日曜日, 1月 5, 2025
ホームコラム鎌倉街道とひまわり迷路《土着通信部》51

鎌倉街道とひまわり迷路《土着通信部》51

【コラム・相澤冬樹】某局の大河ドラマにあやかり、「鎌倉街道の13km」のタイトルで原稿を書いてもらえないか、研究者にお願いした。土浦市の上高津貝塚ふるさと歴史の広場の学芸員、比毛君男さんはかねて、「中世のみち 鎌倉街道」の企画展を担当し、市内の旧街道を熟知している。ちょうど土浦市内通過分が13km程度だろうとあたりをつけて持ち掛けたら、ほぼ的中の距離感だった。

比毛さんによれば、「茨城県内では、利根町、牛久市から阿見町・土浦市・かすみがうら市にかけて、つくば市の西部、桜川市の一部、ひたちなか市などに鎌倉街道と呼ばれる古道が伝えられて」いるそう。

土浦市内には鎌倉街道の伝承路があり、一部が「旧鎌倉街道」として市史跡に指定されている。そのルートは、市の南部では阿見町荒川本郷・荒川沖東・大房・中村西根・永国・天川・上高津周辺から桜川を渡ったと想定されているということだ。

で、頂戴したのが別掲の地図(本コラム用に再作成している)。ちょうど自分の仕事場近くだったので、少し歩いてみることにした。

土浦市南部の鎌倉街道=比毛君男さん提供に基づき作成

花室川べりまで行って「源兵衛橋」を探しあてた。車で通れないこともなさそうだが、橋のたもとにたどり着くのが大変だろう。路肩や河岸は雑草に覆われている。橋の北には永国台の住宅団地が広がる。この造成の際、発掘調査で部分的に古道の一部が調査されたのだという。

上高津の高台には土地改良区の水路が通っていて、桜川からポンプアップされた水がつくば市など近隣の水田に供給されている。鎌倉街道はこの水路沿いに通り、上高津丘陵を下った先で史跡の高井城跡脇に出て、6号国道に交差する。イオンモール土浦は目と鼻の先だ。

ここまでのルートはつくば市下広岡と接するあたりを通る。永国台より古い住宅団地、桜ニュータウンを除けば、開発の手はほとんど入っておらず、いかにも市境らしい放置された姿をさらす。耕作放棄地やソーラーパネル群、里山を侵食する竹林などなど。

そうした街道すじを歩くと、今度は迷路に入り込んだ。「ひまわり迷路」が開設を告げている。1年前はたしか梅雨明けに合わせてオープンしていたから、今年はひと月ほど早い。

すでに人の背丈以上に伸びたヒマワリが大輪の花を着けている。運営する中根農園直売所(中根剛代表)に聞くと、今年は約30アールの農地に10万本以上のヒマワリを植えたそうだ。1年前は大した入場料も取っていなかったが、今季は料金箱を設置し、大人200円、中学生100円(小学生以下無料)を求めている。駐車場なども整備した。

中根さんによれば「ヒマワリ以外にもトウモロコシやコスモスを植えて、11月ごろまで下広岡一帯でさまざまな迷路が楽しめる」ようにした。元来が休耕地対策として始めたものだが、農地として再開墾して作物を栽培する手間と時間はなかなかに大変。特にこれからは「除草」に半端ない労力がかかるという。

鎌倉街道も深い草いきれの中に埋まろうとしている。21日は夏至、今年の夏も暑くなりそうだ。(ブロガー)

◆比毛君男さん執筆の「鎌倉街道の13km」は総合科学研究機構(土浦市)の「CROSS T&T」誌71号に掲載される。発行予定は7月1日ごろ。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

