【コラム・田口哲郎】

前略

宗教とはなにか? この問いは人類の歴史の始まりからあるようで、そういうわけでもないのです。もちろん、太古の昔から宗教はありました。古代ギリシアの叙事詩『イーリアス』は壮大な神話ですが、それゆえに人びとの信仰の書でもあります。ヘブライ語聖書のなかの『雅歌』は男女の恋愛詩ですが、それが神と人間のあいだの愛として読まれて、ユダヤ教、キリスト教の聖典に組み込まれました。

こうして人間はその始まりから宗教をつくり、信じてきました。そして、むかしからの宗教は身のまわりの共同体で育まれて、そこで生まれた人は祖父伝来の宗教を信じるというのが当たり前の時代が長く続きました。ヨーロッパのキリスト教とは事情は違いますが、日本も江戸時代までは、家に氏神があり、村に神社と寺があり、小さな共同体での宗教がありました。

実は新しい「宗教」という考え方

でも、近代になると状況が変わります。社会が変化して、いわゆる国民国家が成立すると、共同体をたばねていた宗教がわきに追いやられ、全国区の「宗教」が打ち立てられます。空気みたいに当たり前だった宗教を人びとははじめて、客観的にとらえるようになります。

そのときに「宗教」という言葉が新しい意味を持ち、国民に広く普及するようになりました。ですから、宗教とはなにか?という問いも実は、何千年の人類の歴史のなかでは、せいぜい200年程度のものですから、新しいものといえるでしょう。

さらに現代はむかしと違って、信教の自由がありますから、人びとは意識的に「宗教」に自由に入ったり出たりできるはずです。そうは言っても、信仰の問題となると、トレーニングジムに入って出るという具合に簡単にはいかないものです。それは信仰が人間の本質にかかわるものであり、じつは政治・経済よりも重要だからでしょう。

キリスト教のイエスは「人はパンだけで生きるのではない」と言いました。つづく部分は「神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」です。これは、信仰さえあればお金なんていらないという話ではありません。人間にはパンがどうしても必要だけれども、それだけではなく信仰も必要だということです。

なぜ信仰が必要なのか? それは信仰とは身も心も神にゆだねることで、明日のパンを心配する必要はない、必要なものは与えられるよ、という安心感を与えるためです。「宗教」は人間がしあわせになるためにあるべきですし、それは不安を少しでもやわらげることでもあるでしょう。

人間が長い年月をかけてつくってきた「宗教」が時代とともに変わるべきところは変わり、変わるべきではないところは変えずに、より多くの人びとをしあわせにできることを神(あるいは超越者)は望んでいるに違いありません。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)