【コラム・先﨑千尋】先月26日、私が住んでいる常陸農協瓜連支店が店を閉じ、今月6日に「ふれあいプラザ瓜連」に替わった。私はこれで、この地区(旧瓜連町)から農協がなくなってしまった、と思った。ATMはそのままで、購買品は取り扱うというものの、農協としての機能は隣接の那珂支店に移行された。同農協管内では、同日に山方支店、水府支店もなくなった。

今回の店舗再編計画は、茨城県内農協の本支店体制整備方針(2014年策定)により、貯金や共済で一定の事業量がない支店を統合するというもの。県全体では192店舗を105店舗にほぼ半分に減らし、常陸農協でも10店舗が消える。農協も経営環境が厳しくなり、赤字店舗を減らすということだ。

旧瓜連町管内ではすでに常陽銀行が撤退し、金融機関として残っているのは郵便局だけだ。ATMやコンビニがあり、キャッシュレスの時代だから、1日に10数人程度の来客しかいない店は残さないという方針は、経済原則では当たり前のことかもしれない。だが、私には寂しさが残る。

農協という組織の前身は産業組合で、産業組合法は1900年に成立している。資本主義経済の中で、農民は経済的に弱い立場にあった。弱い者でも集まれば強くなると先人たちは考え、信用、購買、販売の組合をつくった。共済事業は戦後始まった。

農協に行けば用が足りた

瓜連町地域では、1933年に保証責任静村信用販売購買利用組合(静村産業組合)が誕生し、水郡線静駅前に事務所、倉庫を建てた。その時、敷地内に、協同組合の元祖である二宮尊徳(金次郎)を祀(まつ)った報徳神社も建立している。同組合は、戦時統制経済のもとで「農業会」と看板を塗り替え、戦後の1948年に「農業協同組合」となった。

静村は無医村地域だった。そこで産業組合の先人たちは、組合主導で国民健康保険組合を設立し、診療所を開設、無料診療を実施した。戦後は農協が引き継ぎ、茨城県協同病院静村分院となり、医師と看護師が常駐し、往診まで行った。県内で診療所を持つ農協はここだけだった。

静村農協はそれだけでなく、理髪所を持ち、澱粉(でんぷん)工場、製粉製麺所を経営し、肥料・農薬などの農業資材だけでなく、酒や塩、切手も含めた日用品も販売していた。葬儀用の祭壇もいち早く備え、葬儀があれば貸与していた。とにかく、農家の暮らしに必要なものは農協に行けば用が足りた。私が子どもの頃、床屋は農協以外にはなかった。農協の総会のあとは演芸会があり、年寄り、子どもまでが芝居や漫才などを楽しんだ。

酒は四斗樽(たる)から量り売り。あとで聞いた話だが、宿直に当たった職員が寝しなに少し酒樽から失敬し、その分、水を入れてごまかした。それが続くと酒がだんだん薄くなり、売り物にならなくなってしまったとか。

頭で分かっていても寂しい

同村農協は、このように県内でも最先端を行く活動を展開していた。1953年には「茨城農政研究会」が結成され、「茨城農民自由大学」を開いた。この活動にも農協青年部の活動家が積極的に関わり、近藤康男、山川菊栄、住井すゑ氏らを講師に招き、多くの聴衆を集めた。

このような先駆的な活動を行ってきた農協が消えてしまう。農業が衰退し、今や農協に頼らなくとも生きていける。必要でないものはこの世から消え去る運命なのだと頭で分かっていても、やはり寂しい。(元瓜連町長)