?」
あどけない顔で楓が私を見た。
「知らない。楓ちゃんは知らなくていいことだよ」
私は、楓の手をぎゅっと握った。梅雨が明けたら、金魚の浴衣を楓にあげよう。きっと似合う。だって私の妹だから。
(作家)