【コラム・平野国美】私は休日に商店街を歩くのが好きです。ショッピングとかでなく、ただ、何かあれば店に入ってみたり、古い純喫茶に入ってみたり―と。外国にはそれほど行ったことはありませが、自分も商店街育ちのせいなのか、日本の商店街が好きなのです。そこでは、その町の庶民文化を味わえますし、「昭和」にトリップができる気もするのです。

しかし、シャッター通り=歯が抜けたように消えていく商店街=が、最近では目立つどころか、ほとんどが消えていくのです。今、日本で活性化している商店街は、以前の数パーセントと言われています。最近では、シャッター通りは取り壊されたか、かつて商店街であったとは思えないような住宅街へと変わりつつあります。昔の「商店街」は博物館入りになるのでしょうか?

こういった痕跡を歩くのは、趣があって楽しいものです。先日、四国のある商店街を歩いていると、聞きなれない天地真理の歌がスピーカーから流れてきました。歌詞をスマホで調べると、「若葉のささやき」(1973年3月21日発売)という曲で、小学2年生だった50年前にトリップできました。

フランスなどの洗練された商店街も美しいのですが、どこか物足りなさを感じます。それは、文字表記がアルファベットということだけではありません。今、海外のしゃれた商店街と日本の猥雑(わいざつ)な商店街を比較すると、構造的にも文化的にも、日本らしさというものがいくつも見えてきます。

「町中華」「純喫茶」「レトロビル」

以下、私の「商店街」論です。昭和の人情商店街は消えていく運命なのか?についても、考えたいと思います。

残るものか?残らぬものなのか? それはわかりません。しかし数は減少していくでしょう。歩きながらその現実を見ると、消えていく運命なのだと思えてきます。一方で、「町中華」とか「純喫茶」とか「レトロビル」といった言葉が生まれてくる背景は何なのでしょうか?

商店街の見方、楽しみ方はいろいろあると思います。私は、その空間や形態に魅力を感じております。また、その発祥や由来など歴史的な流れに目を向けると、見えてくるものもあります。それがわかると、消えていく理由も見えてきます。

一方で、活気がある商店街の裏側を眺めることができたとき、「そういう商店街の存在の仕方もあるのだな」と感心するのです。上の写真は、私が好きなアーケード街(左、市場由来の那覇市の中央通り)、曲線が美しい商店街(右、瀬戸市の銀座通り)です。(訪問診療医師)