【コラム・川端舞】私は自分の気持ちを瞬間的に話すのが苦手だ。相手に伝えたいことがあっても、「本当に今、伝えるべきことなのか」「どんな言葉で伝えたら、分かりやすいか」「相手はどう反応するか」など、実際に言葉にする前に考え込んでしまう。
結果、伝えるタイミングを逃し、ひとりで苦笑いすることも多々ある。それでも、どうしても伝えたいときは、後日、「あのときの話なのですが…」と、終わった話を蒸し返すこともあり、周囲からすれば非常に面倒な人間だろうと思う。
子どもの時から言語障害とともに生きてきた影響もあるのだろう。ある程度、私とのコミュニケーションに慣れている人は、私が何かを話すと、一生懸命、私の不明瞭な発音を聞き取ろうとしてくれる。もちろん、それはうれしいし、私が人と話すために不可欠な配慮なのだが、数人で話している場合、周りがなかなか私の言葉を聞き取れないと、それまでスムーズに流れていた会話が、一旦(いったん)止まってしまう。
周りはそんなことを気にしないだろうとは思いつつ、自分の言いたいことは会話の流れを遮ってまで伝えるべきことなのか、無意識に考える自分がいる。
もちろん、「会話の流れを遮る」という発想自体が、「話す」「聞く」に障害のない人間を前提にしたもので、誰もが安心してコミュニケーションがとれる社会にするためには、「会話はスムーズに進めるべき」という考え自体を変える必要があることは頭では理解している。
だから、周りで流れるように進んでいる会話に割り込み、聞き返されるリスクを負ってまで、くだらないジョークを言える言語障害者を私は尊敬する。
無責任な言葉が多すぎる
日常会話ではそれほど自分の言葉に責任を持つ必要はないのかもしれない。だが、誰かを傷つける危険性のある言葉は別だ。特にSNS上では、責任の持たない言葉が多すぎる。
時に言葉は魔力を持つ。誰かの一言が、絶望しかけた人に「もう少し生きてみよう」と思わせることもあれば、無自覚の悪意から吐かれた一言が、世間の差別意識を増幅させ、生と死の狭間(はざま)で懸命に生き延びてきた人を、死の方向へ引っ張ってしまうこともある。その魔力に気づかないまま、無責任な言葉をばら撒(ま)いている人が多すぎる。
本来、SNSを含め、不特定多数の人に向けて発する言葉には責任が伴うはずだ。ライターの端くれとして、自分の言葉には責任を持ちたいと、誹謗(ひぼう)中傷が当たり前のように飛び交うネット社会の中で改めて思う。(障害当事者)