【コラム・オダギ秀】若かった頃だが、ボクが珈琲店でのんびりしている時に、後から彼が入って来た。彼とは別に交流があったのではなかったが、ボクは彼の俳句が好きで、ボクがそれをその場で諳(そら)んじたことから交際が始まった。彼は土浦市にいた俳人。「葦枯れ村」など著書も多く、門人の数は数え切れないほどだった。撮影させていただいた方は数えきれないほどいるが、いつまでも心に残っていて、ファインダーに浮かぶ方は少なくない。彼もそのひとり。
彼の部屋を訪ねると、ここは書斎ではなく作業場だと笑っていたが、原稿用紙の束や文学書、辞書の類がうず高く積まれ、(当時はパソコンでなく)ワープロが2台とコピー機がデンとしていた。俳句誌「城」を主宰していた。そして彼は、俳句に熱心になったのは、病気になったから、と言った。
「若い頃、肺結核にかかりましてね。今はどうということないですが、その時は、目の前が真っ暗になった気がしました。入院するので本屋に行き、何か本がないかと探しても何もない。で、1冊売れ残っていたのが、この本だったんです」。彼は書棚から、古びて茶褐色になった本を取り出した、岩波文庫「一茶俳句集」。彼は、この本に人生が変えられてしまった、と語った。
「病気にかかったので、よかったと思う」
療養生活なんて何もすることないし希望もなかった。見舞いに誰か来てくれて、ゆっくり静養しろなんて言われると、かえって焦る。そして手術。当時の手術は、失敗が多かった。その寂しさ、取り残される気分はやり切れなかった。仕方なく、その本ばかり読んでいたという。「われときて遊べや親のない雀」なんて共鳴したそうだ。それから俳句にのめり込んでいったという。
「病気にかかったので、よかったと思う。それがなかったら俳句の道も知らず、仕事して定年を迎える味気ない人生だったろうと」。「俳句を通じて、たくさんの人とめぐり会えた。これがうれしい。苦しい病気のおかげで人生が変わったし、売れ残りの本が、その転機を作ってくれた。人生、どんなささいなことも大切にしなきゃならないと思います」
彼の句集は、いつもボクの枕元に置いてあるが、そろそろあの一茶句集のように古びてきた。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)