【コラム・高橋恵一】土浦市立博物館が2022年春の特別展で、常陸国守護・八田知家は「筑後」に名字(名乗り)を変えたと解釈したことを、私はコラム47とコラム58で誤りではないかと指摘しました。それから2年経ちましたが、博物館は依然として訂正する気配がありません。小田氏は、初代知家が守護になってから約70年間、3代にわたって小田(現つくば市)を本拠地にできず、小鶴荘(笠間市)や小田保(宮城県涌谷町)を彷徨(さまよ)っていたことになっています。
茨城県史(1986年、執筆分担・網野義彦)では、知家が常陸国守護となって小田に築館し、小田を名字の地にしたとしています。知家が小田を本拠地としたことは、小田の居舘址や知家が建立した極楽寺跡からの発掘品からも明らかですし、知家が極楽寺に寄贈した銅鍾のことも知られています。系図にも、2代目は知重「号小田」となっています。
特別展「…常陸小田氏」で披露
小田氏が本拠地を置けず、名字を「筑後」と名乗ったとする説は、博物館長の糸賀茂男氏の論考(茨城県史研究61、1988年)から広まっているようです。①小田の地は、先に失脚して滅びた常陸平氏本宗・多気氏の影響力が強く、知家は多気(つくば市)に近い地域に入れなかった、②小田に本拠があったのならば、「筑後」と名乗らずに「小田」と名乗ったはずだ―という説は多気氏を贔屓(ひいき)する糸賀氏の思い込みです。
知家が「筑後」に名乗りを変えたという説は、特別展「八田知家と名門常陸小田氏」で大々的に披露されました。知家が「筑後守」に昇任したのを喜び、「八田氏」から「筑後氏」に名乗りを変えた―という解釈です。糸賀氏は、「吾妻鑑(あずまかがみ)」では知家の子供たちも「筑後」を名乗るようになったと記されている―としていますが、これは「吾妻鑑」の読み違いです。
漢文の吾妻鑑は読解が容易ではありませんが、近年、読み下し訳(監修・永原慶二)と現代語訳(編著・五味文彦、本郷和人ら)が発行され、専門家以外にも理解できるようになりました。同歴史書には人名記載のルールがあり、「名字+官位(官位のない場合は太郎などの通称)+実名」で記載され、位階が五位以上の者については、名字、通称を省略し、その子息は「親の官職の略称+子息の官位または通称」で記載されています。
NHK大河ドラマの主役・北条義時は任官後、「相模守あるいは相州」と記され、北条泰時(義時の嫡男)の場合、父義時が相模守に任官した後は「相模太郎あるいは相州太郎」と記されています。いずれも、吾妻鑑編纂者がルール通りに記載しているのであって、子供が「相模」と名乗った訳ではありません。当然、北条氏が名字を「相模氏」に変えた訳でもありません。
糸賀氏は、「八田氏」が名字を「筑後氏」に変えたと読んだとき、知家以外の高位の官職を得た御家人について、人名表記がどのような扱いになっているのか検証しなかったのでしょうか? 大江広元(大官令)や結城朝光(上野介)などの御家人は多数おり、すべて義時と同様に記載されています。類似例の検証はあらゆる研究の基本です。そうしていれば、「筑後」を名字(名乗り)と解釈する誤りもなかったでしょう。
刊行物や展示物は訂正が必要
ところで糸賀氏は、前述の論考発表のころから、市町村史や中世史本に積極的に関り、守護職の知家が小田に本拠を持てず、小鶴荘(笠間市)や小田保(宮城県)に拠点を求める説を展開しています。名字(名乗り)を「筑後」とする誤読を論拠として、間違った説を広めているわけです。
市町村史や自治体の刊行物、博物館の展示内容は、市民が最も信頼する情報です。郷土の歴史に関心を持つ子供たちは、こういった自治体史などから学習します。糸賀氏は、既刊の自治体の刊行物や博物館の展示内容を訂正すべきでしょう。(地歴好きの土浦人)