【コラム・田口哲郎】
前略

J:COM茨城で放送されている「泉秀樹の歴史を歩く」アーカイブの今月の番組は「遠藤周作『聖書』をゆく」です。以前書きましたが、泉さんは若いころ産経新聞の文芸担当をしていて、遠藤周作と知り合います。昭和41年(1966)のことで、遠藤は代表作『沈黙』を執筆した直後でした。遠藤周作はカトリック作家としての地位を確立し、ぐうたらシリーズ、狐狸庵先生シリーズなどのユーモア・エッセイで一世を風靡(ふうび)していました。

その後、泉氏はフリーのライターとなり、遠藤と親交をさらに深めます。そして昭和44年(1969)に、エルサレムへの遠藤周作の取材旅行に同行します。今月の番組「遠藤周作『聖書』をゆく」はこのエルサレム旅行の模様を中心にすえています。

きびしい神の沈黙とやさしい神の愛

エルサレムはキリスト教の始祖イエスが宗教家として成長し、最終的に十字架にかけられた場所です。聖書のクライマックスの舞台を遠藤周作はカトリック信者として、そしてカトリック作家として旅します。エルサレムは砂漠のなかにある都市です。まわりは荒地でとてもきびしい環境です。このきびしい世界こそが、イエスが生きたユダヤ社会の神、つまりユダヤ教の神ヤーウェのきびしさを生み出したのではないか、と遠藤は考えていました。

そのユダヤ教の改革者としてイエスは生き、そして保守的な人々と対立し、無実の罪で処刑されました。これはとても悲しい出来事です。イエスの弟子からしたら、師匠がみじめに処刑されたなんて、なんとも救いようがないことだったでしょう。しかし、イエスは不思議なことに復活して救い主になります。こうしてキリスト教が生まれました。

この沈黙と見えるみじめさのなかの希望は、なにもイエスの復活物語だけのことではないのです。歴史的なむごい出来事の前にも神は沈黙する。たとえば戦争が起きて、無数の悲劇が繰り返されて終わりません。それについて神は沈黙しているのではないか? 遠藤は神はなぜそんなことをするのか、と考えます。人間の罪を責めて、罰を与える神、きびしい神だけしかこの世にはないのか?

遠藤の答えは、神はきびしいだけではない、イエスは人類のために犠牲となった。それは人類への愛である。そして聖書に描かれるイエスは人間とともに一緒に歩む、やさしい神なのだ。神の沈黙は冷たく、人間を見はなしたように見える。でも、それは物事の一面でしかない。かなしみのなかに希望があるのではないか。神はイエスのように人間を愛している。それは愛であり、いつも人間に注がれている。そのようなイエスのようなやさしい神はたしかにいる。遠藤はこうした信仰を読者に伝えたかったのだと思います。

遠藤周作が亡くなって27年になります。遠藤の遺した作品を読んでみるのは意味があることでしょう。世界が混乱し、さわがしいいま、きびしい神の沈黙ではなく、やさしい神の愛を感じてゆきたいものです。ごきげんよう。

草々
(散歩好きの文明批評家)