【コラム・奥井登美子】震災にあった石川県の中学生が、高校受験に備えて集団で移住するニュースを見たとき、私たちが6年生のときに強制疎開させられたことを想い出し、涙が出そうになってしまった。

「小学3年生から6年生まで全員、東京にいてはいけない。疎開しなければならない」

「来年3月の中学受験、僕は都立しか受けたくない」

「私も、都立を受験したいわ」

「皆、方々に疎開してバラバラになってしまうけれど、受験の日には逢えるね」

「受験の日に逢いましょう」

6年生のクラスメート全員、受験の日に逢うという堅い約束をして別れたのだった。

受験日は3月12日。運命の日、東京大空襲が3月10日。約束を守って、東京へ帰ってきた人は、東京大空襲に巻き込まれてしまった。約束を守れない私は、疎開先の長野県飯田の県立女学校を受験して無事だった。

有楽町駅のものすごい臭い 

1946年の冬休み。父は「あなたに見せておきたいものがある。今から東京へ帰るから、一緒に行こう」。

父の会社「尚榮精機株式会社」は銀座西8-1にあった。米国から電気冷蔵庫など、日本にはない電気器具を輸入して売っていたが、米国との戦争で輸入どころではなくなってしまって、江戸川区の平井に工場を造って、戦争中は電気器具の修理などをしていた。

父の銀座の会社は、幸い焼け残っていたので、私はそこへ泊って、新橋、有楽町あたりを毎日見て回った。

焼け野原になってしまった東京。残った建物も、爆弾の熱風でカラスが吹き飛んでしまい、どのビルも窓に新聞紙が張りつけられていた。爆風と一緒に吹いてきたガラスの破片が体に突き刺さって、出血多量で亡くなった人も多かったらしい。

私がびっくりしたのは有楽町駅の臭いである。この駅は銀座の繁華街に近いので、特別厚いコンクリ―工事が施されていたという。空襲のとき、頑丈なコンクリートの駅舎にたくさんの人が詰めかけたらしい。そのまま全員蒸し焼きになってしまった。

敗戦の夏。暑さの中で、その人たちの、コンクリートに染み込んだ脂肪や血液が発酵・蒸発し、駅全体が表現の仕様がないような、ものすごい臭いになってしまっていた。

私は、臭いが怖くて有楽町駅に行けなくなってしまった。小学校の同級生は一体何人生き残ったのだろうか?(随筆家、薬剤師)