78年前の1945年6月10日、阿見町にあった土浦海軍航空隊が米爆撃機B29による空襲に見舞われ、10代の予科練生と教官、民間人ら計374人が犠牲になった。6月10日を前に元予科練生2人に話を聞いた。
阿見町 戸張礼記さん(94)
阿見町在住の戸張礼記さん(94)は1928(昭和3)年生まれ。旧制土浦中学校に進学した41年の12月、ラジオの放送を聞いて「ぞくっとし、震えた」と当時を振り返る。「大本営陸海軍部発表12月8日6時。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米・英軍と戦闘状態に入れり」。ハワイ真珠湾攻撃を伝える放送だった。44年6月、「海軍飛行兵徴募」のポスターを見て応え、土浦海軍航空隊に甲種第14期飛行予科練習生として入隊した。
予科練では学科のほか射撃、水泳、短艇(カッター)、グライダーなど厳しい訓練を受けた。軍人精神を注入するため「バッター」と呼ばれる棒で叩く制裁があった。モールス信号を聞き取る無線通信の授業では、1分で80字を聞き取らなければならず、1文字間違うと1本バッター、3文字間違うと3本バッターと罰があった。
練習生は大きな風呂に皆で入った。隠していても皆、尻が紫色になっているのが分かった。「こんな調子だからすっかりぶるってしまった」。戸張さんは土浦中学の滑空部でグライダーの心得があったため、グライダー訓練は得意で楽しかったが、カッター訓練は長くて重いオールを合わせて漕がねばならず、尻の皮がむけるほどで辛かったと話す。
やがて特攻が発令されるようになる。一つ上の13期予科練生は神風特別攻撃隊や回天特別攻撃隊として、戸張さんより2カ月早く入隊した14期の1次隊は木製モーターボートで敵艦に体当たりする震洋特別攻撃隊として、体当たりの攻撃を任務とする部隊に配属される。

戦局は悪化していた。本来は1年で卒業するが、途中で予科練教育が凍結された。戸張さんは10カ月で予科を終え、翌45年3月、本土決戦要員として青森の部隊に転属される。航空機に乗ることはなく、7月には青森の大湊特別攻撃陸戦隊に転属となり、本土上陸を想定した特攻、対戦車攻撃の訓練をした。
45年7月、戸張さんら14期2次隊も、青森県の海岸にある大湊兵団の土龍特別陸戦隊の特攻隊員となった。掘った穴に爆雷を抱えて隠れ、敵の戦車もろとも自爆するのが任務で、爆雷に見立てた六角柱を持って穴に入り日々訓練した。「敵が上陸してきたことを想定し、海岸で直径80センチのタコつぼと呼ばれる穴を掘って爆雷を突っ込む練習をした。まさに墓穴を掘った気持ちだった。とにかく体ごとぶつかって死ねばいいのだろうと思っていた。国のために、家族を守るために戦いたいという気持ちと、死にたくない気持ちと、両方あった」。
8月、広島、長崎に原爆が落ちた。とてつもなく暑い日だった15日、朝から汗みどろになって対戦車攻撃の訓練をする中、緊急の総員集合の命令が出て幕舎前に集まり、玉音放送を聞いた。聞き慣れない抑揚の高い声が聞こえ、雑音がひどかったが「戦いを終わらせたい」という意味は理解できた。「これで家に帰れる、よかった、という安堵感も感じたが、卑怯(ひきょう)でひそやかなものだった」と戸張さん。
同期に死んだ者はなく、全員生き残った。武装解除の作業があり、気が抜けたようになりながら大湊から汽車に乗った。途中仙台で一泊し、8月30日、自宅に帰った。家の前に立ち、しばらく呆然(あぜん)としていたら、母がやって来て号泣したという。
かわいそうだと思われるのが嫌なんだ
戦後復員すると「お前らがしっかりしないから日本は負けた」と言われた。「まるで国賊扱いだった。予科練にいたことを誰も黙ってたよ。特攻くずれ、予科練くずれなどとも言われた。アメリカの宣撫(せんぶ)工作で慣らされた影響があったと思う」と言う。「アメリカ兵に群がってチョコレートをもらい大喜びする子どもたちを見て情けないと思ったが、でもへこんでいられない。明日食べるものがなく、いかに生きのびるかを考えていた」。
戦後、価値観は180度変わった。「予科練にいたことを家族にも誰にも話さなかった人もいるが、予科練でひどいことをやられたととらえてほしくない。かわいそうだと思われるのが嫌なんだ。その時は皆、成し遂げることに誇りと喜びを持っていた。教員がバッターで殴るのは恩情からだったし、殴られる方も自分が守れなかったからという気持ちで耐えていた。過酷さやひどさを強調してほしくない」と言う。
「小学1年の国語の教科書に『ススメ ススメ ヘイタイススメ』が載っていた。中学3年の時には武装してわら人形を突き刺す練習が正課の中にあった。教育ではなく洗脳だった」と戸張さんは話し、そういった教育の中で優等生であろうとし、憧れを持って予科練に入ったという。
戦後、教員となり39年間、小中学校に勤めた。現在、阿見町の予科練平和記念館の歴史調査委員でもある戸張さんは「学ぶのは平和に生きる力を身に付けるため。平和を守る思考力、平和に生きるための判断力、平和を実現するための表現力を磨いてほしい。人災は止められる。戦争は人災。道徳、仁徳を持ち、戦争を起こさないでほしい」。令和の子どもたちに平和のバトンを渡し、伝えたいと語る。(田中めぐみ)
続く