【ノベル・伊東葎花】

僕の初恋は、姉のお雛(ひな)様。
美しい着物と優しい顔に、僕は見とれた。
手を伸ばすと姉に「触らないで」と叱られた。
だからいつも見ているだけの片思い。

あれは、10歳の春だ。
ひとりで留守番をしていた僕に、お雛様が話しかけてきた。

「ねえ君、私のことが好きなんでしょう。こっちにいらっしゃいよ」

振り向くとお雛様が、切れ長の目で僕を見ていた。

「君は良い子ね。お姉さんが私に触るなと言ったら、本当に触らないのね。だけどね、そんなのつまらないわ」

お雛様が手招きしている。

「触っていいの?」

「もちろんいいわよ」

僕はゆっくり手を伸ばして、お雛様に触れた。

「きれいだな」

「ありがとう。お内裏様は、そんなこと言ってくれないわ」

「そうなの?」

「もともと愛なんてないのよ。政略結婚だから」

「政略結婚?」

「昔はね、自分の気持ちなんて関係ないの。家のために結婚するの」

「ふうん。可哀想(かわいそう)」

「君とのおしゃべりは楽しいわ。お内裏様は無口で、何を考えているのか分からないの」

「僕も楽しい。雛祭りが過ぎてもここにいてよ」

「ダメよ。君の姉さんが行き遅れるわ」

「そうなの?」

「昔からの言い伝えよ」

お雛様は3月4日になるとすぐに、片付けられてしまった。
1年が待ち遠しい。早く会いたい。想(おも)いは募るばかりだ。

そして再び桃の季節がきて、お雛様が飾られた。
お雛様は、また僕にだけ話しかけてくれた。

「あら、少し大きくなったわね」

「もう5年生だよ。ねえ、触っていい?」

「いいけど、ちょっとだけよ。お内裏様がヤキモチ焼くから。彼、意外と可愛いの」

「えっ、政略結婚なのに? 無口でつまらないって言ってたよね」

「本当は優しいの。不器用なだけよ。簡単に愛を口にする人より信頼できるわ」

隣に並ぶお内裏様が、赤い顔で照れていた。
どうして? いつの間にか仲良しになっている。

「君も、いつか分かるわ。ほら、姉さんが来るわ。早く戻して」

僕は姉に叱られる前にお雛様を戻して、ため息をついた。
初恋は実らない。相手は人妻だ。

やがてお雛様が飾られることはなくなった。
姉は、言い伝え通り早くに嫁に行き、男の子3人の母になった。
僕も結婚して、女の子が生まれた。
女の子が生まれたら、姉のお雛様を譲ってもらおうと決めていた。

「えー、あんな古いのでいいの? あんた、よっぽどお雛様に触りたかったのね」

姉がコロコロ笑った。

初節句に、妻と2人でお雛様を飾った。
お雛様はもう話しかけてくれないけど、やはり美しい。

「素敵ね。お雛様もきれいだけど、お内裏様も凛々(りり)しいわね」

「本当だ。お似合いだね」

僕たちは毎年お雛様を飾った。
娘はすくすく成長し、もうすぐ小学生だ。
一緒にお雛様を飾っていた娘が、首を傾(かし)げながら言った。

「ねえパパ、政略結婚って、なに?」

(作家)