【コラム・阿部きよ子】里山は人間の暮らしと関わって育まれてきた環境です。過去から学び、この里山を未来に受け継ごうと、私たちは「宍塚の自然と歴史の会」の名で活動してきました。
土浦市宍塚と上高津にまたがる「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」は数千年の歴史を体感できる貴重な場所です。特に、史跡公園南東部のドーム型建物の中は見逃せません。ここには、A地点貝塚の1991年調査区(1メートル×3.75メートル)の壁面が展示されているのです。
ヤマトシジミを主とする貝殻の層が、土器片、骨などをはさみながら斜面にそって堆積し、貝層下部に土器片がまとまる部分があり、その下に土の層が続いています。下の層から縄文時代中期の4500年前頃、貝層最上部で3000年前頃の土器片が出土しました。貝層下部にまとまる土器片は4000年前頃のものです。
長い縄文時代の中の1500年間、貝の廃棄開始からでも数100年以上の、この地での暮らしの痕跡が目の前にあるのです。
私はこの調査に、協力員として参加することができました。調査員が狭い発掘区に入り、上から少しずつ水平に掘り進め、5センチの深さごとに、土、貝、遺物全てを回収しました。長方形の穴の深さが1.5メートルぐらいに達したとき、目を見張る事態が起こりました。底に、切断された鹿の頭骨、鹿角、優美な模様の土器片などが敷き詰めたかのように出現したのです。
調査団長の慶応大学鈴木公雄教授が「この下には貝はないだろう」とおっしゃいました。その言葉通り、その下では、多少の土器片は出土しても貝は出ませんでした。
再生を祈る「送り場」
この地の縄文人は場所を定めて、大切だったものを置き、その上に長期間にわたり少しずつ貝などを堆積させていったと考えられます。アイヌ民族は、地域により方法は多様ですが、廃棄するものすべてに感謝と再生祈願の「送る」儀礼を行ったそうです。この地の縄文人も、定めた場所に使用済みの「お宝」を並べて、何らかの儀礼を行ったのではないでしょうか。
この貝塚は自然の恵みに感謝を捧げながら、廃棄するものたちの再生を祈る「送り場」だったと私は考えています。この調査で出土した物は、土器片はもちろん微細な魚骨から石ころまで、詳しく調ベられてきました。ぜひ、併設の考古資料館の展示もご覧ください。この地に生きた縄文人からの伝言や謎かけに、耳を傾け、今後の里山について考えましょう。(宍塚の自然と歴史の会 会員)