【コラム・斉藤裕之】「パパ、パクがなんだか汚れてるよ」と、正月に帰ってきた長女。確かに白いはずのパクは心なしか煤(すす)けている。いや確実に煤で汚れている。冬の間は暖かい薪(まき)ストーブの横で寝ているものだから、煙突掃除の際に落ちたわずかな煤や火ばさみに着いた灰が体や顔に付いて、まだら模様になっていて見るからに貧乏くさい。

しかし、だからといって特に洗ったりはしない。というか、犬を洗うというのはいかがなものかと思う。

相変わらず、変な時間に起きてしまうことがある。そういう時はとりあえず絵を描く。その日は、昔、海で拾ったシーグラス(海の波や砂で丸みを帯びたビンなどの割れたガラス)を描き始めた。ところがなかなかうまくいかない。2時間ほど悪戦苦闘したがやめた。

やめたというのはもう描かないというわけではない。今日のところはひとまずやめたということで、このへんは何となく釣りに似ている。今日は潮目が悪いとか何とか言いながら、次こそは釣ってやろうと思うのに近い。また、新たな獲物に挑戦したり、ポイントを探してみたり。入れ食いの時もあれば、坊主の時もある。そんないい加減な気持ちでいいのか?

いいのだ(この文章も然り)。もしもこれが生活を支える漁師なら、こんな悠長なことは言っていられない。だから、私の場合はポンポン船で雑魚を釣りに行く物好きな釣り人程度のレベルということだ。でも、その方が本来の釣りを楽しめるような気もする。

暖かくなったら洗ってやるよ

ところで、1歳半になる孫はどうやら虫が好きらしい。それじゃ、ここはじいさまにまかせとけ!ってなもので、クリスマスに木で虫を作ってやることにした。とりあえず、手ごろな夏椿の枝を見つけて、グラインダーで削り始めた。出来上がったのはテントウムシ。

ちょうど大人のこぶしぐらいの大きさの、ずっしりとしていい感じのテントウムシが出来た。木の色を生かして、赤と黒の模様を塗ってやった。孫はたいそう喜んで持ち帰った。

数日後、どうにもシーグラスがうまく描けない。思い切って、違うシーグラスに代えてみた。すると、今回はなかなかいい感じで描けた。それから、今度はダンゴムシを彫ってやることにした。もっと見栄えのいい虫もいるだろうに、わざわざダンゴムシ? どっこい、あの形の面白さを子供はちゃんとわかっている。

最近は高圧洗浄機なるもので家を洗っているのを見かける。米は無洗米というのがある。これは日本語の厄介なところで、無洗米というと洗ってないという意味になりはしないか。不要洗米とか。まあどうでもいいが、とにかく何でも洗えばいいというものではない。

白川郷の合掌造りだって煤けているし、京都のお寺だって煤けているからハンナリしてはるのだ。北欧では防腐剤としてわざわざ煤を塗料に入れると聞いたこともある。

先日は毛玉だらけのセーターを着ていて生徒にからかわれた。毛玉だらけのセーターも煤けた犬も、私にはチャーミングに思えるのだが。今もストーブのすぐそばで無防備な寝姿のパク。しょうがない、暖かくなったら洗ってやるよ、一応女の子だしね。(画家)