2 コメント

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

2 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img
spot_img

最近のコメント

最新記事

何か別の方法を考えよう《続・気軽にSOS》157

【コラム・浅井和幸】 Aさん「普通、ここまで気を使って、優しい言葉をかけたら、ありがとうって言うべきじゃないですか?」 浅井「ありがとうと言ってくれたら、うれしいですよね」 Aさん「そうでしょ? じゃ、なぜうちの息子はありがとうと言わないのか、私にはさっぱり分かりません」 浅井「そうはいっても、理想的なコミュニケーションって難しいですよね。タイミングもあるし、それぞれの性格もあるし、親子との関係性もありますから」 Aさん「じゃあ、優しくしないほうがよいのですか? ありがとうぐらい言うのは当たり前じゃないですか?」 浅井「Aさんの優しさはいつも通りだと思います。先日も同じようなことがありましたね。そのとき、息子さんはありがとうと言ってなかったですね。だとすると、今回も当たり前に同じことが起こったと、捉えたほうがよいでしょう。何か別の方法を考えてみましょう」 大きくずらした方法を試す 私たちの生きている現実は実験室とは違いますから、全く同じ状況はそろわないし、全く同じ結果は起こしにくいです。ですが、やっぱり似たような要因が集まれば、似たような結果が現れます。 どうすればよい結果が出るか分からないときは、前とは少し違った方法を試す、ときには大きくずらした方法を試みるのも、よいかもしれません。同じアプローチをしても、相手の受け取り方が変わることで、今までと違う結果が出ることもありますが、自分の言動を変えることで別の結果が出やすくなります。 これを裏返すと、自分が同じ言動をしても結果が変わったとしたら、自分が思っている以上に、相手や環境などの要素が変わったということです。それに気づけるのは、より自分の目的にあった次の手が打てる人と言えます。 今、目の前で起こっている現実を「信じられない」とか「あり得ない」とかで片づけずに、実際に起こっている事実を踏まえて、あり得ることとして受け止め、それに対しどのようなアプローチをすれば、目的の状況に近づけるかを考えて試していく。 うまく物事が運ばないと感じることが多く、自分は運がないとか、呪われていると考えることが多い人は、このようなことを今年1年試してみてください。解決能力のある人に相談するだけでも続けてみてください。 人とうまく話し合いたい、仕事の能力を上げたい、金持ちになりたい、何か趣味を持ちたい、体力をつけたい、嫌いな人から離れたい―など、具体的な目的・希望があったら、具体的な方法が見つかるはずですよ。(精神保健福祉士)

「ひきこもり」も悪いものではない《看取り医者は見た!》33

【コラム・平野国美】前回(12月22日掲載)、高齢の患者さんから聞いた「不登校だった友だちは後に社長になった」という話を紹介しました。この話を聞き、人の多様性について興味を持ちました。不登校や「ひきこもり」を奨励しているわけではありません。多様性について考えるようになったのです。 誤解を恐れずに言えば、ひきこもりも悪いものではないと思えるのです。つくば市にはたくさんの研究所が存在し、多くの研究者が住んでいます。彼らと話していると、「社会的にバランスがよい人」もいますが、バランスが悪いと思われる方もおられます。 一般的に、コミュニケーション力や社会性がない人はマイナス評価されますが、自分の専門分野において独特の存在感があるのです。 ある研究職の方は南極越冬隊に参加されました。1年間を氷に閉ざされた所で閉鎖的な人間関係の中で暮らしていくことを、皆さんはどう考えますか? オーロラ見学に数日間とかなら分かりますが、あの極限空間の中で1年を暮らすとなると、どうでしょう? そんな環境の中で暮らした方からお話を聞く機会がありました。 「あんな過酷な場所に、よく行く気になれますね」との質問に対する答えは衝撃的でした。「あんな素晴らしい場所はないですよ。自分の仕事さえきちんと行えれば、誰とも話さなくても済むのです。私には天国です」と、笑みを浮かべて話されました。 この方、人付き合いが上手な人ではありません。南極のような閉ざされた世界の方が適しているのかも知れません。南極のように「自閉症気味の方が活躍する場所」もあるのだと思いました。 個々の資質は多様性の一面 哲学的に考えると、その個人の資質や、それに影響を与える遺伝子にも意味があると思うのです。カントの義務論によれば、すべての人間は尊重されるべき固有の価値を持っており、自閉症であろうと多動であろうと、我々社会は彼らの権利や尊厳を守る責任を負っているのです。 哲学者ハイデガーは、人間の存在はその多様性と複雑性に価値があるとしました。個々の資質は人間の多様性の一面であり、その独自性が社会や文化に多様な視点を提供します。ニーチェの生の哲学によれば、個々の存在はその独自の生きる意味を持っています。自閉スペクトラム症(ASD)の人も、自身の生きる意味や目的を見出せば、それが自身の幸福や自己実現につながると思うのです。 近年、多様性という言葉がよく使われますが、私の患者さんを通して個性を眺めていくと、いろいろ気づかされることがあります。(訪問診療医師)

