【コラム・先﨑千尋】今月10日、「水俣病闘争のジャンヌダルク」と言われた石牟礼道子さんが亡くなった。10数年前からパーキンソン病を患っていた。90歳だった。
11、12日の新聞各紙は石牟礼さんの逝去を大きく扱い、社説や1面下のコラム、識者の追悼文などを載せていた。私はそれらを脇に置きながら、彼女の『苦海浄土-わが水俣病』(講談社)と米本浩二『評伝石牟礼道子-渚に立つひと』(新潮社)を読んだ。
新聞の見出しは「水俣に寄り添い続け、声なき者たちの魂紡ぐ」「問い続けた真の豊かさ」など。作家の池澤夏樹さんは「『苦海浄土』は、非人間的な近代文明に対する強烈なアンチテーゼ。水俣を書きながら、現代世界が抱える問題を描き出した」と評している。
水俣病の「公式確認」は1956年5月。それより前から不知火海の魚を食べていた猫が狂い死にし、やがて漁民たちも次々に「奇病」にかかっていった。石牟礼さんはそこを訪ね歩き、息子が入院した水俣市立病院で、症状で苦しむ水俣病患者に出逢った。
その後、水俣病患者の検診会場に紛れ込み、共同井戸で女衆から話を聞き、糸をつむぐように『苦海浄土』を編んでいった。
「嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた。残念か。うちはひとりじゃ前も合わせきらん。手も体も、いつもこげんふるいよるでっしょが。それでじいちゃん(夫のこと)が、仕様ンなかおなごになったわいちゅうて、着物の前をあわせてくれらす。うちは、もういっぺん、元の体になろうごたるばい」。
石牟礼さんは患者たちを訪ね歩いて話を聞いたが、単なる聞き書きにはしなかった。言葉さえ奪われてしまった患者たちの魂を乗り移らせたかのように、「本人が心の中で語っていること、話したいこと」を写し取り、文字にしていった。
石牟礼さんは68年、水俣病裁判闘争を支援するために結成された「水俣病対策市民会議」の結成に尽力し、チッソ水俣工場正門前の座り込みに加わった。70年からのチッソ東京本社での座り込みは1年半に及び、「水俣病闘争のジャンヌダルク」と呼ばれたのだ。
石牟礼さんは日本最初の公害事件・足尾鉱山鉱毒事件を調べるために渡良瀬川を歩き、田中正造の姿を捜し、民衆の魂の声を聞き取ろうとした。そして「足尾鉱毒事件では民百姓は暮らしと土地を奪われた。70年後の水俣では、日本資本主義は直接個人のいのちそのものを食い尽くす。谷中村の怨念は幽暗の水俣によみがえった」と書く。
石牟礼さんは東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所の事故にも反応していた。効率に走る近代の枠組みは根本において変わってはいない。福島の事故はその現実を映し出した。足尾、水俣そして福島は1本の太い糸で繋がっている。
今、彼女が私たちに何を訴え、何を残そうとしたのかを静かに考えている。(元瓜連町長)