【コラム・川端舞】どの性を好きになるかという「性的指向」や、自分の性をどのように認識しているかという「性自認」を、本人が誰かに打ち明けることを「カミングアウト」と言い、誰かの性のあり方を本人の同意なく第三者に暴露することを「アウティング」という。

自身もゲイであることを公表しているライターの松岡宗嗣さんは「あいつゲイだってーアウティングはなぜ問題なのか?」(柏書房)で、アウティング問題の本質に迫っている。

この社会は、出生時に割り当てられた性と性自認が一致する「シスジェンダー」、異性の相手だけを好きになる「異性愛者」しかいないことを前提に、あらゆる制度や文化がつくられている。その人の性的指向や性自認は、本人にしか分からない。

そして、性のあり方は誰にとっても大切な個人情報なのだから、誰に伝えるかどうかは本人が決めればいい。それなのに、本人から性的少数者だと名乗らない限り、勝手に「シスジェンダー・異性愛者」だと決めつけられ、日常会話が進んでいく。

時には、その場に当事者はいないと思われ、性的少数者に対する差別的な発言を周囲から悪気なく浴びせられる。そんな社会だから、性的少数者にとってカミングアウトはとても勇気のいることで、アウティングは当事者から時に生きる気力をも奪うと、松岡さんは指摘する。

共通項は「社会モデル」

常に車いす姿の私を見れば、初対面の人でも、良くも悪くも、私を障害者だと認識し、私の前では障害者を傷つける発言は控えるだろう。だから、周囲から無意識に発せられる差別や偏見を空気のように吸わされる性的少数者の痛みは、おそらく私には分からない。

しかし、「多数派」とされる者たちが生きやすいようにつくられた社会で、そこから外れた者は自ら声を上げなければ、存在すら無視され、生きづらさを押しつけられる構造は、性的少数者も障害者も同じだ。

差別や偏見がある社会だから、アウティングが性的少数者の生死に直結する問題になるという松岡さんの指摘はまさに、障害者が生きづらいのは障害者個人のせいではなく、その存在を想定してつくられていない社会の仕組みに問題があるのだという「障害の社会モデル」と全く同じ考え方だ。本の中でも「社会モデル」が引用されている。

社会はそう簡単には変わらないし、異なる属性のマイノリティ同士が連帯して運動するのも容易なことではない。しかし、同じように社会の「当たり前」を変えていくなら、協力しないのはもったいないと私は思う。(障害当事者)