1年遅れで「協議会」設置へ 洞峰公園 つくば市

昨年2月、つくば市が県から無償譲渡を受けた洞峰公園(つくば市二の宮、約20ヘクタール)の管理運営方法などを協議する「協議会」=メモ=が3月にも設置される見通しになった。五十嵐立青市長は当初、昨年3月に協議会を設置する方針を示していた。1年遅れてようやく設置される。 市公園・施設課によると、協議会の組織イメージや構成について、昨年12月20日開かれた第3回洞峰公園・運営協議会設立準備会で方向性がまとまった。同準備会はメンバーも会議自体も非公開で進められ、昨年3月、4月、12月に計3回開催された。昨年6月には準備会の提案で、洞峰公園の自然環境や施設などの情報を市民と共有するためのイベントを市が開催した(24年6月5日付)。 1年遅れた理由について同課は、準備会で、洞峰公園について市民の理解が足りてないなどの意見が出て、6月にイベントを開催し、さらにイベントで市民から意見をもらって、意見を反映させるため時間がかかったなどと説明している。 委員会と分科会の2層 協議会で協議する内容は、公園や公園内施設の維持管理や運営、施設の長寿命化、自然環境の保全のほか、教育面での活用などについて協議し、公園管理者である市に提案する。当初の具体的な議題として、体育館やプール、テニスコートなど施設の利用料金、樹木など植栽の管理方法、駐車場の拡張の検討などのほか、子供たちが自由に遊ぶプレイパークなど子育てや教育での活用方法の検討などが想定されるという。 組織は委員会と分科会の2層構造で、委員会のメンバーは公募せず、学識経験者4人程度、市民・住民団体代表が最大8人程度と、施設管理事業者、造園関係団体、無償譲渡前に洞峰公園の管理担当だった県都市整備課長、つくば市議、市の各分野の担当課など計20人程度で構成する。 分科会は①環境➁教育③施設管理・運営の3つに分かれ、委員会メンバーである学識経験者と市民・住民団体代表などがそれぞれリーダー、サブリーダーとなるほか、メンバ―を一般から公募する。公募対象はつくば市内のほか、公園を利用する市外からも広く公募。3分科会それぞれ10数人程度集まると想定しているが、現時点で人数は制限しない方針だ。分科会の協議方法は、それぞれ公募で参加した市民らが各テーブルに分かれて意見を出し合う形になるという。 分科会と委員会、公園管理者である市との関係は、分科会はそれぞれ、参加メンバーの意見を集め、委員会は各分科会から出た意見を調整して市に提案する。市は委員会の提案を受けて管理・運営方針を作成などする。 協議会設置に向けた今後の日程は、1月上旬ごろに市が選定した委員会のメンバー候補者に参加を依頼、続いて1月中旬ごろから3つの分科会のメンバ―を市内外から公募する。2月下旬には委員会、分科会のメンバーをそれぞれ確定し、3月下旬には協議会を設置したいとしている。 協議会の開催日程については各分科会を3カ月に1回程度、3つの分科会のいずれかを毎月1回程度開催するペースになるのではないかとしている。会議は委員会、分科会いずれも公開で実施する予定という。 市が洞峰公園の無償譲渡を受けるに当たってはこれまで、公園の維持管理費のほか、体育館・プール、新都市記念館の長寿命化費用などの負担軽減が市議会や市民説明会などで指摘されてきた。五十嵐市長は今後の公園管理などの在り方について協議会を設置して決めると議会や説明会などで説明し、2024年度当初予算に、協議会を年間10回程度開催する予定で委員20人分の謝礼として200万円を計上していた。協議会で方針が出されるまでの公園の維持管理や運営については現状を維持するとして、2024年度については、これまで県の指定管理者として同公園を維持管理していた事業者に随意契約により年間約3億7900万円で維持管理と運営を委託している。(鈴木宏子) ※メモ【協議会】2017年6月の都市公園法改正で、パークPFI(公募設置管理制度)などと共に新たに設けられた制度。都市公園の利用者の利便の向上に必要な協議を行うために設置することができる組織で、メンバーは、公園管理者、関係行政機関、関係自治体、学識経験者、観光関係団体、商工関係団体と、その他の公園利用者の利便性の向上に資する活動を行う者(住民団体、愛護会、自治会、指定管理者、公園施設の設置・運営者など)などで構成するとされる。各構成員は協議が整った事項について尊重義務がある。

心を動かされるということ《ことばのおはなし》77

【コラム・山口絹記】今、大みそかにこの記事を書いている。いつももっと早めに書いておけば、などと思うのだが、あたふたと文章を書いている時間も嫌いではなかったりするので、始末に負えないタイプのライターである。 私の書いた文章は、毎月第1金曜日に掲載される予定で、その週の火曜日には提出にすることになっている。実際に掲載される日は前後することが多いので、あまり時節にこだわった文章を書くことも少なくなった。なので、今回も年末とか年始とか、そんなことは関係ない、とりとめのないおはなしをしよう。 先日、ストリーミングサービスで適当に誰かの作ったプレイリストを流しながら本を読んでいると、ふと何語だかわからない曲が流れてきた。当然意味がわかるはずもなく、何度聴いても口ずさむことも出来ないのだが、不思議なくらい心に響いて、しみじみと聴きいってしまった。 音を伴わないことば 私たちの身体には、空気の振動をとらえ、意味とは別の次元で感受する能力が備わっている。歌詞の意味がわからないのにも関わらず、なぜか心を動かされるという経験は、きっと誰にでもあることだと思う。 音楽をやっている人間からしたら、至極当然のことなのだろうが、ことばという観点だけからみると、かなり奇妙なおはなしである。ことばというものの使い道は、相手に何らかの意味を伝えるものであるはずなのに、ひとたびそのことばが音として発せられ、メロディーになると、私たちはその純粋な意味だけに反応できなくなる。これは、とても不思議で、素晴らしく、そして恐ろしいことだと思う。 私の書いたこの文章は、音を伴わないことばとしてあなたに届くだろう。これが幸いなことなのかどうかは、私にはまだわからない。(言語研究者)