【コラム・田口哲郎】
前略
東京で桜の開花が宣言され、21日にははや満開。茨城県南の桜も咲き始めましたね。これからがとても楽しみです。毎年、この時期になると街のいたるところで桜が咲きます。満開もすばらしいですが、散りぎわも美しいです。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
(この世に桜がなかったならば、春の気分はおだやかだろうに)
これは有名な在原業平の歌です。古代から日本人は桜を愛してきました。桜の花の咲き方は日本人の心を表している、なんて言われます。桜を見ながら、何もむずかしく考えなくても湧いてくる素直な感動、これが日本人の心というものなのかな、と思ったりします。
それにしても、日本人の心とはなんでしょうか? それについて深く考えたのは、前回も取り上げました作家の遠藤周作です。
いろいろなものを仕立てなおしてきた日本人
遠藤周作は多くの作品を通して、日本人がいかにキリスト教と向き合ってきたのかを追究しました。遠藤は、キリスト教という西洋の宗教は日本人である自分の体にはそのままではなじまないものだと考えました。だから、キリスト教を日本人の自分になじむように仕立てなおすと言いました。
この言葉を思い出すたびに、日本人の心とはなんだろう、と思います。日本人は古来仏教をはじめ、いろいろな宗教を取り込んで、それらを共存させてきました。神仏習合はその典型でしょう。そういった柔軟性を持ち合わせている日本人ならではの発想が遠藤の「仕立てなおし」なのでしょうか。
普段、当たり前だと思っている日本人的な心について、桜も遠藤周作も気づかせてくれますね。おだやかに桜を楽しみたいと思います。ごきげんよう。
草々
(散歩好きの文明批評家)