【コラム・奥井登美子】私が土浦に嫁に来て初めてのクリスマスの日。夫には2人の兄がいて、クリスマスの日は全員集合だった。教会へ行く前、家で男3兄弟、私に歌ってくれたのが「♪ 清、♪ この野郎、星は光 ♬」。夫の名は清。彼は「清、この野郎」などと言われているのに、実にうれしそうな顔をして、一緒に歌っているではないか。

私は大笑いしながらも、2人の兄が彼らなりに、一生懸命、弟を育ててくれたのだという事実を、痛いほど知ってしまったのだった。清は幼年期に重い肺炎になり、小学校の入学を2年も遅らせたひ弱な子供だったらしい。

長男の誠一兄は、私が学生時代、青酸カリや砒素など毒物の「裁判化学」という教科の先生。「弟と結婚してやってくれ」と、私を口説いたのは本人でなく兄だった。

私の学生時代。東京薬科大学女子部は上野にあったので、東大の先生が何人も講師に来てくれていた。兄もその1人だった。兄は東大卒業のとき、天皇陛下から恩賜(おんし)の刀を頂いたくらいだから、成績もよかったのだろう。その後、東北大学に薬学部を創設し、45歳であっけなく亡くなってしまった。次男の勝二兄は千葉大学病院の外科医で、がんの手術が得意だったらしい。

医師会ならこちらもイシ会です

日本の外科の歴史を考えると、フランス人のアンブロワーズ・パレの著書が、オランダから入ってきたのが始まりだった。パレの生誕400年祭の際、パレ生地の公園に、日本医師会から「日本の伝統工芸品の石灯籠を贈りたい」という東大の盛岡恭彦先生。先生にはパレに関する著書も多い。

「医師会ならこちらもイシ(石)会です。イシ会として協力させていただきます」。真壁町の加藤征一さんが伝統工芸品の春日燈籠を作成、1991年1月、真壁の五所駒ヶ瀧(ごしょこまがたき)神社での荘厳な贈答式が行われた。

勝二兄は、この石燈籠が気にいって、同じものを自分の家の庭にも設置してもらい、日本の外科学の歴史を偲(しの)びながら仕事に励んでいたが、3年前、宇宙に飛び立ってしまった。生前、この燈籠は「僕が生まれて育った家に移してほしい」と言っていたとか、加藤さんが伝統工芸師の息子さんと2人で、千葉から土浦に移築してくださった。

この間、兄の命日に、「石燈籠を見ながら、奥井勝二さんを偲ぶ会」を我が家の庭で行った。パレの資料など読みながら、兄の96歳の天寿を祝して、楽しい語らいの場であった。(随筆家、薬剤師)