【コラム・山口絹記】この1年と半年ほど、しつこい肩こりに悩まされている。「痛い」のかと問われると、痛いというよりは、重いとかだるい、という方が近い。「耐えられないほどなのか」と問われると、まぁそれほどではない。思い返せば、母はひどい肩こり持ちで、肩こりからくる頭痛で寝込んでいることもあった。そんなものに比べれば、私の肩こりなどきっと軽いものなのだろう。

とはいえ、つらいものはつらい。痛みや苦しみなどというものは、どこまでも主観的なものなので、他人の痛みと比べて自分の痛みが軽いから楽になれる、なんてことは当然ないし、自分がどれだけ苦しんでいても、それを見た他者の苦しみが軽くなることもない。だから、むやみに苦しみを訴えないようにしている。

一方で、もともと、肩こりとは無縁の人生だったこともあり、肩こりに悩む人に出会っても、「ああ、大変だなぁ」程度にしか感じてこなかった私も、すっかり共感できるようになった。なってしまった。一緒になって「つらいよね」と言い合っても、肩こりがやわらぐことはないのだけど、ふとした拍子に寄り添えるというのは、これはこれで悪いことではないように思う。まったく難しいなあ、と思う。

苦痛を正確に伝えられない

2カ月ほど前から、ついに鍼灸(しんきゅう)院に通うようになった。自分的には最後の手段、という感じである。つらさは一進一退だが、それでも毎回親身になってくれる鍼灸師さんと、痛みの原因について話し合いながら、日々の生活を改善するようになった。

それにしても、痛みをことばで伝えるというのはなんと難しいことだろう。今までも、海外生活のなかで、自分の痛みや病気などの症状を第2言語で伝えることの難しさは味わったことはある。しかし、もっともっと繊細な意味で、そもそも「重い」とか、「だるい」というのはどういうことなのかと改めて考えてみると、「重いもんは重い」「だるいと言ったらだるい」以上の説明ができなかったりするのだ。

鍼灸師さんもプロなので、自分の感じる苦痛を正確に伝えられなかったとしても、治療に大きな影響はないのだろう。それでも、なんとなく通じてないな、と感じるときに覚えるのは孤独感で、つまるところ痛みというのは自分だけのものなのだなあと、しみじみ感じ入ってしまうのだ。(言語研究者)